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 アメリカだけでなく、イギリスなど、いくつか日本人からして「まずい」とされている地域はありますが、なぜ、これほどに「まずい」のか、その歴史的/地理的な特異性を考えると、「アングロサクソンの連中が作る飯はまずいんだよ」とかといったタイプの説明では今ひとつ満足できません。

 考えながら、疑問として沸いてきたトピックを少し丁寧に並べてみます。

1.【知識伝播問題】料理の技術が十分に広まっていないことが問題なのか?
 「料理」が、一個の伝達可能な技術である、と捉えた場合、技術伝播が行われるための社会条件としてアメリカやイギリスは世界有数の地域だと言える。識字率、出版・映像・インターネットといった知識伝達インフラはほぼ完璧。…にも関わらず、料理技術の平均的技術は非常に低い。「技術」の伝達インフラとして、出版や映像といったインフラが十分な効力を持っていないということなのか?
 代替的な説明として、a.ジーン レイヴの「正統的周辺参加」だとか、b.形式知と方法知の伝達システムは違う…とか……まあ、料理技術の伝播というのは、文字や映像のメディアだけでは十分ではない可能性があるということなのか?味に関する理解が多くの人に共有されるためのベースが一度できあがらないと、だめなのか?

2.【条件整備問題】素材が標準化されていないことが問題なのか?
 アメリカやイギリスでも、バーガーキングなど、ファーストフード店に入れば、まあ食べることのできる、標準化された味のものが出てきました。料理をする人間の技術手順を簡便にして、素材を標準化させていくことで味の水準を保つ、ということがチェーン店のやり方だと(たぶん)思います。そう考えた場合、スーパーなどに行ったり、仕入れを行おうと思っても思ったとおりの食材が手に入らないと、料理の教本がいくらあったとしても、うまくいかないということも起こるかもしれない。つまり、食品の流通、生産システムのほうに問題がある??

3.【味覚の多様性問題】食べる人間の味覚の多様性の問題なのか?
 味覚は、人それぞれ。地域でそれぞれですが、アメリカは人種や民族が多様であるため「味覚」も多様すぎるのかもしれない。だとすると、料理人が、日本人などの特定の味覚をもった人々の基準にあわせた「おいしい料理」を作るインセンティヴが削がれてしまったりするのだろうか?「日本人が美味いと思う料理」を作ってもぜんぜん評価されない?(だとしても、家庭料理まで不味い家庭が多いらしいのは、どうして?家庭料理は食べる人が一緒なのに…。)

4.【味覚の貧困】そもそもアメリカ人の舌が、あのクオリティの料理に慣れすぎているのか?
(これは、たぶん、そう)

5.【代替的価値の優位】味よりも、もっと重要なものがあるのか?
 アメリカ人にとっては、味よりもたくさん食べられたり、速く食べられたり、安く食べられることのほうが重要?
※1食、20$以上のお店を探して食べればそこそこの味のものは食べられた印象があったので、もしかしたら、アメリカでは、「不味くないものは、だいたい値段の高い料理」となっている???

6.【知らぬが仏】実は、あの料理はアメリカ人にとっては激ウマだから問題がないのか?
(さすがにこれはない……と思いたい)
 
7.【その他の歴史的経路依存】よくわからないけれど、その他の何か、歴史的経緯によって、こうなってしまっているのか。
 知り合いと、このネタで雑談していたら「貴族制が長く続いたことのある地域だと、けっこう美味いご飯が食べられるんじゃ……」「やっぱりアングロサクソンだから……」など、いろいろな話が出ました。


 …問題は思いつくだけは、思いつくのですが、実際のところ、どうなのか、ということはサッパリよくわかりません。
 地理学や歴史学の分野で、もしかしたらこうした社会的均衡が成り立ってしまっている状況について説明を試みた論文だとか書籍があるのではないか、と思ったのですが、もしご存知の方がいらっしゃったら、ご教唆いただければ幸いです。

 まったくの興味本位で思いついた疑問ですが、考えてみると、知識伝達・学習の理論/認知科学(味覚の理論)/組織論/歴史学/地理学等にまたがる、かなり幅も広く、奥深い問題だなあ、と思えます。
 たぶん、アメリカ人の中にも、アメリカの料理の水準を引き上げようという社会運動的な試みをしてきた人間とかが過去にいるんじゃないか、などということも想像してみたりしました。そういう人がどういう挫折の仕方を経験したのか、みたいなことがわかったりしたら、それでも面白いですね。
 特に急いでもおりませんので、お暇なときにでもご回答いただければ幸いです。

A 回答 (15件中1~10件)

 『大統領の料理人』という本があります。

クリントンとブッシュの2代11年にわたってホワイトハウスのシェフを務めた著者のドキュメントです。
 これを読むと、アメリカ人の食にたいする考え方がうかがえます。
http://book-sakura.cocolog-nifty.com/blog/2009/0 …

