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こんばんは。
先週【特設】アンケート欄に
「死なないで欲しかった有名人」という質問を投稿した者です。今でも質問を受け付けていますので、一度ご覧になってみてください。

ここで思いついたことですが、死について少し考えてみようと思います。

私の祖父が亡くなる前にこのようなことを言っていました。
「あまりにも奇麗事のように思われるかもしれないが、認知症や体が不自由になって長年にわたり多くの人の介護を受けて死ぬのはしごく忍びない気がする。
だから人に迷惑をかけて死ぬことだけはしたくない」

実際、80を過ぎてもいたって健康だった祖父ですが、春に肝臓を患って入院し、それから2ヶ月も経たずにあっけなくこの世を去りました。

祖父にとって理想的な最期だったのかどうかは私には分かりませんが。


私は今25なので、まだ人生の半分も生きていません。
祖父の言い分も分かる気がします。
介護を受けて死ぬよりは、健康なままで苦しむことなく死ぬほうがいいのかなと思います。
介護を受けている人も好きでそのようになったわけではないことは百も承知ですが、果たしてその人が亡くなった時に自分の人生に満足できたと思えるのでしょうか?

人間にとっての一番の理想的な死に方は何だと思いますか?

A 回答 (9件)

現実的な話で夢もなく申し訳ないのですが..


死が近づいてくると誰もが意識がもうろうとして意識混濁という状況に陥ります。つまりその時点で本人には生きてるのか死んでるのかという自覚も、もうないと思うのでその域に達した時点ですべての人にとってそれまでの苦しみは帳消しというか開放される方向へ行ってると思うのでそこで「すべて良し」となるのではないかと最近、親戚を亡くし自分も病気になり病室の方の死などに身近に接してすごくそう感じてます。

病気で苦しんだ時間が長く辛かったとしても、呼びかけに応じられない状態の時、すでに人はすべてから開放されて
楽な状態へ向かうとしたらそれで誰にとっても理想な死なのではないかと私は勝手にそう考えてます。

そう考えると死自体は怖いものではないのではないか、地球というこの星が存在して、今までたくさんの生物の死が毎日繰り返され、死は私達が思っているほど特別なことではないのではないかとさえ思っています。個人的に好きな人、大事な人の死に向かい合った時の悲しいという感情はまた別にして。生物として死は宿命です。その人それぞれの人生という時間は長さではなく何をしたかでもなく「終えた」ということに大きい価値があるのではないかと思います。たとえどんな悲しい死であっても。生きそして終えたことが「良し」なのではないか、そうであって欲しいです。

そういう風に考えないとやりきれない気持ちと最期は死んでいく誰にとっても何もかもから救われる、報われる時であって欲しいと強く願いたいので。こういう考えもアリですよね。
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この回答へのお礼

人間は生まれた時既に、寿命を与えられているのかもしれませんね。短命で終わる人、100歳まで生きる人など本当に人によって大きく違います。
与えられた一生に対して、今後どう生きていけば死んだとしても価値があるものになるのか・・・。
これからじっくり考える必要がありそうですね。

死ぬことが怖いかどうかということですが、まだ人生経験の浅い若年層の人にとっては(私もここに含まれますが)、死というものについては漠然とした感覚しかまだ無いのだと思います。そのため死ぬことがとても怖いものと感じてしまうのだとも思います。
逆に70代80代の人生の大半を生きてきた人たちは、今まで周りの多くの人の死を見てきています。そのことによる長年生きてきた知恵と言いますか、死ぬことについての本当の意味が分かってくるのだと思います。

