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 高校時代は大東亜戦争は日本の勝利も十分に有りえたと考えておりました。
 しかし色々な資料を読んでいくうちに日本の勝利への道が見えなくなりました。

 当時の軍部首脳は戦争の終結時を どのように考えていたのでしょうか?教えてください。

A 回答 (14件中1~10件)

概ね、議論は尽くされているようですが、補足までにいくつかの資料を提示させて頂きたいと思います。

回答の結論は、当時の日本(特に日本の政戦略を主導した帝国陸軍)の戦争終結への見通しが全くの『丸っきりの他力本願』であり、その戦争指導がほとんど『泥縄』であったというものです。また、当時の国家指導者、なかんずく帝国陸軍指導者に「やるからには防衛線をどこに引きどの程度の兵力で補給線をどうすれば何年戦えるか?その間に世界情勢がどのように変わりどの時期にどのような講和条約を結ぶのか』などと言う冷静な、戦争への青写真があったと考えるのは不可能と結論づけるしかありません。
No.10の回答に対して、質問者は、『それでは 丸っきりの他力本願?!まじスっか?』と反応されていますが、『丸っきりの他力本願』であったことを示すこういう資料があります。

「対英米戦争は長期大持久戦に移行すべく戦争の週末を予想することははなはだ困難にして、特に米国の屈服を求むるは先ず不可能と判断せらるるも我が南方作戦の成果大なるか英国の屈服などに起因する米国世論の大転換により戦争終末の到来必ずしも絶無にあらざるべし(1941年9月6日において、帝国陸軍の準備した「帝国国策遂行要領」に対する質疑応答資料。本記事に対する出典は 大江志乃夫著「日本の参謀本部」中公新書、1988年第10刷)」

同時に当時の、特に日本陸軍が如何に対米線に不準備であったかという事情は、以下の資料にも提示されています。著者の堀氏は、戦後GHQから『マッカーサーの参謀』とまであだ名された対米情報参謀ですが……このエピソードの時期は昭和18年11月(対米開戦から約2年経過した1943年末)になっています。

「『堀君は米国半に所属して、米軍の戦法を専心研究してもらう。そのためには先ず戦場を見てきてもらいたい』これが杉田課長の第一声であった。正直言って堀は驚愕した……<中略>……野球の試合が中盤以後になって、相手の攻撃に手こずりだして、『さあ、データーを調べよう』というのと同じだ。(本記事に対する出典は、堀栄三著「大本営参謀の情報戦記」文春文庫、1996年第3刷)」

文中、『杉田課長』として登場するのは当時の陸軍参謀本部第2部第6課(対英米情報)課長の杉田大佐です。また、文中、『堀』として登場する人物は著作者の堀栄三氏本人です。

同じく、土門周平氏の『参謀の戦争』PHP文庫、1999年初版でまとめられた当時の国策文書の要約(同321-323ページ)では1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に対しては、「勝利の見込みのない戦争を決意しようと言う奇妙な決定」との注釈がなされています。
そういう奇妙な決定に対して、質問者は「天皇の御裁可を仰ぐ以前に軍内部で無理!って声が上がる』はずだとコメントされていますが、これに対してはこういう資料があります。当時の陸軍省整備局戦備課の田辺少佐(当時)の回想です。ここには、内心には「無理だ!」と思っていても口に出せない当時の雰囲気が述べられています。

「あの当時の会議の空気はみんな強気でしてね。ここで弱音を吐いたら首になる。第1線へ飛ばされてしまうと言う空気でした。「やっちゃえ、やっちゃえ」というような空気が満ち満ちているわけですから、弱音を吐くわけにはいかないんですよ。みんな無理だと内心では思いながらも、表面は強気の姿勢を見せていましたね。私も同じです(本記事に対する出展は、NHK取材班『太平洋戦争 日米開戦 勝算なし』角川文庫、1995年再版)」

