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ぼくたちはどうして生まれて、死んだらどこへいくのだろう?

A 回答 (21件中1~10件)

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お答えします


貴方はまだ若い人かと思います。人間には疑問が生じる時が有ります。それが、膨らんで悩みにまでまでなる事があります。その時は本当の人生を生きていません。本当の人生を生きているときは、ただ生きて、ただ死んでゆきます。人生の目的はただ生きることなのです。それに疑問を感じると言う事を説明します。貴方の中には二つの意識が在ります。
貴方が今感じている意識そのものです。ですが、貴方が疑問を感じ始めたということが、その事を証明していると言えます。貴方の中のもう一人が貴方にその疑問を抱かせているのです。悩みと言うものは、二つの意識のその意識同士の矛盾なのです。その矛盾が大きい程悩みが深くなります。

その悩みを解消する方法を見つけた人がお釈迦様です。その原理を説明します。悩みはその一人の人の持つ二つの意識が対立もしくは矛盾しているのです、その事を例えば禅問答で説明します。
禅問答は判り難い事で、知られていますが、これの説明で少し判ると思います。これは知的解釈、或いは論理的な解釈は受け付けません。
それがどういう事かと言いますと、人間の脳の中にその理由を見出す事が出来ます。普段使っている脳は知的です、分別します、論理的です、しかしその論理が通用しませんここに訳が有ります。

禅問答が論理的でない理由はその脳の論理の尽くされた後、分別の根底が尽くされたあと、知的な脳が、ギブアップして降参しないと答えが出ないようになっているからです。その時にはもう一つの脳に或る意識が出てきて、答えを出してくれると言う訳です。その事を「見性」と言います。その時には二つの意識が出会います、その事によって、二つの意識の間にあったミゾが埋められます。すなわち矛盾が解消されるわけです。そのことを悟りが開くと言います。「絶対の安心」が得られると言います。
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父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる。


マタイによる福音書5章45節

全ては神のご計画なのです。神は正しくない人の命でさえも無碍に奪ったりはしません。
人は死んでも神の愛の下に生きることができます。大切なのはこの事実を信じることです。

参考までにダンテの『神曲』を読んでみてください。キリスト教的ではありますが死後の世界の事はわかります。
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この質問が、「困り度3:直ぐに回答ほしいです」だったので、bluecanさんが自殺とかしていないか、ちょっと心配でしたが、その後も回答されているようなので安心しました。

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過去にも似たような質問を見掛けました。


少し、私見を書かせてください。

他の方と被る部分も多いと思いますが、生まれたことは偶然で、一旦生まれると、生命体(ここでは人)には死なないように、子孫の繁栄(子供を生む)を願うように行動するよう、プログラムされています。
漠然と、死ぬのは嫌で、怖くて、長生きしたいと考えます。セックスはしたいし、子供も残したくなります。
で、死んだ後には、何も残りません。肉体は土に返ります。

これが、私の考えている「生と死」ですが、別の角度から考えたこともあります。
それは、質問者さんのような質問を(悩みを)持つ人が多く、というか、誰もが1度や2度は「生と死」についての疑問を持つのが自然です。
では、なぜ、そういった疑問を持つのか?

私は、人が、夢や希望や目標を持てなくなったときに、そういった疑問を持つことが多いように感じています。
仕事として、「生とは何ぞや。死とは何ぞや」と考えるのは、時を選びません。
が、普通の人が、そういった疑問を持つのは、自己の存在に疑問を持つというか、価値を見出せないというか、この先(将来)もよいことはなさそう・・・という心理状態のときだと思うのです。
つまり、質問者さんのような疑問を持っているときの人の状態は、夢も希望もない・・・。のではないでしょうか。
もちろん、質問者さんが、そうだという意味ではありません。一般論です。
夢も希望もないので、自己の存在に意味と意義を持たせたくなり、「生と死」を考えるという流れです。
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この問いを明確に答え、証明できたら、ノーベル賞ものですね。


