プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

信長が本能寺を検証するにあたって
『信長公記』『川角太閤記』『当代記』『言経卿記』『フロイス日本史』『本城惣右衛門覚書』『昔咄』徳川家資料を参考にすると

1.公家に反信長の動きは存在した。更に義昭、堺衆、本願寺、雑賀衆、丹波衆等、反信長勢力は各地に数多く存在し活動していた。

2.本能寺の変の当時、光秀は在京信長軍団幕僚のトップであった。織田軍に関わる情報のすべては、在京幕僚のトップに位置していた光秀のもとに集っていた。そして、光秀は変前の一年間、ほとんど信長の周辺にいた。

3.本能寺攻めは、明智光秀方の将兵達にも敵が信長であることを知らせないまま、粛々と実行された。明智軍兵士達は、「徳川家康」を攻撃するとばかり考えていた。

4.本能寺攻撃の現場に明智光秀はおらず、直接指揮をとったのは、斉藤利三や明智秀満勢であった。

5.本能寺には信長以下100人に満たない将兵が、守りをほとんど行わないまま滞在していた。本能寺では戦いらしい戦いはされず、しかも、信長のみを狙った作戦であった。



これら事実を見つめていくと、当時の織田軍に関わる情報のすべては在京幕僚のトップに位置していた光秀が握っています。
そして、光秀がそれらを順次、分析して対応し、その結果を信長に報告しているという政治構図です。
私は在京幕僚のトップの光秀が反信長勢力の何者かにそそのかされ「本能寺の変」を起こしたと推測します。

もし「本能寺の変」に黒幕はいたとすれば、その黒幕は誰だと思いますか?

A 回答 (4件)

日本史の最大の謎の一つですから勝手な私見として述べさせていただきます。



仰るように明智光秀は信長の配下としてはトップの立場でしたので、周りの状況を考慮すれば、いくら私怨があったとしても安易に迂闊な行動はできないことはよく解っていた筈です。

光秀は個人的な怒りに任せて単独でクーデターを実行するほどのバカな人物ではないと思います。
やるからにはそれなりの事前準備を整えてから実行すると思いますので、誰か黒幕がいたと考えるのが妥当と思います。

私見では朝廷及びその周辺の公家の連中が絡んでいると思います。

足利義昭という説がありますが、当時既に義昭は信長によって追放されていますし、誰よりも義昭のことをよく知っている光秀にとっても、今更足利将軍の権威など誰も恐れないことは充分承知していたでしょうからこの時点で義昭は既に過去の人となっていたと考えます。

それに比べて朝廷に関しては、将軍や信長という存在とは超越した権威としてインテリの光秀は理解していたと思われます。

武士にとっては将軍という権威は力で掴み取ることができるものですが、朝廷という権威は絶対的なものであって一般の社会とは超越した存在であるという認識があったと思います。

誰も手をつけようとしない朝廷という存在さえも信長は否定しようとしていたようなので、朝廷側が必死に抵抗したのではないでしょうか。

信長に最も近い存在であり、旧い権威に弱いタイプである明智光秀という存在は、朝廷側にとっては最も狙いやすい人物だったと考えます。
    • good
    • 1

 『本能寺の変には黒幕がいた』は、近年よく取り上げられている説ですね。


 有力なところでは「朝廷・公家」「足利義昭」
 最近注目されているのはNo3で取り上げられている「イエズス会・南欧勢力」
 奇説・珍説では「豊臣秀吉(木下籐吉郎)」「徳川家康」
 私が知っているのはこんなところですが・・・・はたして黒幕を考える必要があるのかな、とも思います。
 そもそも織田信長は、頭角を現した頃から常に裏切られ続けています。
 弟・信行の裏切りや、妹婿の浅井長政、松永久秀、荒木村重らの裏切り、六角義賢の杉谷善住坊による狙撃、
 浅井長政の裏切りや杉谷善住坊の狙撃などは間一髪だったようにも思えます。
 本能寺の変だけが何故か黒幕探しの対象になっているのは信長誅殺の唯一の成功例(当たり前の話ですが)であることや本能寺の変後わずか11日で明智光秀が秀吉に討たれてしまったことからきているように思えます。
 もし嫡男・信忠が生き延びて織田家が存続していたらこんなに黒幕説が出ただろうかという疑問を持っています。
 明智光秀がなんの考えもなしに偶然のチャンスで信長を討った・・・とまでは思いません。
 朝廷や敵の多い信長を討てる千載一遇の機会を目の前にした光秀が「下克上」を実践したと考えてもおかしくないのではないかとはと思っています。
    • good
    • 1

集英社新書「信長と十字架」(立花京子著)では、本能寺の変の黒幕は(当時の)イエズス会と結論付けているようです。

以下、その著書を私なりに読解した内容です。

そもそも信長が抜きんでた実力を持てたのも当時のイエズス会の資金援助が背景にあったとのことです。ブレーンとしてキリシタン有力者も活躍したようです。当時のイエズス会はスペイン・ポルトガル連合の世界戦略に乗り、信長を利用して布教だけでなく、後の本国による日本支配の地ならしをさせるつもりでした。
ただ、信長が自らを神をも超える存在と位置づけ、イエズス会への服従を拒否する姿勢を示しだしたため、上のキリシタン有力者にコントロールされた朝廷の命により光秀に討たれることになったとのことです。
信長を光秀に討たせ、その光秀を弔い合戦という名目で秀吉に討たせる。これで世間を納得させる形で首がすげ替えられるということだったのでしょう。このあたりのイエズス会の恐ろしさを知っていたからこそ、後の徳川幕府はキリスト教勢力を徹底的に排除したのでしょう。

以上、ひとつの説として参考にしてみて下さい。
    • good
    • 0

歴史には疎いオバちゃんですが、夫が好きで諸説テレビに突っ込んでいる事が多いです。



黒幕は「家康」、「光秀は死んでおらず、江戸時代に家康の参謀として登場する僧」・・名前がわからない。なんていってましたが・・。
その僧は年齢的には光秀と符合するとか、関が原が終わり急に出てきた?とかいってました。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!