これらの資料を鑑みる限り、冒頭の結論にたどり着く意外の選択肢は余り無いと考えます。
なおご不審がありましたら、これら参考資料の引用する原典資料に当たられるのがよいかと思います、民間で入手可能かどうかまで確認したわけではありませんが、防衛庁の発行した戦史叢書などには原点資料の原文が載せられているのではないかと思いますので。
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この回答へのお礼

本当に有難う御座います。
不審など有ろうはずも御座いません、詳しい回答感謝です(T_T)
堀参謀や田辺少佐の本是非読んでみたいです。

お礼日時:2006/05/07 23:45

こんばんは。

4月27日付けの読売新聞「検証・戦争責任」という特集を参考にして、お答えしたいと思います。他の皆様の回答通り、第1次近衛、平沼内閣においては海軍は米内-山本-井上の英米協調派ラインが形成されており、何とか対米戦争を回避しようとしていました。しかし、記事によると海軍においても課長以下では親独派が多数派を形成していたようです。英米協調派がトップを退くと親独派が台頭してきたようです。そんななか三国同盟が締結され、アメリカ等によるABCD包囲網が発動、日本に石油の輸入がストップすると海軍首脳部は対米決戦を考えるようになります。記事によると41年7月の連絡会議において永野軍令部総長は「米に対しては今は勝算あるも、時をおうてこの公算は少なくなる」と主張しました。その裏には“日米双方の艦船建造ピッチから41年4月ごろが対米兵力のピークで、これ以降は国力差から建造競争は引き離される一方だ--との判断が底流にあった”と記事には書かれています。つまり、石油の備蓄はどんどんなくなっていく、そうなる前に一か八か戦おう、というのが主戦派の考えだったようです。記事では41年9月時点での太平洋における海軍力バランスも掲載されており、それによると太平洋に限ってみれば日米の保有艦船数は日本の方が上回っているのです。こうした事実が日本が戦争に踏み切った背景にあると思います。
では主戦派はどうやって対米戦を乗り切ろうと考えたのか。主戦派は太平洋上で一大艦隊戦を行い、アメリカ海軍を殲滅しようと考えていたようです。そのため大和、武蔵と言った超ド級戦艦が建造されました。ド級の「ド」とはそれまで世界最大級の戦艦名前頭文字と記憶しておます。ところが連合艦隊の指揮をとっていた山本五十六がその策を却下。彼は航空母艦による真珠湾奇襲攻撃を提案しました。五十六はこれからの戦争の主役は航空機を母体になるものとし、アメリカ艦隊の空母が母港としていた真珠湾を攻撃し空母を破壊しようとしました。ご存知の通り、真珠湾奇襲は成功を治めましたが、五十六が目標としていたアメリカ艦隊の空母はちょうど真珠湾を出払っており、無事でした。翌年、五十六はアメリカ空母艦隊をミッドウェーに誘い出すことに成功。天下分け目の戦いを行いますが、これに敗北。以降、日本軍は敗戦の道をたどることになります。
長くなりましたが、これが私の考えた回答です。多少、事実と違うこともあるかとは思いますがお許し下さい。最後にミッドウェーで勝ったら、日本が勝ったか?という質問もあるか、とは思います。おそらく日本はやはり負けていたでしょう。戦争前、五十六は天皇に「この戦争勝てるのか?」と尋ねられ、こう答えたそうです「2年や3年は暴れて見せますが、その先は難しいかと思います」と。だから、私はどうやってみてもこの戦争には勝てなかったと思います。

この回答への補足

ya-ken0829さんには大変ご無礼になってしまうとは思いますが 皆さんに 私の質問が上手く伝わって内容なので失礼を承知で書かせていただきます。
 
「2年や3年は暴れて見せますが、その先は難しいかと思います」>この話や日米の太平洋艦隊の編成数・生産能力差などは私も知っています。
質問の内容は山本長官は2・3年暴れてみせると言いそれ以上は無理だから戦はするな!と言っているわけですよね。それに対し永野軍令部長は今なら勝てると言っているんですよね、明らかに短期決戦。この勝てると言うのは ある特定した戦局を言っているのではなく米に戦争で勝つという意味ですよね まさか太平洋艦隊を叩けばアメリカが恐れをなして講和条約を結ぶなんて思っていた等と言う幼稚な戦略で戦争を始めたとは思えないし其れでは天皇の御裁可を仰ぐ以前に軍内部で無理!って声が上がると思います。やるからには防衛線をどこに引きどの程度の兵力で補給線をどうすれば何年戦えるか?その間に世界情勢がどのように変わりどの時期にどのような講和条約を結ぶのか?と言う青写真が無いわけが無いと思います、それがわかる方は是非教えてください。お願いします。