もしくは、宗教団体の教祖として巨利を掴めるかもしれません。
なぜか、我々は、この地球の、日本の、昭和・平成時代にうまれました。偶然でしょうか?必然でしょうか?
そして、瞬く間の生を終えた後、どこへいくのでしょうか?
地獄とやら?
天国(極楽)とやら?
それとも『無』でしょうか?
その答えは、貴方の中にあります。内在してます。
ヒントですが、いや、やめときます。楽しみを奪っては気の毒ですから。
『解った』時の喜びは、貴方の財産です。
私は強盗にはなりたくないですから。
それでは。
神の子へ。
神の子より。
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私たち人間がどうして存在しているかというと絶対者なる神が私たち人間を創造し、生かしているからです。

私たち人間は偶然に存在し偶然に死んでいくのではありません。

もしそうであるならば、私たち人間には生きる意味も目的もありません。

しかし、私たち人間は神に創造され生かされているゆえにちゃんとした生きる目的と意味があります。

次に「死」とは何かということですが、
「死んだら終わり」とは、よく聞くことばですが、神のことばである聖書は、そう教えていません。聖書の中では、死とは、分離を意味します。それは、魂が肉体を離れることです。そして、肉体を離れた魂は、神のもとである天国に行くか、それとも、罪の裁きのため地獄に行くかのどちらかしかありません。実に、死とは、終わりではなく、永遠への入り口なのです。あなたは、あなたの創り主であるまことの神が存在されることも、天国や地獄が本当にあることも信じたくないと思われるかも知れません。

しかし、もし神も地獄も存在せず、人は死ぬと消えてなくなるのなら、死は、人を、悩み・苦しみ・悲しみから解放するための手段になってしまいます。「人は死ねば消えてなくなる」と、あなたが本当に信じているのなら、生きることがつらいときに、どうしても生きなければならない理由は、なくなってしまいます。

 しかし、人は、神によって創られているので、心の中では、死後の世界があることを知っています。さらに、自分の中に、「罪」があり、自分がとても天国に行くことができず、むしろ、罪は神によって正しくさばかれなければならないことを知っているのです。ですから、だれでも死を前にすると、自分が地獄に行かなければならないことを直感し、恐れ、何とかして死を避けようとするのです。

「死」に対してどのように備えるか。
 今、神が望んでおられることは、あなたが地獄に行くことでは決してありません。むしろ、神はあなたを天国に迎え、永遠にあなたを愛し、幸せにしたいと望んでおられます。では、人はどうすれば天国に行くことができるのでしょうか。あなたは、どんなに努力しても、がんばってみても、自分の力では、この、死という問題をどうすることもできません。しかし、神のひとり子である、イエス・キリストが、あなたの罪を赦し、あなたを天国に入れるために、この世界に来られました。そして、キリストは、十字架の上で、あなたの身代わりに、あなたの罪の刑罰をすべて受けて、死んでくださいました。さらに、三日後に、死の力をうち破り、よみがえられました。

ですから、だれでも、キリストを自分の救い主として信じるなら、罪が赦されて、もう決して地獄に行くことがなく、天国に行くことができるのです。そしてその人は、たとえ死を前にしても、なくならない希望と、本当の喜びを持つことができるのです。
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(1)映画館で突然目覚めて、ぼくたちはいまどこにいて、どこにむかっているのだろうって言っても


仕方ないです。
映画館に座っているということは、おそらく映画を観ることをどこかで選択して、今現に
映画は映し出されている。おまけに主人公は私自身なのだから
それでもって、シナリオも演出も自分自身というのだから、こんな凄い話はない。
ただ、常に制作費がちょっとたりないような気がするのだが。

(2)車の運転席で突然目覚めてぼくたちはいまどこにいて、どこにむかっているのだろうって言っても
仕方ないです。
運転席に座っているということは、おそらくどこかに向かうことを選択して、今現に
車は動いている。おまけに運転手は私自身なのだから
それでもって、カーナビはおろか地図も手元にはない。地図を売ってる本屋を探すために
走っているようなものだ。こんな不条理な話はない。
ただ、常に燃料がちょっとたりないような気がするのだが。
地図を手に入れるか燃料が先かいつも迷うところだ。

