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人に尽くされるのは、相手をしてもらってるわけだし、うれしいとは思うのですが、人に尽くすことに喜びを見出すことができません。
友達であっても、ペットを世話をするにしても、なんにしても、面倒としか思えません。
人の為に、例えば、薬を研究するとか医学を勉強をして・・等ありますが。
なぜなんだろう・・?って思います。(もちろん、非難するとかじゃないです)
ただ、感覚がわからないので。
尽くしても、望んでいても望まなくても見当違いの反応だってあるわけだし。

しかし、何かを愛するということを考えると、人に尽くせる人間になりたいです。
尽くす=愛するが繋がっていると思えます。
コツとか方法論とか理論的にあるでしょうか?

ボランティアすればいいという、抽象的なものはピンとこないので、遠慮ください。
なにかあればお願いします。

A 回答 (13件中1~10件)

> 早い話、尽くせる人は、打算的な人に利用されるだけではな


> いかと思えます。
> 打算とわかったうえで、自然に尽くせるってことを身に付け
> たいものです。

 そのような切り口がお好みなら、今度は経済面からの解説をしましょう。

 短いタイムスパンや狭い範囲で社会を見ると、あなたの言うような見方もできますね。しかし、現代の資本主義世界はおそらくあなたの人生より続いているし世界は地球規模なのです。

 実のところ、尽くせる人は、意識的か無意識的か分かりませんが、打算でそういしているという見方もできるのですよ。
 現代の経済の根幹をなす資本主義経済というものは、信用がその成立基盤の極めて重要な柱です。そしてこの信用とは、「尽くす」ことによってしか構築できません。
 他者の信用を利用して繁栄している人々がいないとは言いませんが、それを圧倒的に上回る量の経済活動が、信用の上に、すなわち「尽くす」行為の上に立って行われているのです。

 なぜそう言えるかというと、現金取引を除く取引は、相手を信用することによってのみ成り立つからです。信用せず、何かの担保を必ず抑えなければ取引を行わないようなことになれば、そのためのコストが膨大になるため、たいがいの取引自体がペイしなくなるのです。

 そして、現代では物の流通による経済(実体経済と呼びます)よりも、信用に基づく帳簿上の取引(マネー経済と呼びます)の方が、流通量は桁違いに大きいのです。つまり、世界中の多くの人が、見たことも無い取引相手を信用して、その取引相手もその信用に応え続けた結果、これだけの巨大経済が構築されたという現実があるわけです。

 「正直は最良の戦略である」という言葉は、政治に関する言葉ですが、同じことが経済についても言えるわけですね。

 相手の信用につけこんで利用することで、確かに一時的な利益は得られることも多いでしょうが、その人は、代償として自らの信用というはるかに巨大な財産を失っているのです。
 信用があれば、「次のチャンス」がありますが、信用がマイナスであればチャンスも何もありません。

 むろんこれは、統計的な話ですから、個々の事例においてはその通りになっていないケースも目に付くでしょう。しかしそれは、たいていの人が自動車事故には合わないけれど、個々の事例においては事故に巻き込まれている人もいるという確率的問題と、同じ構造です。

 結論として、「尽くす」人のも「利用する人」同様に打算で動いているわけです。「信用を勝ち取るほうが、信用を失うよりも先々得だ」という形で。
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この回答へのお礼

>結論として、「尽くす」人のも「利用する人」同様に打算で動いているわけです

そういうと、そう思えます。
理論を踏まえてない人は、「尽くす」ことがいかにも本能的な道徳的な博愛的な精神論で言っているようなものですね。表現方法がこんな感じで申し訳ないですが。
結果論として、尽くす人は自らが血肉を犠牲にしていると。
打算ありきで、尽くすってことが効果的・・ロジックを突き詰めていくと、すべては、計算ですね。

お礼日時:2005/08/23 02:30

参考意見が欲しいとのご要望に応えて、コメントを見て、思ったことをそのまま書きます。



結局は、「自信」の問題なんです。「自」分を「信」じること即ち「自信」です。
自信がなく、つまり自分を信じることができなければ、人間何もできません。ダラダラと指示されたとおりに動くだけの、ロボットみたいな存在になってしまいます。そこには自分の「意志」がない。自信があるからこそ、誰からの意見でも受け入れることができるわけです。柔軟に対応できる、硬い信念がそこにあります。