 なお、フランス大統領が公式晩餐でどんなワインをだしたか、それが招待された賓客の評価とどんな関係があるかについては、確か読売新聞の特派員が興味深い本を書かれました。(新潮文庫)
http://d.hatena.ne.jp/globalmanager/20071105

 イギリス人の自分の国の料理に対する評価は、いささか自虐的です。それでも、アイルランド人よりましだと付け加えますが。そのせいで、私はイギリスで生活している間、とうとうアイルランドに渡りませんでした。天気も、イギリスより悪いと言われたせいもあります。

 イギリスが7つの海にまたがる大帝国をつくったのも、イギリスの料理がまずくて、女性がベッドで冷たいからホームシックにならなかったのが原因だという説もあります。もっとも、これはフランス人の説ですが。

 それはともかく、カソリックが現世の楽しみに対しおおらかであるのに対し、プロテスタントは肉体的快楽を否定する傾向があるのは確かです。このため、おいしいものを飲んだり食べたりすることは厳しく戒められていました。ドイツでも、南と北で違いますね。

 イギリス人とフランス人の一番の違いは、食事の準備と食卓に座っている時間のちがいです。ロンドンに済んでいた私たちが、フランスに移って一番驚いたのはスーパーにならんでいる食料品の品数です。フランスでは、チーズだけでも霞んでみえるほど遠くまで、いろいろなチーズが並んでいました。

 イギリスの大学寮でも、1年中、数種類のメニューが繰り返しでてくるだけで、季節などお構いありませんでした。食事の質についてあれこれ不平をいうことは、紳士の所業ではないという雰囲気です。

 もっとも、最近はグルメが公認されてきたそうです。日本食も、健康にいいというだけではなく、味や見た目のよさが高く評価されています。ミシュランの高い評価も偶然ではありません。

 イギリス人が教会に行かなくなったことと、グルメ容認とは関係があるかもしれません。

この回答への補足

お礼を書いたあとの補足です。

今日読んだ、加藤裕子『食べるアメリカ人』にも、「ピューリタンが禁欲を是とするからだ」という説が紹介されていました。ただ、この本の中では、アメリカ移民たちの食事も18世紀、19世紀にはそれなりにおいしい時期が存在したはずなので、ピューリタン説だけですべては説明できない、との立場がとられています。(P10~P11、P188~P192)
 しかし、その一方で、ニューオリンズはアメリカのなかでもやたらとおいしい店がたくさんある、との記述(197P)があると同時に、ニューオリンズは、「十八世紀初めにフランス人が建設した街だ。その後一八〇三年にアメリカに割譲されるまでの半世紀ほど、スペインの支配も受けたこの街の文化には、裕福なフランス系やスペイン系の子孫たち(クレオール)の影響が色濃い。港湾都市として栄えたこともあって、ドイツ系やイタリア系の移民も多く、奴隷として連れてこられたアフリカ系や西インド諸島の黒人たち、そして後からやってきたアメリカ人と、さまざまな人種が混ざり合うニューオーリンズで、一種独特の食文化が生まれていったのも不思議ではない。」といった記述もされており、ピューリタン説を肯定はしていないものの、やはりイギリス系の移民とは違う人々が豊かな食文化を生む契機になったことについては、否定されていませんね。

※もっとも、加藤裕子さんのこの本も、特に研究書というほどの本ではなく、ゆるい読み物といったぐらいの感じの本です

補足日時:2010/01/27 15:30
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この回答へのお礼

なるほど!
プロテスタンティズムの倫理とグルメの精神、というわけですね。
それはもしかすると、確かにそうなのかも…と思えますね。

>食事の質についてあれこれ不平をいうことは、紳士の所業ではない

 なるほど。そういう規範意識はなんとなく、想像可能ですね。

>アイルランド人よりまし

そうなのですか…。
先日、1964年のアイルランドの史実をベースにして撮られた映画『マグダレンの祈り』を見て、アイルランドの宗教色の濃さには驚きました…
ただ、アイルランドはプロテスタントではなく、ローマ・カトリックではありますよね…?ちょっとそこら辺の事情に疎いので今ひとつ、よくわかっていません……。

>スーパーにならんでいる食料品の品数

 確かに。私は、パリもロンドンも、旅行で一瞬行ったことがあるだけなので、そこまで気にしていませんでしたが、言われてみれば、フランスのスーパーはけっこうきちんとしていたような気がします。これ、たぶん、単純な品目数とかを統計をとるだけでも出てきそうですね。(一つ一つの品のクオリテイについてまで言及しようと思うと大変でしょうけれど)
 鶏が先か卵が先かわからないところはあるものの、食材の数・流通量は重要ですね。

