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鎖国鎖国とこだわってきた日本
新政府が誕生してそれからは、海外との戦争づくしですよね。

なぜ日本は、海外侵略を始めたのでしょうか?
そして、なぜそんなに勝てるだけの戦力があったのでしょうか?
やはり戦国時代とかを乗り越えてきているので
武力や武法にすぐれていたのでしょうか?

A 回答 (11件中1~10件)

そもそも鎖国を解くはめになったのは西洋列強による圧迫です。

つまりはそういう時代であったと。

侵略と聞きますと大分悪く捉えてしまいがちですが、帝国主義は当時は当然のことであり、時代の趨勢でした。

俗っぽく言うと、「やらなければやられる」と言ったところでしょうか。私は日本の侵略?行為は自衛の為であったと歴史的解釈をしています。
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>新政府が誕生してそれからは、海外との戦争づくしですよね。



 西郷の征韓論もその後の、新政府の大韓帝国干渉も最初は、失業した不平士族対策だったと思います。その後、富国強兵政策という、国費による産業振興と軍事大国を目指す政策を採りました。この政策の結果として、市場獲得を目指す軍事行動と産業振興が一体となり、急速に軍事大国化していきました。しかし、日本には、この軍事大国を支える資源も、市場もありません。おのずと、市場と資源を求めて海外侵略に向かわざるをえなかったのだと思います。

 その当時、大韓帝国は政権担当者の対立が長く続き、国軍も、前時代的な状況で近代装備の日本軍の敵ではありませんでした。大韓帝国は清朝に従属していましたが、いってみれば、清、日本、ロシアの前においしいご馳走が置かれていたようなもので、日清戦争も日露戦争も朝鮮半島の争奪戦でした。これは、朝鮮半島住民にとっては、大迷惑な話しです。
その後の侵略戦争の拡大は、少し疑問符付きですが、他の回答者が述べられているとおりです。

 ここからは、回答ではなく、私の意見と思っていただきたいのですが、歴史をその当時の状況に置いて理解するというのは、とても大事なことです。と、同時に、歴史上の出来事を生きた教訓とするためには、現代の価値観で評価するということも大事です。例えば、アメリカの奴隷制は、アメリカの経済発展にとても重要な役割を果たし、これなくして現在の大国アメリカは、考えられないと思います。しかし、この奴隷制が、同じ人間に仕向けられたものとしては非道なことであり、決して繰り返されてはいけないものだと、現在の価値観では、考えられています。
 日本の侵略戦争も、同じです。その当時の価値観では、許されていても、現在の価値観では、許されないこと、繰り返しては、いけないことだと思います。何故起きたかを正確に理解することと、そこから教訓を得ることを混同しないことが大事だと思います。
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さすがにこの話題は皆さん持論があって食い付きがいいですね。


あくまで一つの見方ですが、お暇があれば司馬遼太郎の「翔ぶが如く」(征韓論と西南戦争)と「坂の上の雲」(日清・日露戦争)を読むと面白く勉強できるので、オススメですよ。
ただし他論も存在する事を理解する必要はあります。
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歴史に対する見方はその時代の価値観で判断しなけれならないことです。

侵略戦争が悪とゆう概念のない時代の国力とは他の国に侵攻できる力があるとゆうことで、国力がなければ殖民地か属国にされるだけです。日清戦争は勝てると判断した戦争で、日露戦争は日英同盟、国債、講和まで考えて始めた戦争です、ロシヤの国内事情もあり講和が成立しましたが苦しい勝利でした。
その後日本は第一次大戦を連合国側で戦い、戦後南洋諸島を植民地として領土を拡張していきました、しかしその戦後の国際会議に於いて、日本の発議した人種差別禁止法がアメリカの大統領により否決され、その後アメリカは黄禍論のもと排日移民法等で反日的になり、ワシントン会議、ロンドン会議で日本軍艦の建艦に制限をかけてきました、この事は日本国民を反発させました。その後中国で仕掛けられた戦争にのめりこみ、アメリカは蒋介石を支援し日本には石油、くず鉄の禁輸を仕掛けてきました。その当時石油の多くをアメリカに依存していました、石油がなくなれば軍艦も飛行機も飛べなくなりアメリカに降伏するより他に道はありません。そのとき有名なハルノートが提示されます。戦わず降伏を受け入れるか運を天にまかせて戦うか、の二者択一をせまられたわけです当時アメリカと日本の鉄鋼の生産量は10:1です、負けると判っていても戦わざるをえなかった、奴隷になるより死を選らんだとゆうことです。アメリカとゆう国は歴史をみればわかりますが、明治維新のころまで奴隷を使いアメリカインデアンの殆どを虐殺して出来た国です。真珠湾攻撃を聞いた中国の親日政権の汪兆銘は日本は戦争の相手を間違っている、といったそうです。今の豊かな生活からなぜ日本人が特攻隊までだして抵抗したか理解不可能でしょう、しかしアメリカは戦後の日本は農業国で重工業はさせない方針のところ、米ソ対立のためやむおえず日本を工業国にせざるをえなかったわけです。東南アジアは日本の戦争のおかげで独立できたのでほんとの戦勝国はアメリカ以外どこかわかりません。対外的の戦争は決して日本は強いと思いませんが、一つにまとめて行動することは日本人の特徴でしょう。しかし戦争が一番得意な国民はアメリカでしょう、司令官が無能ならすぐに更迭するし、戦術も敵の戦術をよく研究し臨機応変でしかけてくる。これに対して日本は平時の人事そのまま個人の能力を発揮できなかった事は悔やまれます。
日本の平和はアメリカにより保たれていますが、アメリカは戦略上日本の領土、領海が必要なだけ日本人のためにアメリカの若者が血を流すようなことはしません、日本の若者が真剣に考えなければならないことです。世界から戦争がなくなることはありませんから。
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明治維新直後、征韓論という物が起きます。