なにかをすればよくなる、とは、功利主義であり、打算です。計算すれば、今ある自分もそこからはみ出ることはできません。自由じゃなく依存です。功利的にそれを手にいれたら、どうなるのでしょう。また何かに依存したくなるだけです。いつまでたっても、自律できない。

自分で自分を愛することができなければ、他人を愛することはできないと僕は考えます。親が育児や教育を放棄するのは、子どもや赤ちゃんに対して、無条件に接することができないからだと思います。育児もそうですが、友達に尽くしたり、ペットを世話することに歓びがあるとすれば、それは、育てる歓びだと思うんです。つまり、自分自身が影響を与えている、この世界を創造している歓び。人間関係も、環境も、自分こそがプラスを影響を与えよう、築こう、そういう不遜な態度こそ、ホンモノだと僕は思うんです。それは、自分自身すら、成長していく歓びでもあるんです。つまり行動すること、生活すること、生きること自体に歓びを感じるんです。それはまったく無条件なものなんじゃないかなと思うんです。無条件だからこそ、burendoさんが言われるように無限であり、絶対なんです。そこに条件があれば、その条件をクリアしたら存在価値がなくなります。無条件こそ、相対的な価値を超えた、絶対的な価値であり、信念であり、愛でもあり、プライドでもあると思うんです。それが人間としての自覚だと僕は思います。
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burendoさん、こんばんは。


以前、「質問:スターウォーズでいう暗黒面」で回答を寄せた者です。burendoさんの"お礼"を見て、何か気になりました。別にストーカーじゃありません。(笑

人に尽くす喜びが何かわからなくて困っているようですが、前回の暗黒面の質問と今回の質問の根本は、結局は愛について知りたいんじゃないかと僕は思いました。そこで僕の経験から論理的にアドバイスしたいと思います。僕が今回、回答を寄せるのも、僕がストーカーしたいからじゃなくって、一時的でも、burendoさんに"尽くして"みようと思ったからです。それで迷惑ならストーカーということです。(笑)


世の中、人に尽くす人もいれば、尽くされる人もいます。大体の人は、尽くされることに快感を覚えます。だったら、尽くすことに喜びを見出すには、どうすればいいんだろう?

まず僕が思うに、「人の為に」と思うこと自体、不純だと思います。僕が思う愛とは、無条件であり、感じることなんです。愛とは飢えるものじゃないと思う。相手にそれを望んでいる時点で無条件じゃない。

世の中には、騙す人がいます、と同時に騙される人もいます。騙される人がいなければ、騙す人も存在できません。イジメッ子とイジメられッ子の関係と同じです。例え人に騙されたって、自分自身が純粋ならば、愛に満ちているならば、それを貫くはずです。じゃなきゃ純粋じゃありません。つまり、人を憎まないはず。そして誰にだって"暗黒面"はあるということを知っているはず。

人よりも幸せになりたいと思う心は、僕にとって"暗黒面"です。それは相対的な価値であり、永遠に満たされることのない、ツマラナイ欲なんです。そして相対的な存在に依存しなければならない卑しさ、虚しさがそこにあります。資本主義社会の卑しさはそこにあると思うんです。"ホンモノ"の人物はそういうことに気づくはず。

つまり、愛するということは、そういうことに気づきながらも、無条件でそれを受け入れると同時に、純粋を貫く。それが愛だと思います。
人に尽くす喜びとは、気づいている人なんです。自分が存在することへの感謝。生きる歓び。相手の為とか、自分が得をするとか、そんな卑しい相対的な価値ではなく、無条件に生きること。それが愛だと思ってます。無条件なので、見当違いの反応でも受け入れることができます。逆に見当違いの方が面白いと思う余裕すらあります。人に尽くすとは、つまり、自分自身に尽くせる人なんです。自分自身の純粋な…愛というか、その神聖な?信念みたいな…。そこには形式とはないんです。出家したら天国にいけるとか、ボランティアすればいいとか、そんなことじゃない。まったくの無条件だからこそ、無償の愛なんです。

なので、まずは、生きているという奇跡に感謝する感性を持つ。そして、上下変動する人間が作り出した社会のルールである経済的価値に依存することなく、そのような相対的な価値を越えた価値があるということに気づくこと、そのためにも、頭で知るのでなく、からだ全体で感じること。それが僕が思う、アドバイスになります。
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この回答へのお礼

たびたび、ご回答ありがとうございます。

ストーカーには思えませんので、大丈夫ですよ(笑)