 大変参考になりました。ありがとうございました。
 参考書籍もありがとうございました。

お礼日時:2010/01/26 11:12

「イギリスの天気と料理に耐える者は、すべてに耐えることができる」(ジェームス ボンド)



再度の参戦です。

 『バベットの晩餐会』(1987)という映画があります。原作は「ちくま文庫」
あらすじ
http://coda21.net/eiga3mai/text_review/BABETTES_ …

 この映画はデンマークの話で、根源的な食の力の賛歌とも、プロテスタントの快楽抑圧的な倫理にたいするカソリック的人生肯定主義の優位性を謳ったものともいえます。(高橋哲雄『東西食卓異聞』)
 修道院がおいしいワインを醸造していたのも傍証になるでしょう。宗教起源説がやや劣勢のようなので、応援に一筆。

 おふくろの味といわれるように、親子伝承説も一考に価します。
 労働者階級はともかく、中流以上では、親子が一緒に食事をするのは日曜日のお昼と決まっていて、それ以外は毎日、朝はシリアルとミルク、夕方は煮込みとジャガイモです。遠足ぐらいは心づくしのお弁当かと思ったら、パンとチーズ、それにリンゴの丸かじりなのに驚きました。

 以前は、どの家にも調理用の巨大ストーブ(Aga Cooker)が加熱の主役でした。これでは焼飯や焼き魚はできません。その代わり、グツグツ煮るのは得意で、ゆですぎの野菜や、何度も温めなおしたシチューなら手間がかかりません。お世辞でほめると、何杯でもお代わりが出てくるので用心が必要です。

 イギリスや北欧では、親しい友人や大事なお客は食事に自宅へ招きます。アメリカも同じでしょう。このため、ホテルで食事するのは逃げる心配の薄いセールスマンか観光客に限られます。ラテンの国々では、家族の祝い事や遠来の客はレストランに招きます。主婦がお客なので、味や値段には気を使い、レストランの食事の質と量は向上します。北の国のホテル付属のレストランは部屋数にくらべ小規模ですが、南では、レストランに若干の部屋が併設されている感じです。
 なお、自宅に招くと言っても、イギリスではケイタリングが発達しているため、台所さえあれば、調理道具、食材、食器まで持参で料理し、給仕も後片付けも全部引き受けてくれます。京都にも、お茶席で懐石料理を出す仕出し屋(辻留が有名)がありますが、他の都市ではどうしているのでしょうか。

 それではイギリス人が料理に無関心かというと、そうでもありません。数人の友人と調査のためフランスを旅行したことがありますが、夜になるとメニューハンティングと称して店の正面に貼り出しているメニューを丹念に見て歩きます。店に入っても、注文を決めるまで相当な時間をかけます。右に同じなどという決め方は、まずしません。一種の執念ですね。

 アメリカでも、先に紹介した大統領の料理人が書いているように、洗練されたクリントン家と、テキサス丸出しのブッシュ家の違いは大きいようです。ヨーロッパでも、コカコーラ、マック、ケンタッキーは食に関する素養が欠けているアメリカと日本人の旅行者向けだと受け取られていました。

 しかし、世界を制覇するのは、味に鈍感な国民ですね。日本人でも、お茶はどこに限るとか、どこそこの寿司を食べたら他には手が出ないという人々は、結局、日本に帰りました。日本の海外進出が本格化し、食材や日本レストランが増えて漸く定着したように思われます。もっとも、中華料理の進出に助けられたところも見逃せません。

 

この回答への補足

ありがとうございます。2010/02/10時点で、これ以上回答も出てこないようですので、これで一旦回答を締め切らせていただきたいと思います。

おおざっぱに、いま私の頭の中にある仮説を整理すると、

この仮説は「あり」かもなと思ったものを順に挙げると、

1.プロテスタント仮説:プロテスタントの地域はまずいのではないか。
2.「ファストフード」のネガティヴ影響仮説:1950年代以後、缶詰や冷凍食品などが普及した
3.味蕾の幼少期形成仮説:味覚にとって重要な「味蕾」の数は幼少期に形成されるため、<家庭の味>として、家庭内伝達が強力に行われるため、文化差として固定されやすい。そのため、青年期以降の人々の集団的・文化的味覚がダイナミックに変更されるような可塑性が低くなりがち。(ただ、もちろん、年齢による味覚の変容問題もあり、細かくはよくわからない…。)

 の順です。いずれの説も、単独で全てを説明しきれる説ではありませんが、プロテスタント説は、いろいろな面で説得性が高いように感じられました。うまくデータをとって重回帰分析か何かをやってみたら、けっこう重要な変数だとして認定可能なんじゃないか、という気はしました。

 また、上記の3つの説よりも、疑問は残るものの一定の妥当性があるかもしれない、と思えた仮説として、

4.「帝国」形成期仮説:一次産業が重要な産業だった時期に帝国形成した地域は強いのではないか。
5.アングロサクソンの民族文化仮説:アングロサクソンの人々は、昔から大味。