人生で突然おもいついてぼくたちはどうして生まれて、死んだらどこへいくのだろう?と言っても
仕方ないです。
生きているということは、おそらく生きたいという願望があって今世の生を選択して
今現に、メシを食ってクソを出して適当な服を着て布団で眠って、酸素を吸って生きている。
おまけに、意識の主体は私自身なのだから。
それでもって、何をやっても自由だといわれ、何をやるにしても自分で手にいれろと言われ
目の前には
「求めよさらば与えられん」
なんてご大層なおまじないのステッカーまで貼ってあって
あったまくっから、それをはがしたら
「天は自ら助くるものを助く」
なんて、二番煎じが出てくる。
まったくもって理不尽な話だ。一体オレに何やれっていうのよ。
それを考えるのが人生だって?そりゃメビウスの輪というかクラインの壷
どうどうめぐりが人生じゃないでしょ。
え?自分できめたらそのとおり進め?
きめられない人はどうすんのよ?
欲望の赴くままに生きていいのか?
え? いいの? ほんと?
やりたいことがみつからないんだよね・・・俺。
え?
昼飯何食いたいかって?そうだな、キムチのいっぱい乗った
韓国冷麺食いたいなぁ
え?
お洒落は何が好きかってか?
そりゃ、今はストリート系だけど、本当はポールスミスの
スーツで決めたいなぁ
え?
どこに住みたいかって
スマップの宣伝してるマンションとかいいよね。
え?
就職はどこがいいって?
そりゃマスコミ系、大手広告代理店がかっこいいなぁ

仕事は?
そうだなあ34までクリエータやってあとはフリーのコピーライターかな
それでもって最後は作家になる

あんた立派に夢あんじゃん。

あ、そうか@@
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私的人生観になりますが、


生まれたことに理由は必要ないでしょ、今生きていることに感謝しとけば十分。
死んだ後のことは死んだ後に考える。    
                    以上
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この質問でいくつか分からないことがあります。


まず「ぼくたち」ということですが、
(A)個々人の命のことをいっているけど、一般論として考えたいという意味でしょうか?
それとも、
(B)人類のような、生命の流れのようなものを議論されているのでしょうか?

回答者の皆様は(A)のような感じなので、その線で私も議論に加わらせていただければと思います。

まず、「ぼく」という存在ですが、その存在の基盤となるものはなんでしょうか?
単なる肉体でしょうか?「死んだらどこへいくのだろう?」とおっしゃっているくらいだから
違うんですよね。では、単なる肉体ではない「僕」ってと考えると、・・・

少なくとも、自分という意識があって、しかも、昔や今や未来においても
連綿と連なると思える「何か」であることは間違いないですよね
(なぜなら、質問者さんの質問はそれを前提としているから)。

であれば、「ぼくたちはどうして生まれて、死んだらどこへいくのだろう?」
という質問は時間の中でつながっていく「ぼく」の在り様が規定することであって、
決して、肉体(生物としての存在)のみで規定されるものではないと思います。

さて、「ぼくたちはどうして生まれたのでしょうか?」
そこには、こうして生きている自分に意味を求めようとする力(欲求)のようなものが含まれていると思います。
であれば、「ぼく」という「何か」は少なくとも意味を求める(必要とする)存在なのです。
しかし、その意味は求めることでは得られません。生きることによって作られるものです。
したがって、どうして生まれたかを知るためには生きなくてはいけないのです。

更に「死んだらどこへいくのだろう?」ということについていうと
肉体の消滅とは別に「ぼく」というものを考えているのだから、
それもまた「ぼく」の在りようによるのではなでしょうか?
時間の中で今日も明日も「ぼく」があるというのは、少なくとも肉体だけでなく、
なんらかの存在としての自分があって、それが、肉体の死の先にどのように存在するかは
その「ぼく」という存在を今日も明日も保証している何かが、その先(肉体の死の先)にどうなるか
ということだと思います。

たとえば、私という生物としての命さえ、私の親や今はもういない
祖先の方々から受け継いでいるわけですし、生き方だって、親から、
あるいは、周りの方々から受け継いで生きているわけです。
「ぼく」という存在が肉体だけでないとすれば、
そして「ぼく」が願わくば世の中に影響を与えていくことで、何かがこの世界に残るとすれば
それがその肉体だけ「ぼく」の一部であるといえるのではないでしょうか?

生きることにより「ぼく」という「何か」が決まり、それがその先どうなるかは、
自分の生き様に定規をあててるようなものなんじゃないでしょうか?
まずは、定規をあてがうモノを見出すこと、そして、それが世界とどうかかわっているかで
「死んだらどこへいくのだろう?」の答えが得られるのではないでしょうか?
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