お礼日時:2005/11/17 00:12

こんにちは。



人間、生まれてきたからには、いつかは死ぬわけですが、理想的な死って、私は死ぬ直前に「いい人生だったなぁー」と思える死が理想です。

そうですよね、誰だって苦しまないで死ねたらいいですよね。私は生きているんだから、死ととなりあわせだと、いつでも思っています。あした交通事故で死ぬかもしれないし、大きな地震が来て今日死ぬかもしれないよって子供に言うこともあります。子供に、なんで生まれてきたのに、どうして死ぬの、死にたくないよって泣かれたことがありますが、いろいろ言いきかせるのに大変でした。
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この回答へのお礼

>死ぬ直前に「いい人生だったなー」
私最期このよう感じることが出来れば本望ですね。
大切なことは今まで何年生きてきたかというのではなく、人生をどう生きてきたかですよね。

今は確かに何があるか分かりません。死と隣りあわせということも良く分かる気がします。
でも災害や事故などの不慮の出来事によって亡くなった人たちは、人生を全う出来たと思えたでしょうか?

突然死んでしまった時にも、自分の人生は悔いが無かったと思えるように、日々真剣に生きていくことが必用ですね。

お礼日時:2005/11/17 00:23

 こんばんは。



 あの質問、あなたでしたか。
 いい質問たてられましたね。

・親よりは後に。
・苦しまない。

 ですかね。

 人生80年なら、私は中間地点を廻ったばかりです。でもそろそろ身の回りから、よけいなものをそぎ落としていきたいと思います。
 それは、これからの人生を身軽に生きるためです。したいことはまだまだたくさんあって、でも時間がそろそろ見えてる。なら、フットワークは軽い方がいいでしょう。

 そして、なにより、身ひとつに近い状態で、最期を迎えるための準備です。
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この回答へのお礼

以前の私の質問には2回も回答してくださいましたね。
ありがとうございます。

親の前に死んでしまうことは、一番の親不孝かもしれません。これは大事なことですね。

苦しまずに死ねれば一番いいかもしれませんが、
死ぬ前の多少の苦しみは経験しなければいけないと思います。

なので私の結論はやり残した事が何も無いように、人生を全うして死ぬことですね。
そして家族の一人一人に感謝の言葉をかけて死ねたら本望です。

お礼日時:2005/11/14 19:17

願はくは花のしたにて春死なん そのきさらぎの望月の頃   西行法師



私も、法師のように逝きたい。
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この回答へのお礼

ありがとうございました。

お礼日時:2005/11/14 19:09

知人の祖父のことですが、夜いつものように寝床に入って、朝になったら冷たくなっていたそうです。

寝ている間に心臓が自然に止まり、苦しむこともなかっただろうというとお医者さんに言われたそうです。いわゆる大往生ですね。80歳超えても健康で明るく朗らかな方だったそうです。もちろん遺された家族が悲しんだのは言うまでもありませんが、でも周りが皆「幸せな死に方でよかった」というような事を言ってました。私もそう思いました。

子供も自立し、生活のために働くことも必要なくなり、体を悪くして家族に迷惑をかけることもなく、自分の好きなことをして過ごし、「もういつお迎えがきてもいい」と思う頃そのような死に方で逝けたら、と思いますが、わがままですかね・・・。
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この回答へのお礼

>夜いつものように寝床に入って、朝起きたら冷たくなっていた
これは#4さんも書かれていますが、本当にポックリ死んでしまった例ですよね。

周りの人は幸せな死に方と思われたかもしれませんが、私は少し疑問が残ります。
以前にも書きましたが、苦しむことなく死んでしまったら自分が死んだという自覚が無いと思います。
もちろん苦しむ時間が短ければ短いほど本人は負担が無く死ねるのだと思いますが。

お礼日時:2005/11/14 19:04

人に介護されて生きるって確かに生きててもそれは心臓が単に動いてるだけって感じですね。


言葉は悪いですが介護が必要になった人は何のために生きるのでしょうか。やはり幸せうんぬんより死ぬことが恐いのでしょうか。
人に記憶も経験も喜びも何も伝えることがなくなったときに自分の一生は終わったと思います。自分の理想は朝起きたらポックリってのが楽そうで理想です。
でも願わくば自分の身内とかごく親しい人に手紙、まぁ遺書でもいいのですがそれを用意する。それでどこか他県とかの山奥の密林に行ってそこで生きられるだけ生きるっていうかそんなことを少し希望します。これは年取ったとかそうじゃなくても自殺する場合でも自分はこれを選びます。
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この回答へのお礼