ここに書くことはya-ken0829さんには本当に 失礼なことだと十分に反省しておりますのでどうぞ御気を悪くなさらないで下さい。

補足日時:2006/05/04 02:35
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この回答へのお礼

ご丁寧な回答有難う御座います。

お礼日時:2006/05/04 02:34

昭和10年ー16年に掛けて、陸軍参謀本部は<対露戦>と


<対米戦>の双方を想定しており、結果として対米戦を選択したことは
ご存知?対露戦を選択した場合は、シベリアが日本領になっていたかも
しれません。
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この回答へのお礼

有難う御座います。こういうお答えを待ってました。
仮想敵国は私でもわかります。
<対米戦>どのような内容だったのかが知りたいんです。

お礼日時:2006/05/03 16:56

>当時の軍部首脳は戦争の終結時を どのように考えていたのでしょうか?



何も考えてはいません。
戦争するのが仕事なのです。
最後まで、
「良い仕事してますねー」
と、仕事をするまでです。

戦争の終結とは、政治家の仕事です。
それまで「狂ったように」全力で戦う事しか「どたま」にはありません。

この回答への補足

それは1兵卒のかんがえですよね。
作戦参謀や高級将校が目の前の戦場勝利の為だけに戦うわけではないと思うのですが。

補足日時:2006/05/03 16:46
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希望的観測だけでしたね。


皇国が南方資源を手に入れて、不敗を続ければ、デモクラシーの米国は嫌戦気分になるだろう。
ドイツが英国に勝てば、同盟国の米国も手を引くだろう。
ソビエトは、ドイツの前にすぐに降伏するだろう。
孤立無援の米国は、戦争継続の意味を失うだろう。
米英に援助されてる中国は、援助がなくなれば降伏するだろう・・・。
そんなところですかね。
決して日本が勝つとは思ってなかった節があります。

この回答への補足

それでは 丸っきりの他力本願?!まじスっか?!

補足日時:2006/05/03 17:02
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#4、6、7です。



敢えて陸軍でまともな人を掲げるとすれば映画評論家の水野晴男先生の『シベリア超特急』でお馴染みになったマレーの虎こと山下奉文将軍と今村均将軍くらいですかね。

昭和14年のノモンハン事件でのソ連の機械化部隊に対する大敗を受けて、昭和15年に山下将軍がドイツとソ連を訪問しました。モスクワではノモンハン事件当時のソ連軍司令官のジューコフ将軍と会見しました(この方はドイツ軍のモスクワ攻撃を跳ね返し、後にベルリンを陥落させたソ連の英雄です)。

それからドイツに入ってベルリンでヒトラー総統と会談し、装甲部隊の父であるグデーリアンによって育てられたドイツ軍装甲部隊を視察しました。

この訪問を受けて陸軍省に部隊の機械化が必要であるという視察報告を行ないましたが、あまり生かされなかったようです。

山下将軍はあまり政治には関わらなかった生粋の軍人なので、山本提督のような戦争回避責任を求めても仕方がないのかも知れません。

とにかく陸軍は関東軍のように政治に野心を持っている連中か、山下将軍のように軍人の本分を守る人たちに分かれていたようです。
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基本的に海軍は機械に頼り戦闘しますからどうしても計数に頼ります。


これに対し陸軍は開戦当時まだ第一次世界大戦の戦術を信奉していたのです。

集団白兵突撃による戦闘でまだ中国では勝利を重ねており、皇軍不敗の信念さえあれば勝利は間違いないと精神主義がますます高まっていました。

この両者の差異が対立まで高じたのです。
軍人は戦争が仕事ですから日常の学習も軍事面から思考してしまい勝ちです。
しかも自分の担当する分野からの思考の範囲に留まり勝ちです。