 の二つがありました。「帝国」説は、案としてのオリジナリティはあり、面白かったのですが、疑問が多く残っています。アングロサクソンの民族文化説については、経験的にある程度肯定できるかもしれない…という程度のところはありますが、説明の仕方次第ではただのいい加減な俗説になってしまう側面が高いですので、説明の仕方に満足できなかったというところがあります。
 日米文化比較論でも、青木昌彦のように移行コストの計算などにまで踏み込んで詳細なモデル化を行う比較制度論だとか、山岸俊男さんのような大規模心理統計を根拠にしているようなものまで行くとだいぶ説得性が高いとは思っています。しかし、一歩間違うと、「日本人論自体が、社会的に構築された言説にすぎない」という批判にそのまま当てはまってしまいます。ですので、少し注意して議論を取り扱いたいな、と感じています。

 また、今のところ私がダイレクトに否定的な仮説としては

6.味蕾の数の生得説:アメリカ人は基本的に味蕾が少ない

 については、かなり疑わしいものだと感じました。
 味蕾の数については「幼少期に形成される」という環境変異的な立場をとるのと、生得説的な立場をとるのとでは話の構成が大きく変るわけですが、生得説になってしまうと、ほとんど根拠の薄い差別的な誤解の入った説に議論が変容してしまうので、ここは注意深く取り扱うべきところだろうと感じています。実態として味蕾の数に差があるという話と、それが「生得的」なものかどうか、という話は分けて論じないと怖いですね。

 また、「知識伝播」「技術伝播」に関する補助的仮説として、いくつか興味深かったものをメモしておくと、

A.顕示的消費の問題:服飾のような露骨に顕示的な消費、家のような消費とで文化伝播プロセスが違うのではないか
B.標準化の強み:アメリカの食料は、標準化できる部分に関しては「まずい」どころか、世界最強(マクドナルド、KFCなど)

 といった点でしょうか。
 上記のような理由から、blackhillさんをベストアンサー、tanuki4uさんを次点とさせていただきました。

 たくさんのご回答をいただきありがとうございました。
 また、最後に繰り返しますが、味覚の多様性は尊重されるべきことである、という点については質問者は強く同意します。この点について誤解をうむような質問の仕方であった点については改めてお詫びさせていただきます。

補足日時:2010/02/10 18:11
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私は個人的に他国文化をただ観念や思い込みでどうこう批判するのは好きではありません



例えばカレーライスという日本の食文化の代表のようなものがありますが
そのルーツはインド料理ではなく、イギリス料理です
また肉じゃがも明治時代の東郷元帥がイギリス留学中に食したイギリスの“旨い”ビーフシチューを真似て作るよう命じて出来た失敗作です

生野菜を食べる食習慣もアメリカが起源でそのため“フレンチ”ドレッシングなどドレッシング類がアメリカで発達しました

かえって日本の食文化を考えると多くの食材は明治以降、特に戦後に入ってきたものであり
調味料も醤油や味噌は江戸中期以降に出来上がったものです

かつてチンギスハーンがまだ敵に追い立てられやむなく魚を食べざるを得なくなったとき
こんなマズイものはないと言ったそうです

食文化はその地の環境や長い間に培われた人の感覚によって決まるのではないでしょうか?

この回答への補足

「お礼」を書いたあとの補足です。

こちらに批判する意図はない…ということをご了解いただけるかどうかはさておき、

>食文化はその地の環境や長い間に培われた人の感覚によって決まる

という前提を考えた場合、「新しい食材」「新しい料理」が異なる食文化に流入してくるプロセスというのは、一体、どういう作用がはたらく必要があるのだろうか? というようなことを私は考えています。
おっしゃられているとおり、日本の食文化も、明治・戦後で大きく変容を遂げているわけですよね。マクドナルドとかケンタッキーとかみたいな、アメリカのファーストフードも、日本に展開している。
 確かに、味覚の多様性はきわめて重要なことで、味覚の多様性を前提とせずに、同じ料理が世界展開するだとかっていうことは考えにくいですが、「味覚の変容」も考えないと、食文化の変化が捉えられないのではないか、と考えています。
 質問タイトルは、アオってしまった側面が強いですが、そもそもの裏側の問題意識はそういった部分です。ご了解いただければ幸いです。

補足日時:2010/01/27 20:03
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。
このタイトルがちょっとアオリ気味だったので、こういうご回答をいただくのは了解しているのですが、決してアメリカへの「批判」ではありません。前述のお礼に書かせていただいたとおり、もう少し穏当な問題意識を書いておくと「まずい、と語られてしまうこと」「まずい、と観察されるようなことが起こりうること」ということです。