これは、直ちに朝鮮半島を併合すべきだ。
こう言う論です。

しかし、維新直後の日本にはその国力は無く、却下されます。
この論争に敗れた西郷は、九州に帰ります。
その後西南戦争ですから、時期が早すぎます。
この後ようやく明治政府は安定します。

何故この論が起きたかです。

日本は不公平な条約を次々結ぶ事になり、
アジア各地が次々植民地化し、
中国でさえ列強諸国に国土を虫食い状態にされ、
このままでは日本の独立さえ危うい状態でした。

やられる前にやらなければ日本は存亡出来ないと言う激しい危機感を抱いていたのです。

大陸に逆に進出しなければ皇国の存亡は有り得ないと言う結論に到達します。

遂に、朝鮮半島の利権をめぐり、日清戦争へ突入します。
更に、南下するロシアと朝鮮半島の利権で衝突するのは時間の問題であり、
着々と軍事力の増大を目指しました。

>そして、なぜそんなに勝てるだけの戦力があったのでしょうか?

一応は、日清、日露戦争を予測して準備をしていました。
勝ち負けではなく、ここまでは日本国の存亡をかけた戦いです。

また、勝つ為の国債をヨーロッパで販売したり、
外交で優位に立てるような根配りは怠りませんでした。

しかし、第一次大戦あたりから動向がおかしくなります。
ここで、敗戦国ドイツの植民地を委託統治します。

無謀な八八艦隊構想(戦艦8隻、巡洋戦艦8隻の艦隊構想は日本の予算では不可能)
異様な軍拡に列強は軍縮条約(5対5対3)を強制的に締結させます。

日本情報による満州国建設。
大東亜共栄圏(実際は植民地と開放と戦争遂行の為の物資との利害一致)

存亡をかけた戦いから、領土拡大へと戦争の理由が大きく変わって行きました。

日本の詭弁が、国際連盟でも全く通用しなかったのは、日本の存亡の為ではなく、侵略だったからです。
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当時は国際的、世界情勢的に見て列強が植民地を支配するのが当然と言う気風がありました


日本は幕末の開国依頼西欧諸国の列強を参考に国際化への道を歩みましたが、その中で植民地政策も学んでしまったのです。
言い換えれば、植民地を持つ事で列強の仲間入りをしたかったのです
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直接の理由は皆さんの回答どうりですが違う側面から回答します、


まず明治維新の評価から始めなくてはなりません、歴史論から明治維新はすばらしい革命であったという評価がある一方で最近この維新より日本は列強に追いつき追い越せという号令の元日清、日露、日中、太平洋と戦争をつずけ、日本は荒廃し環境は悪化し文化は廃ってしまった元凶のきっかけであるという悪い評価もあります、国で革命が起こると一時的には良いのですが、フランス革命の例にあるように再び国は混乱するものです、
一度革命が起きた国はその改革でとまらずに常に上昇志向が働きその力
が外部に向き戦争という結果に必ずつながります、
国の歴史は革命、戦勝、敗戦、を繰り返し新しい時代に受け継がれていきます、日本の歴史で今が頂上でしょう、私たちはこの平和でゆとりのある時代に生まれたことは大変幸運であり、先人の方々に感謝するものですね!
貴方の疑問の直接の回答にはなりませんが、いかがでしょうか?
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薩摩が野蛮だったからと、当時の流行だったからです。

