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ある本には、理論家の彼なら
「だったらこの法廷にペリーを呼べ」と、
論戦では連合国側を打ち負かしてしまう
恐れがあったからとありましたが、
本当のところはどうしてなのでしょうか?

A 回答 (6件)

当の石原本人は覚悟はしていたようです。


昭和22年4月25日、極東裁判の酒田出張法廷に石原は証人として出廷していますが、この法廷の冒頭で石原は、
「不思議に堪えないことがある。満洲事変の中心は自分である。錦州爆撃にしても、滴洲建国立案も自分である。それなのに、この私を戦犯として連行しないのが腑に落ちない。」
と発言しています。(「石原莞爾」楠木誠一郎 PHP文庫)
石原本人にとっても不起訴は意外だったようですが、
石原は、反東條の代表格であることと、終戦時には余命幾ばくも無い末期癌に侵されていた、ということを考えれば不起訴も不思議な事ではないと思います。
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この回答へのお礼

病人だったという事情があったのですね。
その石原を予備役へと左遷した東条が、
逆にA級戦犯にされるとは歴史の皮肉でしょうか。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/06 22:05

他の方が「満州事変は太平洋戦争の発端ではない」としていますが、その考えはともかく石原莞爾自身が「このたびの戦争は満州事変を発端にして起こったことだ。

違うか」との旨発言しており、連合国側のウエッブ裁判長自身も「その通りだ」としております。そこで石原は「満州事変を起こしたのはこの俺だ。満州国を作ったのはこの俺だ。なぜ俺を裁かんのだ。」との旨の発言をしているのです。

現在の歴史解釈として満州事変と日中戦争が関係は無く、日中戦争が直接の発端だとはしても少なくとも極東裁判ではこのように考えられていたようです。
そもそも連合国側は日本の過去に起こした戦争をどこまでも遡りたいとしていたのだから満州事変と日中戦争が関係があろうとなかろうと関係なかったわけです。そこでえらく昔まで遡ろうとする連合国にご質問者さんの指摘した「だったらこの法廷にペリーを呼べ」発言が出たわけです。
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この回答へのお礼

だとすると、どこまでも遡るなら勝者の側にも自己矛盾があることを見抜いたうえでの発言だったのかもしれませんね。ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/07 05:34

石原莞爾は、関東軍参謀として満州事変の企画立案者であったと言われますが、「日中戦争のきっかけとなった中心人物」ではありません。

支那事変勃発時には、参謀本部作戦部長として、事変の不拡大に努力しています。
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/yatsu8hd/Ishi …

なお、満州事変と支那事変は、直接の関連はあまりありません。「太平洋戦争の発端が満州事変」とか「満州事変から昭和20年までの15年戦争」と言った歴史認識は史実に沿わないと考えます。
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この回答へのお礼

ご指摘ありがとうございます。
私は一連の流れだと勝手な勘違いしておりましたが
もう少し勉強しなおしてみます。
ぜひまた教えてください。

お礼日時:2005/11/07 00:04

もともと東条と石原は仲が悪く、ミッドウェー海戦で敗北した日本軍を立て直すために東条は石原に意見を求めましたが「そもそも君みたいな人が戦争の指揮を執ることが間違っている。

退陣しないならば言うべきこと無い。」とあっさり断られています。

そんな関係を連合軍は知っていたため石原から東条英機をA級戦犯するための証言をとろうとしていたのです。
石原莞爾は本来ならば太平洋戦争の発端となった満州事変を起こした関東軍参謀という高い地位でしたから彼が戦犯になってもなんら不思議ではありませんでした。事実ウエッブ裁判長も満州事変が此度の戦争の発端になったとしています。
しかしもともと病気だったということに加え、彼も戦犯にしてしまうと東条への証言がとれないと考えた連合国側は彼を戦犯にしなかったのです。

裁判長に「石原さん、あなたと東条とは思想上の対立があったようだが・・・どうですか?」とたずねられた石原は「そんな対立は無い!」といい返します。
すかさず裁判長は「そんなはずは無い確かに対立はあったはずだ!」といいます。
しかし石原は「確かに対立はあった。しかし思想上の対立など無い。私には思想というものは少なからずあったが、東条の馬鹿には思想などというものが無かった。」といい放ったそうです。
そこで裁判長はやはり仲が悪いというのは本当のことらしい。
これならば東条が悪いと言うに違いない、と踏んだ裁判長は「では、石原さん、この戦争で一番悪い戦争犯罪者は誰だと思いますか?」と聞きます。
そこで石原は答えました。「それは米国大統領トルーマンだ。罪の無い人々を原子爆弾によって20万人も殺し、それが正義だといえるのか!!」これを聞いた裁判長は記録の削除を命じて裁判は終わったそうです。
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この回答へのお礼

連合国側は、東条と対立していた彼に証人としての利用価値を探っていたけれど、思いのほかの反駁を受けて、腫れ物に触るのをやめたという感じだったのでしょうか。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/06 23:27

こんばんは


石原莞爾については、その死も早かったこともあって「謎」の部分も人物ですね。評価にしても二分しているようで。

別の視点での「石原-東京裁判」の分析です。ご参考までに↓
http://homepage1.nifty.com/SENSHI/study/isihara- …
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この回答へのお礼

ありがとうございます。
ご紹介いただいた記事によると、彼は戦犯としての自己の責任を否定していたのですね。
自ら進んで戦犯になったという笹川良一氏といい、戦犯から首相に転じた岸信介といい、終戦前後に跋扈した人物には謎が多いですね。

お礼日時:2005/11/06 23:14

彼はA級戦犯になるような国家及び軍を指導する立場ではありませんでした。


確かに満州事変にはかかわりましたが、あのときは参謀にすぎず、指揮官ではありませんし、その後の日中戦争には反対していたと思います。
また、太平洋戦争時には閑職であったかすでに予備役であったために責任を問われるような立場にはいなかったはずですのでA級戦犯の対象にはなりません。
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この回答へのお礼

それほど重要な地位にある人物ではなかったということですね。
ただ、日中戦争のきっかけとなった中心人物が、なぜまったく処分を受けなかったのか疑問です。
ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/06 21:20

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