陸軍はまだ敗北らしいものの経験がありませんでした。 唯一の敗北経験はノモンハン戦でしたがこの事実は隠蔽されてしまい、深刻にこの事実を論議する事はタブーとしてしまったのです。
しかもこの陸海軍の調停に任ずる人材が日本では存在しませんでした。 
唯一存在するとしたら天皇でしたが天皇には近代戦の知識は乏しく、実力的に指導する見識をもちませんでした。
戦争は外交の一部でしかありません。
政治、外交、軍事に通じた戦略家が日本に育たなかったのが全ての不幸の原因とおもいます。
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#4、6です。



私が大切だと思うのは戦争を起こして終わらせることではなくて、戦争を回避することなんですね。

石原莞爾も熱心な日蓮宗信者でちょっと狂信的なところがあります。『世界最終戦論』などは夢物語だと断じて良いと思います。

でも海軍にはまともな人たちがいて、彼らは必至で対米戦争を回避しようとしたんです。それが米内光政、山本五十六、井上成美らなんです。山本などはテキサスの油田を直接見てアメリカとの戦争が無謀であることをしっかり認識していました。それで陸軍や海軍の同調派が命を狙っていても日独伊三国同盟に絶対反対したりして、その勇気たるもの感服するものがあります。

それに対して陸軍にアメリカの国力を正確に認識していた人物が何人いただろうと私は極めて疑問に思うのです。

私の祖父は、浜松高射砲連隊の兵長でサイパン島で戦死しました。立派な遺族ですよ、私は。

>日本人はどうも祖先を馬鹿にしすぎる気がして これも戦後教育の賜物ですかね?・・・・・・(-_-;)

私も祖先をバカにしたくはありません。でもダメなものはダメというべきなんです。サイパンの玉砕戦とかも無謀なものは無謀だと言うべきなんです。

私は自分の実の祖父と会ったことがないんですよ…。
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#4です。

以下のご疑義にお答えいたします。

>日本の頭脳・職業軍人が?それはいくらなんでも言いすぎでしょう。感情的にはそれくらいひどかったと言うのも解りますが…

まあ海軍に山本や米内らがいましたが、彼らが主流になればアメリカに戦争を吹っかけること自体ありえないはずです。でも当時の日本は陸軍が主導権を握っていました。

陸軍は完全にダメです。特に関東軍。あの時代でただひとり戦略的な思考の出来たあの石原莞爾でさえ

『世界最終戦論』

で、アジアの盟主として君臨した日本とアメリカの決戦とならなければ戦争は終わらないと断言しているのですから。あと陸軍の頭目らは推して知るべしです…。

<石原莞爾>
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E5%8E%9F% …

この回答への補足

あの石原莞爾でさえ>
夢物語だと言う意味でしょうか?

補足日時:2006/05/02 14:41
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たとえ少々の不利な条件があっても講和に持ち込めば勝利ぐらいの考えはあったとおもいたいです。



それ位の知識はあったとおもいます。

しかし緒戦で不幸にも勝ち過ぎてしまい、国民全体が調子に乗ってしまい戦争を継続するしかなくなったのが実態でしょう。
敗北が重なり始めると日本全体を道連れにするしかありませんでした。

昭和天皇の決断で日本は救われたのです。
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この回答へのお礼

有難う御座います。

 たとえ少々の不利な条件があっても講和に持ち込めば勝利ぐらいの考えはあったとおもいたいです。

>ですよねーその時の作戦立案みたいなものは話だけでも何か残っていないんですかね~?なんか軍部が馬鹿でどうしようもないとか内輪もめばかりだとか自身の出世保身とか海軍との勢力争いとか・・・・陸軍全員がそんなわけ無いじゃないですか?

 日本人はどうも祖先を馬鹿にしすぎる気がして これも戦後教育の賜物ですかね?・・・・・・(-_-;)

お礼日時:2006/05/02 14:52

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