この人頭いいなと思ったエピソード

大和朝廷からみれば
武蔵国は辺地であったでしょうが
なぜ多くの郡を擁する大国だったのでしょうか?
今の埼玉・東京・神奈川の一部が全部そうだったのですからでかいですよね?

A 回答 (3件)

戦国時代以前、関東地方で一番重要な国は上野(群馬県)であったようです。

この地を巡って、上杉家(管領)、上杉謙信、武田信玄、北条氏康が激しく争っています。

一方、武蔵は今ほど重要な地域ではありませんでした。なぜかというと、

* 武蔵野台地から西の低地は、利根川などの大河川の氾濫原であり、人が住んで農耕をできる状態ではなかった。昔の利根川は東京湾に注いでいました。洪水の度に川の流路が変わる湿地帯です。

* 武蔵野台地は、水が乏しいので農耕には向かず、ただの荒地であった。

武蔵の中で、人口が多くて戦国大名の争奪の対象になったのは、川越から八王子にかけての地域です。この辺りは、当時でも農耕が可能でした。

武蔵が発展したのは、徳川家康が関東に入り、利根川の流路を銚子方面に動かす大規模な治水工事を行ってからです。さらに、関東地方の低地が洪水の恐怖から概ね解放されたのは、第二次大戦後になってからです。今でも、利根川水系の洪水防止のための工事は続いています。

ご質問の答は
「武蔵国は確かに面積は広かったが、耕作可能な面積は僅かで人口も多くなかった」
です。
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律令制度による国郡制以前の国造も影響していたのではないかと思います。


また「辺境だから国域が広い」ということもあるかと思います。
陸奥・出羽等が良い例でしょう。
何故このような国域であったか、何故「大国」であったか、というのはある意味究極の質問です。
これの明確な答が出ないからこそ研究され続けているとも言えます(^^;)
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大和朝廷の時代は、武蔵の国は辺地ですね。


武蔵が関東の中心になったのは徳川家康が江戸に移ってからで、戦国期は北条氏の小田原、それ以前は鎌倉が関東の中心でした。鎌倉時代以前、例えば平将門の時代だと関東各地にそれぞれ有力豪族がいてほぼ対等の関係だったはずです。

>なぜ多くの郡を擁する大国だったのでしょうか?
いつの時代に関する質問でしょう?
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