今も思考中なのですが、もっと、参考意見が欲しいのですが、私が言葉で表したいような内容のニュアンスは伝わりましたよ。

今思うのは、相対的な価値を超えた価値を知ることだろうということははっきりわかります。
自分の中の純粋な信念を貫くこと、だれからの意見や反応にも動じないこと。
なになにすれば良くなる、天国にいけるなどの、依存的な思考でなく、自らをとことん信じるということが大切なのではないだろうかと、同じく思います。
無から発する愛となると、無とは自分自身の心のなかから生み出すものだから、無限にあるものでもあるといえると思います。依存的でないから。
自分を信じることが、結局、他人を愛をはぐくむことにつながると思います。
あとは、それを考えることなく自然に行う(感じておくこと)ことだろうと、触発されて思いました。

お礼日時:2005/08/19 01:22

私もその事で悩んだ事があります。


実際はまだ悩んでいるのですけど・・・。

見返りを期待しない愛ってのはどこか苦しいし
下手すると偽善的に見えてしまう。でも利己的には生きてはいられないし・・・

尽くすというのは、本当に難しい事だと思います。
特定の人に滅私奉公するにしても
特異な関係でしかありえないし・・・。

「尽くす=愛するが繋がっていると思えます。」
全くその通りではないかと思います。

で、私が今のところ出した結論は
「人のためにすることは自分のためでもある」という事でした。
夜道を歩くときに誰かの足元を照らせば、自分の足元も明るくなる・・・。
諺でいう「情けは人の為ならず」ですね。人への情けは結果的に自分の為になるんだという事なんだと思いました。

もう一つ。感謝する心だと思いました。
奥さんへの感謝、職場の人への感謝。我が子への感謝。感謝できなけりゃ人に優しくできるはすないと思うのですね。

私は販売の仕事をしていますが、一期一会の気持ちでお客様に接するようにしています。
店を出られる時に、何がなんでも気持ち良い気持ちでいて欲しい・・・。そんな感じです。
これは接客の基本中の基本なのですが、これが難しいのです。精神力を本当に使います。

お客様に真心を使えば、またお客様は店に来てくれる・・・でもこれって利害関係ではないのです。
心と心の戦いなんですね。

テレビなんかで旅館の建て直しなんてやってますけど、基本はスタッフの意識改革なんですね。
自分中心、自己満足型の考え方から
顧客中心の考え方への意識改革を行います。
そうして始めて改革はスタートしていきます。

「愛」って考えちゃうと難しくないっちゃいますよね。
たぶんもっと人間くさくて良いと思っています。
自然に相手を思える気持ち。
相手の心、気持ちを理解できて、同感できる事。
そんな何気ないことなのではないかと思います。

もう少し具体的に言うと・・・
「他者」を意識すること。
一番身近な他者は家族ですね。
空気みたいな存在ではなくて
「他者」としてきちんと見てあげること。
「あーお母さん、ちょっと疲れているかな?」と
意識的に見ることだったりしますよ~
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 マズローの欲求五段階説というものがあります。


 細かい内容解説は略しますが、欲求には以下の五段階があり、若い順番のものが満たされて初めて次の欲求が出てくるというものです。

 1)生理的欲求
 2)安全への欲求
 3)社会的欲求
 4)自我欲求
 5)自己実現の欲求

 他者との関わりが出てくるのは 3)からなのですが、おおまかに言えば相手がいればいいと感じるレベルが3)で、社会の中でそれなりに認められたいと感じるレベルが4)です。

 他者に尽くすことで喜びを感じるのは、それにより4)が体感できるからという説明ができます。あまり自分でピンと来ないということであれば、まだ3)の段階にいるという解釈ができます。

 いろいろと人付き合いをして安定的な社会生活を営んでいけば、それをより快適にするには4)が大事だなと感じるようになりますから、それを待っていれば良いでしょう。

 ちなみに、burendo さんは OKWeb でいくつか回答をなさっていますし、私が見るに丁寧な内容でした。それだって「人に尽くす」という側面があるので、自分で自覚が無いだけでその喜びを既に多少は感じていると思われます。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>あまり自分でピンと来ないということであれば、まだ3)の段階にいるという解釈ができます。

