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古典の「大和物語 旅寝の夢」で、橘良利がよむ

ふるさとの旅寝の夢に見えつるは
うらみやすらむまたととはねば

とありけるに、みなの人泣きて、えよまずなりにけり。

という文がありますが、なぜ「ふるさとの」歌を聞いて人々は泣いたのですか??また、この人々とは誰のことを言っているのですか?

旅をしているのは、宇多天皇と良利の二人だけだと思うのですが・・・

明日テストがあるので、わがままですが、詳しく、できれば早くお願いします。

A 回答 (1件)

宇多天皇(867-931)は、寛平九年(897)七月に、わずか32歳で、帝位をまだ13歳の醍醐天皇に譲っていますよね。

その二年後の昌泰二年(899)、仁和寺で出家しています(以後は法皇と称しました。《同号の初例》とあります)。橘良利は囲碁の名人としても有名ですが、宮中にあるときより、宇多天皇に仕え、この段にあるように、宇多天皇(このときはすでに太上天皇)の出家とともに自らも出家しているわけです。

藤原氏をめぐる当時の政情は、宇多天皇の略歴を見ていただければ分かりますが、要するに法皇(宇多天皇)の身としては、都を追われた(形としては自ら退いたのであれ)、出家、旅、という漂泊の思いがつねに胸中にあったと想像されます。また、良利はそのような宇多法皇の旅の身に寄り添っているわけです。

「いと心細うかすかにておはしますことを思ひつつ、いと悲しかりけり。」

大変心細そうに消え入らんばかりのご様子を思いやって、ひどく悲しい気持ちを覚えた。そこで、「ひね」というこの土地の名を読み込んだ歌を作ってみよという法皇の言葉に応じて、

「ふるさとの旅寝の夢に見えつるはうらみやすらむまたととはねば」

後にしてきた故郷が旅で寝る(「たひね」が「ひね」を読み込んでいる)まに見る夢の中に現れたのは、私を恨んでいるからでしょうか。私が二度と帰る気がないのを知って(いずこまで参ろうと、私はあなたさまにどこまでもおともいたしますぞ)

旅の空の心細さに合わせ、宇多法皇の境地、それでもどこまでも添い遂げまするという良利の心に感じて人々は泣いたのではないでしょうか。

「後まで候ひける。」

法皇の後々、お隠れになるまでおそばにつかえつづけた。

貴人、まして法皇の旅(巡幸)ですから、二人だけの旅というのはありえません。良利のほかにも幾人かともがあったはずですし、内裏より遣わされた「少将、中将」も拒まれても帰るに帰れず随行していたのではないでしょうか。

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