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徳川家康が、一時的にでも「豊臣家康」を名乗ったかどうか教えてください。お願いします。

A 回答 (5件)

 わたしの知っている限りでは、名乗っていません。


 豊臣秀吉と同じ姓を名乗っても、家康には益がないと思います。
 私自身興味があるので、もうすこし調べてみます。きっとなんらかの詳しい解答ができると思うので、少し待って下さい(^.^)
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 調べてみましたが、あまりズバっと書かれている資料に巡り合えませんでした。

ごめんなさい。
 結論として、ない、でしょう(微妙なのですが…)。
 豊臣家康ということは、養子縁組ですよね。当時の状況、そして家康と秀吉は出自を考えても明らかに、その養子縁組を行う可能性は皆無に近いと思います。
 あまりお役に立てなくて、もうしわけありません。_(._.)_
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 「ちょっと、かするかも…」という程度の情報提供です。


 池波正太郎の「真田太平記」で、晩年にさしかかった秀吉が、毛利や蒲生など、主だった大名・有力家臣に「羽柴の氏と豊臣の姓を与え、縁戚関係を結んだ」という描写を複数箇所で目にしました。
 秀吉は、極めて低い身分からおのれの才覚のみで位人臣を極めた人です。それが大きなセールスポイントであると同時に、実は最大の弱点でもあった。…つまり、「ロクな家柄じゃない」ということが、隠れもなく明白だったということです。そのため、これを少しでもカバーするために、多少でも家格の高い者や力のある者と結びつきたかった、という感じで書かれていました。
 記憶が定かではありませんが、家康に関しても同様の措置をとったとの描写があったように思います。すなわち、
 《豊臣家康はありうる》…かも?
ってことです。

 あの時代、けっこう「家名」って大事だったはずです。そもそも、秀吉が関白になれたのも(藤原摂関家の者しかなれないはずなのに!)、近衛前久と養子縁組した結果です(それ以後、秀吉は「藤原」姓を名乗っている)。ちなみに、その前には征夷大将軍になろうとして、足利義昭に養子縁組を申し入れて、断られています。もしこれが実現していたら、「足利秀吉」とか「源秀吉」もありえたわけです。(そうそう、信長だって「平」や「藤原」の姓を名乗った時期があるんです。桶狭間に際して熱田神社に参詣した折は「平」でした。「織田」じゃなくて。)

 …ということで、一般の歴史教科書や研究書が取り上げていないだけで、実は「豊臣家康」というのも、例えば手紙の署名などでは使われていたかもしれません。
 もし使われていたとしたら、時期としては、秀吉が「豊臣」を名乗る1586年から没する1598年までの間でしょう。

 直接の回答でなくてごめんなさい。できれば、お詳しい方の補足を願います。
 では。
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私なりの解釈です。


姓とは別に氏(うじ)というのが日本古来より存在しました。この関係を簡単に説明しますと、源氏の支族で下野のくにの足利に住み着いた一族が性を足利と名乗ります。この場合例えば勅旨の使者と対面するなど正式な儀典の場においては源尊氏という名乗りをします。したがって摂関藤原や源氏などの嫡流の場合は氏姓同姓となるわけです。そして古来多々あった物部や蘇我といった氏族は権力争いのなかで敗れたために(一部少数の橘氏をのぞいて)一族婦女子にいたるまで藤原氏によって抹殺されます。
それとは別に、天皇家の支族で親王や内親王といった人たちからさらに枝葉のひろがった一族がそれぞれ天皇の許しを得て源もしくは平の氏を名乗ります。ただし、ひとつ源の嫡流がほろんだ後に別の一族が貰い受けるシステムです。例えば嵯峨天皇の末裔が源氏を名乗りますが、この嵯峨源氏は絶えてしまいます。(傍流である渡辺氏は残りますが、)そしてまた別の一族が源氏を賜るわけです。こうして清和源氏と桓武平氏がうまれました。
やがて日本を統一した源頼朝は後白河法王との駆け引きによって鎌倉に幕府を開きますが、この後征夷大将軍と開幕は源氏のみにゆるされることになります。
前置きが長くなりましたが、戦国の世になってもこのおきてはくずされませんでした。どうつくろっても源氏を名乗ることが不可能な羽柴秀吉は開幕をあきらめ、せめて最高位である正一位関白になるためにまずは殿上人の条件である氏を名乗ろうとします。当然そのためには家系図の工作やいろいろな運動が必要となってきます。そして彼は一時にそれを解決しました。当時源平藤橘のみであった氏をもうひとつ増やします。それが豊臣です。
一族の少なかった秀吉は親戚を増やすために、木下や羽柴の姓を次々と人にあたえます。のみならずこの豊臣をも何人にも分け与えたようです。ただし、この豊臣の場合、普段の名乗りに使わなくても氏であるとすれば家康が豊臣をもらいながらも普段の名乗りに徳川を名乗っていても不思議はないわけです。
やがて、家康は開幕のために家系図をつくり源氏である(もともと地頭であった松平氏にはそれが可能でした)ということにします。
家康は自分の天下統一の妨げであった秀吉をひどくにくみ、彼の墓石のあった阿弥陀が峰を暴きます。また歴史書も書き換えられ公文書であるはずの三河物語でさえ随分と信用のおけない記述もあるようです。したがって、想像上、豊臣家康はあるとは思いますが、おそらく史書として残っているものはないのではないでしょうか。
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名乗ってはいないと思います。


公式文書で源家康と名乗ったことはあるらしいけど。
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