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ドイツの極右政党によって、マダガスカル計画が再燃しています。今度はユダヤ人ではなく、ドイツに移住した、アフリカの黒人や、イスラム教徒が対象です。

実は、ナチス・ドイツが計画した「マダガスカル計画」には、当時の日本陸軍も話に乗ろうとしていました。「フグ計画」です。これはユダヤ人をマダガスカルではなく、満州に移住させようという計画でした。

もし、フグ計画が実行されていれば、日本はアメリカとの戦争を避けられたでしょう。何故なら、アメリカ国内のユダヤ人が、日本への石油禁輸に反対するからです。日本が真珠湾を攻撃したのは、アメリカが日本へ石油を禁輸したからです。

つまり、日米戦争は起こらないので、日米戦争が無ければ、毛沢東の中国共産党が政権を取る事も有りません。つまり台湾が中国共産党に占領される心配も無く成ります。

日米戦争が無ければ、ヒトラーがスターリンと戦争を始めても、アメリカはスターリンを助けなかったでしょう。その結果、ロシアはドイツに敗北し、現在のウクライナ戦争は起こりませんでしたよね?
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マダガスカル計画とは、ナチス政権下のドイツにより立案された、ヨーロッパのユダヤ人をマダガスカル島へ移送する計画である。

ヨーロッパのユダヤ人がマダガスカル島に脱出するという考えはナチス独自のものではない。19世紀ドイツの東洋学者で反ユダヤ主義者でもあったパウル・ド・ラガルドにより1885年に提唱されたものが初であり、1920年代にはヘンリー・ハミルトン・ビーミッシュ、アーノルド・リースその他によって取り上げられている。

1904年から1905年にかけて、イギリス政府はシオニストグループに対し、アフリカ中央部のウガンダ(今日のケニアを含む)へのユダヤ人の移住を打診している。この英領ウガンダ計画はシオニストの間で真剣に議論されたものの、結局実行に移されることはなかった。イズレイル・ザングウィルらは「約束の地」での国家建設にこだわるシオニストから袂を分かち、現実的にユダヤ人が定住でき、かつ国家、少なくとも自治地域の建設ができる地域を世界中の候補地から探すべきだとする領土主義を提唱することになる。

ナチス・ドイツにおける計画の具体化
ナチス政権下のドイツの指導者たちもやがてこのアイディアに注目するようになり、1938年、アドルフ・ヒトラーにより計画は正式に裁可された。1940年5月、ハインリヒ・ヒムラーは彼の「東方の異人種の取り扱いについての意見」に基づき、次のように宣言した。「全てのユダヤ人をアフリカやその他植民地に大規模に移住させるという可能性を以ってしてユダヤ人の存在証明は完全に消え去るだろうと私は望んでいる。」

立案開始
マダガスカル計画についての議論は、1938年からユリウス・シュトライヒャー、ヘルマン・ゲーリング、アルフレート・ローゼンベルク、ヨアヒム・フォン・リッベントロップなどをはじめとする有名なナチの指導者、イデオローグらにより議題に挙げられていたが、具体化に動き始めたのは1940年になってからである。同年5月初旬よりドイツはフランスへの全面侵攻を開始し、6月25日にはこれを降伏に追い込んだ。ナチス党員でありドイツ外務省の外交官であったフランツ・ラーデマッハーはフランスとの講和条約の条項の一つとして、フランスがヨーロッパからのユダヤ人の移住先としてマダガスカルに利用可能な居留地を建設することを提案した。