子供のころに、相手に尽くす喜びは分かってはいたのですが、みながみな尽くされることで、尽くしかえすわけでもなくということを(打算でなく自然に)知ってしまったときに、尽くすことは自然的であるということは絶対じゃないと考えるようになり、打算であるとしかとらえる事ができなくなりました。(人間不信なだけかもしれないですが)
早い話、尽くせる人は、打算的な人に利用されるだけではないかと思えます。
打算とわかったうえで、自然に尽くせるってことを身に付けたいものです。

お礼日時:2005/08/20 17:08

尽くすと言うのはとどのつまり、誰かに必要とされたいということ。

人は必要とされることで、自分の存在価値を認識できるから。「尽くす」ことをしなくとも、「周りの期待に応えたい」って思うことはあるでしょう?「尽くす」ことも、「親の期待に応える」ことも、「誰かに認められたい、必要とされたい」という同じ思いから来ているのです。この思いを強く持てば尽くせるのでは?
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なかなか聖人でもない限り心の底から人に尽くせるものではないと思いますよ。

「ペットの世話・・・」「薬の研究・・・」は、博愛精神とはまた次元が違いますし。特に後者の場合は、「認められたい欲求」であったり「企業に属する上での社会的貢献」であるわけですから・・・
何をしてよいか分からなければ、寄付をすることですね。街で老人の手を引いてあげるより、有効に機能するはずです。但し、「これは少し違うな」と感じられたので質問されたのではと思います。

私なりの質問者さんへの回答は、

(1)一般生活において、自分が「聖職者」と位置づけて行動してください。たとえば、老人お手を引くであったり、路傍のごみを拾うであったり、です。
24時間全てではなく、意識できる範囲で良いと思います。
(2)この時、「人に見られたい、認められたい欲求」が見え隠れするはずですが、このときは自分が「偽善者である」と割り切ってください。
(3)「偽善者」もやり通せば、立派な「善人」だと思いますし、質問者さんがなりたいひとつの形ではないでしょうか?そのうち自分のスタイルになると思いますよ。

このような質問をされる方なので、何らかの欲求や葛藤がある方でしょうし、元来やさしい方なのでしょうね。世間の「良い人」は大概、「元偽善者」だと思いますよ。
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この回答へのお礼

>(2)この時、「人に見られたい、認められたい欲求」が見え隠れするはずですが、このときは自分が「偽善者である」と割り切ってください

本当にバランスのとれた、判断を下すには、なにがどうあれ、偽善者しかないんじゃないかって思います。
本能が善者は、利用されるか早死にするかが、関の山だと・・思ったりします。

>世間の「良い人」は大概、「元偽善者」だと思いますよ
そうなんですよね、いい人って言われる人の心理を探っていくと、どこかしらに、偽善者の思考を見ることができるんですよね。これは、納得をせざるをえないですよね。

お礼日時:2005/08/20 17:13

 たとえば、街を歩いていて、鼻血を出している子供を見かけたら、あなたはどうしますか。

テッシュを丸めて鼻に入れてあげますか、それとも無視?。

 重い荷物を持って駅の階段を一段ずつ苦しそうに上っているお年寄りを見かけたら、あなたはどうしますか。
荷物を持ってあげますか、それとも無視?。

 鼻血の手当てをしてあげたくなる、荷物をもってあげたくなる、そんなあなたなら、そのあといい事をしたと満足感がありませんか。

 もし、無視するような方だったら、一度でいいから、勇気を出して、そんな困っている人に手助けをしてみてください。もちろん相手は喜ぶでしょうし、そんな顔を見て、今まで知らなかった満足感に満たされますよ。こんな小さなことがすべての始まりということ。そしてこれがコツであり方法論というわけ。簡単なことなんです。。。。
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良いことしたら気持ち良いな~と思いません?


多分ボランティアに属すると思いますが・・・
自分を善人?に仕立て上げることで、人としての満足感があるのかも。

恋愛相手に尽くす?体験したことないですけど、好きな人に慕われたり、求められたりすると、嬉しいと思います。
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私は尽くされるより尽くす方がスキです。



尽くされるとなぜか罪悪感さえ感じてしまいます。(多分私がおかしいだけ。)

ただ人に喜ばれるのが好きなんです。
お礼がほしいとかそういうことは全く考えず、これをしたらその人は嬉しいんぢゃないか…そう思ったらすぐ行動に移ってしまいます。
だから余計なお世話が絶えませんが…笑

誰に対しても何かをして喜ばれたり感謝されたら嬉しくないですか??
その嬉しさが大きくなれば大きくなるほど尽くす喜びが分かってくるんぢゃないかなぁと思いますが…
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