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島津の兵はなぜ強かったんでしょうか?(幕末にイギリスと貿易する以前から)
戦国時代に武田や上杉と戦ってたらどうなってたと思いますか?

A 回答 (4件)

薩摩兵の勇猛さは、薩摩藩の「郷中教育」に起因しています。



薩摩の青少年藩士は、年齢によって「小稚児(こちご)」、「長稚児(おせちご)」、「二才(にせ)」というグループに分けられていました。それぞれが町内単位で組織を形成し、グループごとに「頭(かしら)」というリーダーを置いて、リーダーの統率のもと一日の大半を一緒に過ごしました。

このため薩摩兵の結束力は極めて強く、リーダーの指示であれば死をも厭わない戦闘集団が形成されたのです。明治維新において、郷士に過ぎなかった西郷隆盛が主導的立場に立てたのも、彼が二才頭であったことが大きな理由の一つとされています。

参考URL:http://washimo.web.infoseek.co.jp/Report/Mag-Gou …
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
URL読みました。
確かに恐ろしい人たちでしたね。

お礼日時:2006/01/14 19:36

薩摩は土地の生産力が低い地方でしたので確かにハングリーな気質があったと思います。



しかし独特の風習があり、例えば主従の精神的絆が強いので戦場で部将が戦死すれば部下はその地に踏みとどまり全員死ぬまで戦い続ける風習でした。
これが関ヶ原の退却時島津豊久が戦死した時に部下が奮戦して徳川方の松平定吉や井伊直政に重傷を負わせ追撃を阻止する要因になったのです。

また鉄砲の装備率が高く、士分でも鉄砲を扱いましたから全体としての火力は大きかったといいます。

上杉、武田と戦ったとしたらというifには答えられませんがかなり善戦したのではないでしょうか。

幕末の示現流は確かに第一撃に全力をこめる刀法で他流と異なる点で注目されましたが特に傑出したものとは言えません。 しかし実戦向きの刀法ですから肉薄戦には強かったと思います。

なにより武士階級の比率が多い藩で戦時の動員力は他の藩より優れていました。

これら多くの要因が結集して「強い」との風評になったのでしょう。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
家来にしてみれば恐ろしい風習ですね。

お礼日時:2006/01/14 19:33

言われるように示現流を知らない他藩は最初は驚いたと思います。


でも慣れればそれ程ではありません。
戦国時代の武田や上杉との件ですが軍団としては勝負に成らんでしょう。勝てません。
太平の世が長く続いた後の幕末の騒乱において野性味のある薩摩が光って見えた。と言う程度です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
示現流というのが大きな理由みたいですね。

お礼日時:2006/01/14 10:50

さまざまな理由があると思います。


一つは「土地が痩せていて、他藩に比べてハングリー精神が高かった」。
一つは「薩南示現流」の存在。これは薩摩に伝わる剣術で、新選組をして「薩摩の初太刀は外せ」と言わしめたほどです。「トンボ」という独特の構えから数間の距離を一気に詰め、一太刀の下に切り捨てるという剣術です。
伝統有る藩主家の存在も大きいのではないかと思います。ぽっと出の他藩に比べて「名実ともに伝統有る主君」の存在は、藩士の精神的支えとして大きな存在では無かろうかと思います。

ただ、幕末の裏表ある行動について、徳川慶喜公は明治に入ってからも怨みに思っていたそうですね。長州に比べて、見方の振りをしていて裏切った薩摩については、新政府の世になっても「武士として認めがたい行動」に映ったと聞いています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。
徳川慶喜が明治になっても薩摩を恨んでいたという話は私も聞いたことがあります。

お礼日時:2006/01/14 10:48

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