ラーデマッハーによる計画
先だってラーデマッハーはドイツ外務省ユダヤ人担当課("Referat D III der Abteilung Deutschland"=ドイツ局第三課)の長に任じられており、6月3日に彼が外務省の上司マルティン・ルターへ作成した覚書には「望ましい解決策は全てのユダヤ人をヨーロッパから追い出すことだ」とまで断言していた。ラーデマッハーは、マダガスカルへ移送されるユダヤ人からは市民権を奪い、ヴィシー・フランス統治下のマダガスカル委任統治領の住民になるべきだと考えていた。このことによって、パレスチナにおけるユダヤ国家の建設を防げると考えていた。ラーデマッハーはさらに、ユダヤ人がマダガスカルへ移送されたならば、彼らは「アメリカにおけるユダヤ人の将来の良き振る舞い」を保証するための人質として利用できるだろうと考えていた。

6月3日の覚書を受け取ると、ルターは外務大臣のリッベントロップにこの議題を提案した。6月18日、リッベントロップに加えヒトラー自身がベニート・ムッソリーニにこの計画を語った。6月20日、ヒトラーは海軍総司令官のエーリヒ・レーダーにマダガスカル計画を直接伝えた。

ラーデマッハーはこの計画への費用を捻出するため、ヨーロッパのユダヤ人の全資産を最終的に整理するであろう銀行設立まで想定していた。ユダヤ人はマダガスカルとナチスが許可したヨーロッパの特定地域を除き金融取引を許可されず、その仲介に当たるのがこの銀行とされた。四カ年計画を推進するゲーリングのオフィスはマダガスカル計画の経済管理を指導すると考えられた。

加えて、ラーデマッハーは他の政府機関の役割を見越していた。リッベントロップの外務省はマダガスカルの支配権をドイツに委譲する結果となるようフランスとの講和条約を交渉するよう期待された。また外務省はヨーロッパのユダヤ人を取り扱うその他の条約を作成する役割を果たす。ヨーゼフ・ゲッベルス率いる宣伝省は本計画の情報部門を担当し、本政策に関連する国内外の情報をコントロールする。総統官房のヴィクトル・ブラック(英語版)は移送を指揮する。SSはヨーロッパからのユダヤ人の放逐を続行し、最終的にはマダガスカル島を警察国家として統治する。第三帝国はバトル・オブ・ブリテンに勝利し、アシカ作戦の成功でグレートブリテン島へ侵攻しこれを征服する、イギリス艦隊はドイツに接収されマダガスカルへのユダヤ人の移送に利用される。計画はこれらのことが実現するのを前提で立案されていた。

親衛隊による介入
ドイツ占領地域からユダヤ人の排除を指揮監督するため、1939年にゲーリングによってユダヤ人移住中央本部の本部長に任じられた国家保安本部長官のラインハルト・ハイドリヒは、マダガスカル計画が動き始めたことを知るや、リッベントロップにこの計画は親衛隊の管轄であると熱心に主張した。こうして親衛隊国家保安本部でユダヤ人の追放政策を担当していたアドルフ・アイヒマンも計画に参加するようになった。8月15日、アイヒマンはReichssicherheitshauptamt: Madagaskar Projekt(国家保安本部: マダガスカル計画)と名付けられた草案を公開した。この草案では、1年に100万人のユダヤ人を再定住させそれを4年以上続けることが要求された。同時にヨーロッパ中にいかなるユダヤ人も抑留しておくという考えは捨て去られ、親衛隊が計画の全面的なコントロールにあたるとされた。例えばドイツ以外の国はドイツがマダガスカルにおいて、ユダヤ人住民の「自治権」を与えるものとの見方を望んでいたが、アイヒマンは島の統治のために創設される全てのユダヤ人団体をSSの管理監督下に置くことを草案ではっきりと述べていた。

反響
多くのナチ高官、とりわけハンス・フランクなどポーランド総督府(ポーランド占領地のうちドイツ本国に組み込まれなかった残部を統治する)当局は、収容能力に限界があるゲットーにこれ以上ユダヤ人を追放するよりもはるかに望ましいとして、400万人のユダヤ人を強制的にマダガスカルに再定住させる見方を持っていた。7月10日の時点でポーランド各地からゲットーへの全ての移送、ワルシャワ・ゲットーの建設は一時中断させられていた。いずれも不必要であると思われたからである。