おっしゃられるとおり、味覚は各地のどういった文化の中で育つかによってまったく違うものだと思います。アメリカ人が、あれをおいしいと思っているのなら、それを「批判」しようという考えはとくにはありません。

お礼日時:2010/01/27 19:59

服飾、住居、食事


見せることを前提にしているかどうかの、人間の意識の関数だと思う。

他人に見せることを前提にすることによって、人間の意識関数とでもいうものが働き、外部に合わせて自己を変革する。

服飾はほぼ完全に他人が見ることを前提になっている。
サラリーマンがスーツを着て、リクルート学生が全員黒いスーツなのは、他人がソウ期待するからであり、外部に規範があるからではない。
住居は他人が来るものでもあり、他人が立ち入らない空間があるものでもある。
食事は、他人に見せながら食べるものではない。

18世紀までの帝国が、農業基盤で農産物=食材を集めることが主だったのに対して、19世紀の帝国は、生産様式を含めた文化を集めることが帝国の証。
イギリスとフランスとロシア
有名な美術館がありますが、私は、世界三大泥棒展示場と呼んでいます。アメリカの博物館とか美術館って、意外と充実していない。19世紀の帝国でないからだろうな。
20世紀の帝国は、人間を集めることが証なのかな。
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この回答へのお礼

泥棒美術館、とおっしゃられるのはよくわかります(笑)

>見せることを前提にしているかどうか

 それは大胆なお説ですね!面白いとおもいます。
 服飾に関しては、男性のスーツなどの場合は、確かにそうですが、「見られる」ことをどの程度意識したものであるかどうかは、実は社会階層やジェンダー差によっていろいろ変わるかな、とは思います。
 住居に関しては確かにどちらもありますね。
 食事は、テーブルマナーとかはよく問題になりますよね?(味については、おっしゃられるとおり、他人には関係がないですけれど)
 いろいろ反論はできそうですが、面白いとは思いました。ありがとうございます。

お礼日時:2010/01/27 19:56

堺屋太一氏の受け売りで、しかもほとんど読んでいない本なのですがよろしければ。


しかも数年前なので曖昧な記憶モードですが。

>>「日本人は細かいの好き」説は、歴史的にどの時点から、言えることなのか。
江戸時代中期、新田開発があらかた終わり、社会のパイが増えなくなった時代かと思います。
石田梅岩が
「人、三刻(6時間)働きて三石の米を得る。われ四刻働きて三石と一升を得る。なんと素晴らしき哉」と述べています。要はこの時代から、労働生産性を高めることが日本人にとって不可能になり、その結果勤勉を尊ぶようになったのではないでしょうか?
ここでいう勤勉とは、労働において労働生産性を求めない(労働生産性の低い仕事を厭わない)事だと思います。
石田梅岩の影響力が日本人の国民性をもたらしたとは思わないですが、私は江戸時代中期の頭打ちの社会が、日本人の現代の国民性をもたらしたと考えています。
堺屋太一氏が日本を創った12人という本で石田梅岩について触れています。
まあ問題は石田梅岩ではなくて、石田梅岩を通して現在の日本人気質がどういう社会背景によって作られたかを論じてるのでしょう。
料理とはほとんど関係ないと思いますが、日本人の国民性の形成という意味では面白そうな本です。興味があったら御一読をお勧めします。


アメリカ食品は”共働き率の増加と、標準化された便利な食品(缶詰や冷凍食品など)の普及がセットとなって、まずく「なった」”ですか。確かに現代まで続くスパムの悪評を考えると、当時の缶詰は今にもましてまずいでしょうね。そんなものばかり食べて育てば、味覚音痴にもなるだろうな。
日本の食文化の将来が心配ですね。
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この回答へのお礼

うーん、なるほど…堺屋太一ですか…。
日本人論自体には否定的ではないのですが、
「江戸に労働生産性の低い仕事を厭わないメンタリティが発生した」という説明は特に受け入れることは問題を感じませんが、
「そのメンタリティが<日本>各地に広まり、かつ現在まで持続した」ということを裏付けるための説明として、ちょっと、どうかなぁ、と思ってしまいます。
というのも、確かに、江戸時代の技術・労働フレームだと「新田開発の終焉が、成長の終焉だった」という説明がある程度まで妥当するのかもしれません。しかし、それでは明治維新以後の日本の近代化・工業化による成長期にもそのメンタリティは維持されたままになるのか?戦後の高度成長期の右肩上がりの時期にも、やっぱりそのメンタリティは維持されたままになるのか? といった疑問に、その説だけだと十分に答えられているという印象がもてないのです。