>介護が必要になった人は何のために生きているのでしょうか。
これは難しい問題だと思います。
死ぬことが怖いというか、家族などの身内の人はそのようになってしまったら、その人の世話をしなければならないという義務に近い暗黙の了解があるのだと思います。

時々ニュースで親の介護に疲れて、親を殺してしまうという事件をを聞きます。どんな形にしろ人を殺してしまえば犯罪です。かといって安楽死を本人が望んだとしても、今の日本ではそのような制度は適用できません。

朝起きたらポックリなんて一番苦しまない死に方かもしれません。でも本人は死んだという自覚が無いのではないでしょうか?
その自覚が無ければ成仏も出来ないと思いますが。

お礼日時:2005/11/14 18:53

人間にとっての一番なんて人のことまではわかりませんが、


正直言って死ぬのは恐いです。
できれば、人に迷惑とかは抜きにして認知症にでもなって
痛みも無く恐怖もなく、かつその時間も短く生涯を閉じられれば
幸いです。
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この回答へのお礼

私も死についていろいろ考えたことが何回もあります。
死ぬことは確かに怖い、でも人間はいつか必ず死ぬ。
このように割り切って考えることも必要だと思います。

認知症も期間が短くすぐに死んでしまえば、その自覚も無く楽なのかもしれませんが、10年以上も症状が続けば周りの人には介護等が甚大な負担になってしまいます。本人は物事の判断がつかないのですから、これは大きな問題だと思います。

お礼日時:2005/11/14 18:39

体が利かなくなって自分の始末が自分でできなくなるとか、物事の


判断が出来なくなった時には、実体的な生命は終わっていると思っています。
私にとっての希望は、そうなる前に終息を迎えることです。今や、何時
その時であってもよい年令に達して、実感として死を意識しているので、
あなたのお祖父さんと同じく、世話にだけはならぬよう願っています。
ただ、酒を飲めぬ体質なのが幸いして、植物化の可能性が低いようなのが
救いではあります(^^)。
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この回答へのお礼

認知症の人たちはもう物事の判断は出来ません。
そうすればもう介護を受けて生きていくしか方法は無いと思いますが、その本人は介護を受けているという自覚も無いわけです。

私はそのような晩年だけは嫌ですね。
死ぬまでは周りの家族や友人のことを覚えていたいです。
そして最期は家族の人たちに看取られながら逝きたいですね。

お礼日時:2005/11/14 18:30

一番の理想的な死、、、というのは大きなテーマですが、人のためになるのは、一つの理想的な死かもしれません。


自分の死が、誰かの役に立つとしたら、その死は意味があると思います。
アニメや小説、映画の中では多いですが、現実から離れているからこそ、私には魅力的に思えるのかもしれません。

が、私個人は、嫌いなヤツに殺されるのも、悪くないかなー、と。
相手は人生がダメになるし、自分は死んで天国に行けるし。
あー、今プチうつなので、消極的な自殺願望があり、また、天国に待っている人がいるので、自殺では天国に行けないので。

今、祖父が97才で足が悪くなり、ベットで寝たきりではないですが、自分でトイレにいっても、汚す事もしばしば。
でも、介護が必要でも生きていては欲しいです。
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この回答へのお礼

人の死なんてそう簡単にめぐり合うことは無いですからね。
普段生活しているなら、経験しないような出来事です。確かに自分の死が誰かの役に立つのなら、例え死んだとしても意味があると思います。

臓器提供などが良い例ですね。

お礼日時:2005/11/14 18:21

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