侵略するか侵略されるか、当時は二者択一の時代でした。
琉球王国を侵略して滅ぼした薩摩は、その勢いをかって日本全国を侵略しました。日本が終わったら、次は朝鮮半島、中国へと手を伸ばしていったと見ると判りやすいです。
信長の頃日本は世界最強の国でしたが、戦争に飽きて自主軍縮します。家康は平和主義者だったんですね。鎖国は思想的侵略から日本を防衛するためのものです。当時、思想的侵略に長けたスペインとポルトガルで世界を二分してましたよね。鎖国しなかった小国は次々と支配されてしまいました。
話を戻して、薩摩という侵略好きの国が日本を侵略した流れの継続で考えると当然のことですね。
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海外進出の中心となったのは長州の連中でした。


彼らは、幕末にアヘン戦争後の中国に行き、欧米列強に負けたらどうなるかを現実に見てきました。
自分の国なのに、戦争に勝った国の連中の奴隷のような扱いを受ける訳です。
それがトラウマとなって、過剰防衛を行ったというのが真相でしょう。

朝鮮は、とても独立できるような国情ではなかった為、清と日本とロシアで争いその両者に勝って日本と統一しました。
満州はロシアの利権を追い払い、朝鮮を守る為の緩衝帯としました。

中国は泥沼に、東南アジアのヨーロッパ植民地はドイツ支援と石油禁輸によるエネルギー確保です。

日露戦争では、海戦では圧倒的勝利を得ましたが、陸戦ではギリギリでした。陸戦では勝てたというよりも、ロシアの撤退戦術の途中で和平工作に入ったというのが実情です。
外交や諜報も含めて負けずに済んだという程度の国力でした。

対米戦は、ドイツが勝つと言う前提だったし、ソ連の存在もあったので、早期に休戦と言うイメージはあったとおもいます。
アメリカを見くびりすぎていたという面もありますが。

日本は、満州と朝鮮だけキープし、ドイツと同盟を結ばず、欧米とはつかず離れずの関係を維持していれば、中国が赤化することもなかったと思います。
ソ連よりだった近衛、ドイツと結んだ松岡あたりの政治的判断が、アジアの破壊につながる点でしたね。
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明治以降、日本は近代工業を発展させますね。

まず手をつけたのは生糸と綿糸・綿織物です。
ところで、資本主義経済の大原則ですけど「作ったモノは売らなければもうからない」というのがあります。でも日本は狭い国、すんでる国民だってたかがしれてる。また重工業を発展させるためには、製鉄が基本、そのために鉄鉱石という資源が必要です。日本にも鉄鉱石はあるけど、質は悪いしたかがしれてる。
じゃあどうするか? 人の多いところ(=経済的には「市場 しじょう」といいます)を手に入れて売ればいい、良質の鉄鉱石ある鉱山を手に入れればいい、ということになります。日本の近くで言えば、そう朝鮮と中国ですね。

まずは、朝鮮。ところがこの朝鮮、当時は江戸時代の日本と同じく閉鎖的、おまけに中国(当時は清)に従っている。ゆえに朝鮮に手をつけようとすると、「親」である中国ともめる → 日清戦争(このとき清は、欧米からは侵略され内部的にもガタガタ、日本の楽勝)

朝鮮からさらに北へ → 中国東北部(旧名:満州)へ
ところがこの「満州」、日本だけじゃなくロシアも狙っていた。しかし引き下がるわけにはいかない(当時の政界実力者山県有朋は、満州は日本の利益線である、と主張) → 日露戦争(このときは同じくロシアと対立していたイギリスと同盟、アメリカも資金面で日本をバックアップ、と国際社会が日本に味方、軍事面ではきわどかったが何とか「判定勝ち」にもちこむ)

このように、経済(産業)が発展すればするほど、日本は市場と原材料の確保が必要になります。そのための海外領土を獲得することが、経済の発展・維持には不可欠のものとなり、外への膨張(侵略=武力による進出)を行うことになりました。

>なぜそんなに勝てるだけの戦力
近代戦争の戦力とは、武力・武法よりも経済力(工業力)、国民の戦意などの総合力です。日本は他のアジア諸国より優れていただけのこと。したがって、より上手のアメリカにはコテンパンにやられます。
もっとも、日露戦争の際の海軍の錬度は非常に高く、また日本海海戦では、東郷平八郎の斬新な戦術などすぐれた点も多くありました。

>戦国時代とかを乗り越えてきているので・・・
ちょっと時代が遠すぎます。あえていうなら幕末動乱・戊辰戦争を生き抜き、新国家建設に燃えていた当時の指導者の「気合」が違ってた、ということでしょうか。


 
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