堺屋さんの本も手にとる機会があれば読んでみたいと思います。ありがとうございます。

お礼日時:2010/01/27 15:30

なんというかやはりアングロサクソンの特徴のように思えてしまいます。



イギリスとかアメリカは、大量の資源があり、逆にその資源を活かしきる労働力に不足していた国ですよね。まあだからこそ産業革命が起こり、またその流れに効率的に乗れたわけですが。
やはり料理にもそういった背景が反映されてしまい、手間隙がかからないこと、速やかに食べれることに特化してしまったように思えます。
これは単純に労働力不足の環境がその民族性を作ったのか、労働力不足が家庭にまで影響を及ぼし家庭料理を発展させる素地を失わせたのかは判然としませんが。

日本など完全に両国とは逆で、鎖国により資源が限られそれにより人口が限られ、人はいても働き先が無い環境でしたよね。だからこそ合理性とは程遠いたいした違いが無いような細かいところに有り余る労力を投入して、細かな違いを作るのが好きな民族になったかと思います。


アメリカやイギリスの近代における専業主婦率とかのデータがあったらどうなんでしょうね?
家庭料理のレベルと専業主婦率に相関がありそうな気はするけど、料理のレベルなんて数値化できないしなあ。

この回答への補足

[お礼を書いたあとの補足]

 いまamazonから加藤裕子『食べるアメリカ』(大修館書店、2003)という本が届いたので、ぱらぱらとめくっているのですが、
 ここでは1950年代のアメリカにおける共働き率の増加と、標準化された便利な食品(缶詰や冷凍食品など)の普及がセットとなって、この時期からアメリカの食品はまずく「なった」のだ、という説明がなされていますね。料理のレベルは数値化はできませんが、たしかに冷凍食品や缶詰の流通量なら統計にとれそうです。
 ※ちなみに、加藤裕子さんによれば、1950年代に入るまで、むしろアメリカの料理は「実はそんなにまずくなかった」という説明になっていて、1950年代に入って、料理(というか食材)が標準化されたことでむしろ「まずくなった」のだ、ということだそうです。

補足日時:2010/01/27 11:16
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

うーん、なかなか解けない説の一つですね。
「アングロサクソンは合理性重視、日本は細かいの大好き」は、ある意味で、よく広まった説ではありますが、個人的には、「日本人は細かいの好き」説は、歴史的にどの時点から、言えることなのか。どういったドメインにおいてある程度までもっともな議論なのか……がちょっとよくわからないんですよね。
 あと、なんというか、説明の面白みとして、この説を採用するとあまりにも、なんでも放りこめてしまうことが多くて、分析的に考える契機を失わせてしまう気がしております…。この説がまったくダメ、だとまでは思わないのですが、「日本人の細かさ」にも「アングロサクソンの合理性」にもいろいろと濃淡があるので、この説を採る場合、もうちょっとは強いエヴィデンスがないと、懐疑的になってしまう自分がいます…。

 せっかくお答えいただいたのにすみません。

お礼日時:2010/01/27 09:25

料理なんてものは、典型的な顕示的消費財であると考える。


顕示的消費の経済学 (単行本)
ロジャー メイソン (著)

皇帝なり王なり貴族が「おれってこんな食材使っている」
エピソード的には西太后の象の足料理
※ 西太后だったかはちょと記憶が定かでないが、見たことのない食材「まで」食えるというのが、支配者の視覚的な権力表示である。

産業革命以前においては、貴族階級以外は基本的に飢餓ライン上であり、中産階級とか庶民とか考える必要はない。
※ 江戸時代の過去帳の調査では、一般庶民の最多死亡時期はコメが取れる直前ですので、食をたのしむという段階ではない。
これは日本だけでなく、マルサスの罠は、産業革命までは世界中で発生していた。

上記から、料理法等の伝達に関して言えば
貴族階級では、婚姻によって料理法が伝達しています。
世界史で有名なところでは、メデッチ家からフランス王家への嫁入りで、イタリア料理がフランス料理に伝わっています。
これらの伝達は、産業革命以前。この段階で、帝国として食材・料理法のスタンダードを築いたのは、三大料理の国家。
産業革命以降は、中産階級が生まれます。産業革命の余剰による生活の豊かさを享受が可能になります。
その時、モデルとなるのは、自国の貴族層なり支配層であって、他国ではありません。産業革命進行の時代=19世紀が国民国家成立の時代と同じなのです。文化のカテゴリーで言えば、音楽史における国民楽派の時代です。音楽先進国ドイツ・フランス・イタリアの音楽よりも自国の音楽がよいという考え。料理については誰も論考していないようですが、音楽同様に、料理も国民料派とでもいう意識だったのではないかと思う。

料理法の伝達
● 産業革命前
対象は、貴族層・支配層のみで、婚姻等によって
● 産業革命後
対象は、新たに叢生した中産階級まで広がったが、その中産階級の目線は、自国の貴族層、支配層
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この回答へのお礼

