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質問が三つあります。
武家の娘というと北条政子や日野富子などがありますが
これは当時もこのような呼称だったのでしょうか?
それとも当時は単に政子とか富子というだけで、後の
人々によって苗字がつけられただけでしょうか?

これに関連して、では貴族の娘に関しても苗字があったのでしょうか?
例えば藤原定子という感じで。

更に、何故、戦国時代からの武家の娘は苗字付きではなくなるのでしょうか?
それとも当時はちゃんと織田市のような呼称だったんでしょうか?

A 回答 (4件)

 


  一応、No.2, No.3 の方の回答でよいと思いますが、少し違った視点から、補足的に述べてみたく思います。
 
  「武家の女性」ということで、鎌倉幕府なり室町幕府なり江戸幕府から正式に武家と承認された家の女性の名前という前提を確認します(庶民の場合、「苗字」というのは、かなり曖昧なものでした。あると言えばあるし、ないと言えばないというようなものです。武家や公家のような、明確な苗字はないが、それに代わるものはあったということです。……ということは本筋と関係ありません)。
 
  まず、「苗字」というのは、歴史的に「姓」「氏」などがあり、これらは、少し違います。例えば、公家は、多く、姓と氏の二つを持っていました。近衛家という摂関家がありますが、この「近衛」は氏で、正式な姓は「藤原」です。一条藤原とか、九条藤原という風にも呼びます。公家に準じてというか、武家でも、姓と氏がある場合があります。TVで、いま「北条時宗」をやっていますが、あのなかで、北条氏は、元々平氏の家系という言葉が出てきたので、そうなのかと思いました(つまり、姓は、平だということです。北条は氏です)。
 
  徳川幕府の徳川家は、「源」の姓を名乗ります。本当に、源氏の一統なのか知りませんが、「武家の統領」として、将軍になるためには、「源」姓であることが条件になったのです。またその他の大名や武家も、氏とは別に姓を持っていることがあります。従って、「苗字」と言っても一律ではありません。
 
  >それとも当時は単に政子とか富子というだけで、後の
  >人々によって苗字がつけられただけでしょうか?
 
  歴とした武家の女性なら、氏は当然ありました。問題は、どういう場合に、その氏や姓を使ったかということです。皇族から、臣籍におろす時、皇族には、姓がないので、天皇が姓を与えます。これを、賜姓と言い、このような臣籍に降りた元皇族は、賜姓皇族とも呼びますが、普通、源と平が有名ですが、その他の姓もあります。また、男性皇族だけが、賜姓を受けたのではなく、女性も賜姓を受けて臣籍に降りました。この場合、その女性は、明確に姓がありますし、その姓で呼ばれます。
 
  北条政子は、少し例として不適切なので、北条時宗の妻祝子を例にすると、「北条時宗室政子」というのがかなり正式な呼び方です。これは「正室」の意味で、「妻祝子」と呼んでいます。北条祝子と呼ぶことがあったのかというと、これは分かりませんが、なかった可能性があります。何かが付加しているでしょう。例えば、北条祝子は実際は違いますが、女官であって位があった場合、「従四位内侍北条祝子」などと宮中の公文書には残るでしょう。(貴族の日記などだと、北条の内侍」とか「四位の内侍」などと省略呼称になりますが)。
 
  北条祝子というような呼び方あるいは表記は、現代(及び近代)のもので、「北条の家の祝子」という意味になっていれば、それは、現代の「北条祝子」に当たるものですから、苗字はあったことになります。ただ、呼び方が、北条祝子のようなストレートなものではなかったということです。現代の戸籍謄本を見られると分かりますが、戸主の名前として、例えば「徳川秀吉」とかあり、戸籍欄には、夫:秀吉、妻:佳子などとなっています。
 
  しかし、現代の場合、女性が男性と共に、パブリックな文書に、独立で自分の名を記す場合は、北条祝子と記します。明治以前の時代には(そして、明治・大正時代や昭和初期も)、女性が、パブリックな場面で、独立で自分の名を記し、どこの誰かを明らかにするというようなことがなかったので、北条祝子というような表記がなかったのです。しかし、「北条の家の祝子様」なら、現代で言うなら「北条祝子様」でしょう。
 
  後二つの質問にもまとめて答えますと、貴族も武家の娘も、無論、苗字はあったし、苗字を付けて記す場面や、呼ぶ場面もあったのですが、いまと違い、北条祝子というような呼び方はしなかったというだけです。
 
  貴族の娘や武家の娘だと、苗字がなくなるというより、「名前」の方が、歴史記録から消えることが多いです。例えば、清少納言は、姓は「清原」と、はっきり分かっていますが、名前が分かりません。名前は、当時の人は知っていたし、名前で呼んでもいたのでしょうが、彼女は、中宮定子付きの女房であったので、女房名の「清少納言」で一般に呼ばれていたし、記録でもそうなっていて、清原家の女(むすめ)で、橘則光と結婚しましたから、「橘則光室*子」だったはずですが、名前が伝わっていません。しかし、名前がなかった訳ではありません。姓や氏が分かっていて、名前の分かっていない女性が、歴史上多数います。
 
  このことから分かるように、藤原定子とか、北条祝子と呼ぶ言い方は、現代的な言い方で、そういう言い方ではないが、武家の娘と公家の娘も、姓や氏を持っていたし、場面により、それで呼ばれていたことは間違いありません。そして、記録には、姓や氏つまり、所属していた家の名が残り、本人の本名の名前が消える場合が多いということです。
 
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まず、そもそも昔は苗字の概念が現代と違うので、男性についても「苗字があった」と単純に言うことはできません。


http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=66551 (No.4の回答)
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=81165 (No.3,4,5の回答)

さらに、時代、使われる文脈など一概には言えません。

しかし、簡単に言ってしまえば「藤原定子」という表現はあります。

「今夜奉令旨、以藤詮子為宣旨、以藤原淑子為御匣殿別当、以藤原近子為内侍、以下官及右中弁懐遠・・・」(『小右記』天元5年3月11日)
「二位尼北条ノ正子・・・」(『倭朝論抄』)

基本的に、公文書か歴史書で言及されるときに使われます。
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貴族や武家には「家」がありましたから、家系のない庶民とは違い、きちんと「○○家の○○」と認識されていて、もし戸籍法のようなものがあればそのように記されていたはずです。

でも呼称されていたかどうかは疑問ですね。

女性は婚家に行く身ですし、その上家長制度の中では男性の血筋が優先なため、誰々の妻・妹・娘の○○と呼ばれることがほとんどだったでしょう。これは飛鳥・平安の世からそうだったようです。たとえば、noribou11さんのあげた藤原定子ですが、古文書には「藤原○○女(むすめ) 定子」と記されています。このようにきちんと苗字のことを名言はしていないでしょう。でもこれで「藤原家の女性」というのは分かるはずです。「藤原定子」と認識し出したのはもっと後の人達です。

「お市」にしたって同じことだと思いますよ。聞いた人が判断してくれるならいちいちどこの家のものかは名言はしないし、記しもしないという事だけのことだと思います。多分人々の呼称もそうですね。
ですから、戦国時代から急に名前のみの呼称になったのではなく、後世の人間の価値観や習慣で呼称は変化してくので、今はただ苗字は省略して呼んでいるだけだと思います。
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>何故、戦国時代からの武家の娘は苗字付きではなくなるのでしょうか?



太閤さんの側室となって松の丸殿と呼ばれた人は誰だったでしょう?

 そう、京極竜子ですよね。


・・・と言うことは、戦国時代からの武家の娘にも苗字はあったということ
ではないでしょうか。
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