最終的な破棄
1940年8月にラーデマッハーはリッベントロップに対し、本計画を強固なものとするための専門家集団の編成を開始するため外務省にて会合を開くよう嘆願しているが、リッベントロップはこれを無視した。同じようにアイヒマンの草案もハイドリヒの承認を得られず放置された。やがてワルシャワ・ゲットーの工事も再開され10月に完成し開設された。ドイツ占領地域からポーランド総督府へのユダヤ人の追放も1940年の秋後半から1941年の春にかけて再び続けられた。

バトル・オブ・ブリテンの間のイギリスの抵抗と同年9月までにイギリスに迅速に勝利することに失敗したことで、ドイツの計画は完全に失敗に終わった。イギリスの海上輸送力をユダヤ人排除に利用するというドイツの思い通りにはならなかった。ドイツの海軍力では到底制海権を握ることは出来ず、そして戦争はいつまでも続いていた。「ゲットーを超える存在」としてマダガスカルを言及することはその後数ヶ月間、時折ある程度だったが、とうとう12月初旬に本計画は完全に破棄された。また、1941年6月からの独ソ戦において、同年中にはソ連軍の抵抗により東方への進出も止まり、ユダヤ人をポーランドやロシア占領地域からさらに東方へ追放することも事実上不可能となった。それらの結果が、領内ユダヤ人の絶滅を目指すことによって最終解決を図る、1942年1月のヴァンゼー会議につながっていく。1942年11月にはイギリス軍と自由フランス軍がヴィシー・フランス軍からマダガスカルを奪取したことで、この計画の議論は事実上すべて終焉を迎えた。

A 回答 (2件)

それが事実です。


死ぬまでこき使う収容所がアウシュヴィッツ。
殺すためだけの「絶滅収容所」というのはトレブリンカやソビボルなどで、到着したら殆どがすぐに殺されたので、規模は小さめです。
他にも他の強制収容所に転送する前に一時収監する通過収容所と呼ばれる種類の強制収容所もあります。
工業団地に併設されたアウシュヴィッツの他、マウントハウゼンのように石切場や鉱山の側に開設されて奴隷労働をさせていた強制収容所や、他にも反体制派「政治犯」を収容したオラにエンブルク強制収容所など、強制収容所には様々な性格があり、一括りに「ユダヤ人を絶滅させるために建てられた」ものではありません。
その辺の研究は、もちろんドイツの方が進んでいますから、アウシュヴィッツはユダヤ人を皆殺しにするための強制収容所ではないと言うことは普通です。それは真実を知らない人向けのプロパガンダです。
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いいえ。


アウシュヴィッツは「ユダヤ人を皆殺しにする強制収容所」じゃありません。
新設された工業団地に併設され、そこで奴隷労働をさせる「劣等民族」を収容する施設がアウシュヴィッツ強制収容所です。
ユダヤ人が最も多かったですが、他にもロマやスラブ人も多数収容されています。他にもドイツ人やフランス人でも、政治犯や精神障害者、反ナチスの聖職者なども収容されました。
収容時に選別が行われ、労働に適さないと判断された人たちはガス室に送られました。また、毎日の点呼時に「労働不適格」とみなされるとガス室送りになりました。
食事などの待遇は、人種により厳しいランク分けがあり、ドイツ人収容者にはかなりマシな食事が提供されたのに対し、「劣等民族」であるスラブ人やユダヤ人には汁だけのスープに僅かなパンという程度で、「劣等民族」はたちまち栄養失調に陥り、ガス室送りになったのです。
ですから、ユダヤ人が追放されていなかった場合には、代わりにスラブ人が穴埋めしていただけです。
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この回答へのお礼

アウシュヴィッツは「ユダヤ人を皆殺しにする強制収容所」ではないと言うのは、ドイツでは犯罪的発言です。

お礼日時:2024/02/05 20:06

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