>その時、モデルとなるのは、自国の貴族層なり支配層であって、他国ではありません。
>音楽同様に、料理も国民料派とでもいう意識だったのではないかと思う。

ありがとうございました。とても参考になりました。
私も、料理伝播プロセスについて、一番整合的な説明がありうるとしたらおっしゃられているようなことを考える他ないのかな、と思いました。
国民楽派の成立については、不勉強ながら存じ上げませんでしたので、国民楽派についてちょっと勉強してみます。

ただ一応、少しだけまだウズウズとしている点をメモ的に書いておきますと、音楽・文学・絵画といったタイプの庶民の生活とはダイレクトには結びつかないタイプの「文化」において、国民国家的な世界観が浸透していった・させられていった歴史があることはなんとなくわかるのです。………が、もう少し生活とダイレクトに関係した各種の技術領域――服飾、住居、食事――というものを考えてみると、
・服飾に関してはかなり世界的に画一化が進行してしまっている
・住居は、…和洋折衷状態だったりして、ローカルな経路依存性にけっこう縛られているけれども、そこそこに画一化が進行中(?)

……と、その中で食事だけは、まだ、だいぶローカルな経路依存性に引きづられえいる度合いがだいぶ高い。顕示的消費という側面も確かに、あるけれど、服飾に関しても住居に関してもそれは言えるので…うーん…、それぞれの技術伝播のしやすさ/しにくさのグラデーションの問題をどう考えればいいのだろうか、などということをぼんやり思いました。

 いずれにせよ、tanuki4uさんのおかげでだいぶ思考をすすめるための素材をいただけました。ありがとうございました!

お礼日時:2010/01/27 09:12

農産物が産業の中心であったのは19世紀初頭までであり、それ以降は産業の中心は工業製品になります。


いろいろな言い方もありますが、世界三大料理と言われているのは、中国・トルコ・フランスと言われています。この三カ国の共通点は、産業革命の直前、つまり農産物が産業の中心であるときに帝国を築いたことです。
中国は清帝国
トルコはオスマン帝国
フランスはルイ14世以降のブルボン王朝
帝国とは、その広大な領土から数々の食材を集めることができることであり、集まった食材によって、皇帝に出す料理が作られた。皇帝に出す料理が世界三大料理のオリジンです。

産業革命以降は、料理は、国富の主要なアイテムではなく、One Of Themであり、料理人ごと持ってくれば良いくらいのレベルのもの。
だから、世界で一番うまいインド料理はロンドンであるとも言われています。
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この回答へのお礼

なるほど!
単に国家として強力かどうか、ということではなくて歴史上のどの時期に強かったか、というのが重要ということですね。
そう考えれば、ローマ(イタリア)やスペインの食事がある程度、評判が高いことの説明にもなりますね。これは確かに説明力が強いですね。

一方で、この説明で網羅できなさそうなのがモンゴルなどの地域ですが…まあ、モンゴルはモンゴル料理ではなく、中国料理の一部として吸収されてしまっているということですかね。



 それと、この説明を採用した場合に、私の中で、さらに疑問として湧いてくるのは料理技術の伝播プロセスをどう考えればいいのか、ということなんです。
 帝国形成の時期や、貴族制を変数として用いることで、富裕層の食文化が豊かなものであったことについては確かに一定の説明力を持ちます。皇帝や貴族がいいものを食べていたということは理解できる。
 しかし、その一方で、必ずしも富裕層に限定されないような、もう少し幅広い社会階層の食文化の水準まで説明しようと思うと、帝国や貴族といった要素だけに注目するモデルだと中流家庭ぐらいの食事がそこそこにおいしかったりする理由まではまだちょっとよくわからないな、という気がします。アメリカやイギリスであっても富裕層の人々は、いい食事を食べていると思いますし、富裕層だけに絞って考えると、ちょっと頭が混乱してくるところがあります。
 中国、トルコ、フランスといった地域で中流の家庭が食へのこだわりを持った時期が、帝国形成期のことなのか。それとも、近代化の中で宮廷料理の技術が出版書籍などのメディアを介して伝播したのか、ということによって話の捉え方がだいぶ違うだろう、という気がするのですね。
 近代化の時期に中流の家庭にまで料理の技術が伝播した、というのであれば、同じ「技術」がどうしてアメリカやイギリスにそのまま伝播することができないのかが疑問になります。
 一方で、帝国形成期に中流の家庭にまで伝播したというのであれば、その技術伝播を支えたのは何だったのか、ということが疑問になります。数万部を刷り上げるような印刷技術が無くとも、昔の限定された部数の書籍を回し読みしたり、口伝などによる方法での技術伝播で十分だったということになるのだろうか?

 なかなか疑問が尽きません^^

お礼日時:2010/01/26 11:52

 なにかの本で読んだのですが、アジア人やラテン民族は味蕾が


発達しており、その他の民族は劣っているため、味覚に差がある
とのことです。ことの真偽はわかりません。

 なお、アメリカ飯が美味しくないことには争いはありませんが、
日本食が美味しいというのは日本的価値観でもあります。たとえば
タイ人から見ると、日本食は味が少なくて美味しくないそうです。
なぜならタイ料理では甘さも辛さも酸っぱさもすべて含まれている
のが美味しいわけで、日本料理は淡白すぎるというわけです。

 逆に日本人にとっては、タイ料理はなにを食べても同じような
味に感じるかもしれません。実際、日本は土壌的にコッテリした
ものや味のキツいものは少なく、薄口を大事にしてきましたからね。

※トロなんてのは戦後の食べ物です。いまの日本食と
戦前のそれを比べると、けっこう違いがあったりします。
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この回答へのお礼

味蕾説ですね。確かにググってみると、
味蕾の数は、幼少期の頃に発達するため、幼少期に形成された味覚がその後にまで影響するということがあるみたいですね。

ただ、

>ラテン民族は味蕾が、発達しており、その他の民族は劣っている

というのは、ちょっと素朴な民族主義が入ってしまいそうなアロリなのでいただけませんね。味蕾の数は確かに味の微妙な差異を感じる上で重要だそうですが、味蕾の数が多い少ないということは、単に多いか少ないかという差異であって「優れている/劣っている」という価値判断につながるのは、やや危険な気が致します。

>日本食が美味しいというのは日本的価値観でもあります。

それはもちろん、そのとおりだと思います。この種の味覚の多様性が大前提として存在する、ということについては一切、異論はありません。

ただ、味覚の多様性があるのを前提としたうえで、アメリカのごはんが比較的おおくの日本人にとって「<まずい>と感じられてしまうという現象」はなぜ起こるのか、ということです。

*繰り返しますが、「アメリカのごはんは、全てがまずい。劣っている」という前提で、疑問をいだいているわけではありません。

お礼日時:2010/01/25 20:41

>私は20歳ぐらいまでずっと、マクドナルドのハンバーガーがまずくて食べられないと思っていて、




マクドナルドは世界で一番愛されているレストランチェーンです。それをまずくて食べられないとは、質問者さんの味覚が世界平均からズレていると言わざるをえません。舌が醤油に慣れすぎてしまったのでは?

この回答への補足

【下記、「お礼」を書いたあとの投稿です。】

…しかし、No.9の方の回答と比べてみると、BearCaveさんのこの回答は興味深い指摘ではありますね。

 トルコやフランスといった、19世紀初頭よりも以前に帝国を成立させた地域が、多様な食文化を形成しているのに対して、アメリカは第二次産業と、市場メカニズムが隆盛してきた20世紀にあって覇権を握った国だよなあ、としみじみ思えますね。
 いくら中国料理やフランス料理が高級な食文化として熟成していると言われても、マクドナルドやケンタッキーのような世界展開の仕方はできなかったわけですものね。標準化・大量生産を前提とした食料調達/流通システムでは大勝利している、というのは確かに間違いなくて、「標準化/大量生産される食」の世界は、本当にアメリカが強い。吉野屋とかもアジア各国で強烈に展開していますけれど、マス・マーケットへの食文化の進出という点では、チェーン店のロジスティックスとかを考えぬく能力を鍛えてきたアメリカ・日本といった地域が本当に強いですよね。食産業の「工業化」というのは、ドキュメンタリー映画『 the daily bread(邦題:いのちの食べ方)』なんかを見ると、本当にありとあらゆるレベルで過激に進んでるなーという気がしますけれど、20世紀~21世紀の「食」の強さっていうのは、食の生産から流通まで一元的に規模の経済でもって大量生産・大量消費をしてしまえるシステムを作りあげた、ということなんでしょうね。
 マクドナルドのような食材の生産・流通・加工まで全てを標準化するような仕組みは確かにすごいですし、ある意味での味の保証はできていると思います。……が、もう少しさらに世界史的な視点を加えて考えてると、有名なドキュメンタリーの『人間は何を食べてきたか』という、世界各国の食の歴史を辿るような番組がありますけれど、ここで撮られているのは、大量生産・大量消費されなかった時代の食文化の軌跡ですね。そういうところから、食の歴史というのは積み重なってきて現在に至っていると思うので、自給自足に近い世界から大量生産・大量消費の世界に近いレベルの事態までがどのようにしてなだらかに連続しているのか、みたいなことまでが見えてきたら、面白いな、と思っております。

補足日時:2010/01/26 14:19
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この回答へのお礼

そういう言い方ももちろんできるとは思います。
…ええっと、ただ、なんというか、別に、私がアメリカのご飯が「嫌いだ」か、どうかという価値についての敵対的な論争をしたいわけではないので…、ご了承いただければ幸いです。

お礼日時:2010/01/25 20:15

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