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1974年中日はセ・リーグ優勝しましたが、そのときの監督は与那嶺要という日系2世の人です。実は、1951年のシーズン途中に来日し、巨人に入団。首位打者3回、MVP1回の活躍を残した球史に残る選手です。ところが、1960年オフ水原茂監督から川上哲治に代わり、与那嶺は戦力外通告を受けるが、そのことが川上との確執を生み、未だに与那嶺は巨人のO.B.会に一度も参加していないということです。

その後与那嶺は中日に移籍し、現役引退後は中日、ロッテのコーチを経て中日の監督に就任しました。

私個人的には、長嶋引退のころから野球を見るようになり、与那嶺監督に対しては紳士的な人だと思っていました。しかし、川上と与那嶺の間に先述のような確執があるとは今まで全く知らず、子供のころのあこがれの監督のエピソードとしては、ショックに思いました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8E%E9%82%A3% …

10月12日に中日の優勝が決まり、長嶋の引退、そして、14日を長嶋の引退試合にすること決まったと報道されたと記憶していますが(日付など間違えがあったらごめんなさい)、16日からはロッテとの日本シリーズが決まっているため、日程的にも厳しく優勝パレードは14日に名古屋で行われました。星野、谷沢など主力メンバーは、やむをえずパレードに参加したため、引退試合は大島、藤波などはじめほとんど2軍選手で臨みました。

引退試合は、与那嶺はパレード参加のため別の人が指揮したのではないか。また、先述の確執の話を聞くと、日程的な厳しさという理由もありますが、与那嶺が川上への積年の恨みを晴らすべく、故意にパレードを14日にあてつけたのではないかとも私は推測しています。

この件に関して、私の推測は正しいのか否か、また、与那嶺でなければ誰が引退試合の指揮をしたのでしょうか。ご存知の方よろしくお願いします。

A 回答 (2件)

巨人の10連覇を阻止して 中日が20年ぶりに優勝しました。

このことがすごいことなのです。9年もつづけて 優勝するチーム・王・長嶋そのほかのすごい選手たちのチームを倒して優勝したことがすごい事でした。親会社 中日新聞は地方新聞では断トツ(東海4県・北陸・東京がエリア)ですが 全国紙 読売新聞にはまけます。新聞 野球ともライバルと思っています。 このときは日程的にこの日しかパレードできなかったと思います。繁華街の2キロのパレードに6時間かかりました。選手をすべてオープンカーに分乗させてパレードをしたので取り囲まれて 握手攻めにあい進めなかったし 沿道に人が繰り出して名古屋駅前や栄付近が人で埋まりました。(この年に坂東英二が歌った応援歌がこの地域だけ、それも優勝が見えてきた8月ころから二ヵ月で40万枚売れた)このことの反省で 次の優勝のパレードから
はトラックに選手を乗せ パレードをするようになりました。
 長嶋選手の引退はそのときには知りませんでしたし あとから思うに
巨人が10連覇を果たしたらこの時に引退は無かった・引退は伸びたのではないかと思っています。(川上監督の勇退がからんでくるからです。)
 引退試合の指揮は ヘッドコーチで後の中日監督になる近藤コーチです。(近藤コーチも巨人の投手で指をけがして首になり中日に入団した人です。出身は愛知県)
 2度目の日本一になれば パレードはやったと思います。(そういう状況でした)
   

この回答への補足

中日が巨人のV10を阻止したことで、一つの時代が終わり、長嶋は引退を決意したと思います。V10を達成していたら、もう一年やっていたでしょう。それくらい、9連覇というものが偉大であったか。中日、そしてそのファンの熱狂も、現在よりはるかに大きかったものだったと、想像できますね。もし、ロッテを破って日本一になっても、再びパレードで選手をお披露目していただろうというのもうなずけます。

個人的には1974年は野球をし始め、見始めた年で、その年で長嶋が引退したことは残念でしたが、1年ではありますが、勇姿を見れたことは幸せなことです。私の野球の原点となる年で、記憶に残る年でした。

回答をよせていただいた方々の内容を拝見し、引退試合の背景にあるもの、時代背景などをいろいろ考察させていただくことができ、いろんなヒントをいただき、楽しませていただきました。ありがとうございました。

補足日時:2006/06/26 21:33
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。1974年のセ・リーグは10月12日に中日の優勝が決まり、それを受けて長嶋が引退表明。14日の中日戦を引退試合とすることが報道されました。(13,14日が中日戦でしたが、13日が雨のため、14日はダブルヘッダーになったようです。)

中日も、優勝が決まり、16日からはロッテとの日本シリーズであるため、15日はシリーズへの準備で上京しなくてはならない(第1戦は後楽園球場)。パレードは、ペナントレース中にやらなくてはならないとすれば、13日では準備不足なので、14日しかないということでしょうか。20年ぶりの優勝ということで、しかも、長い巨人の天下を奪ったということもあり、名古屋は喜びをシーズンオフまで持ち越せない雰囲気だったということなのでしょう。

プロ野球=巨人、長嶋、王、V9という絶対的に巨人が強い時代にV10を阻止したというのは、確かにすごいことだと思います。新聞社のライバル意識は、思った以上に野球にも反映しているのですね。何年か前までは長い間、巨人ー中日のオープン戦は組まれていなかったと聞きました。公式戦まで手の内は見せたくないということなのでしょう。

お礼日時:2006/06/26 20:20

当日、後楽園でこの試合(ダブルヘッダーでした)を見ておりました。



もうかなり記憶は怪しいのですが、いずれにしても消化試合で、中日が主力を出すとは思っていませんでいた、名古屋でのパレードという話は実は初耳です。

中日の指揮を与那嶺監督がとっていたのかは記憶にありません、ただ、その後、巨人のコーチ(巨人へのドンの暗然たる影響下にありながら)に就任していますから、特に遺恨を表明してはいなかったのではと思います。

当時のヘッドコーチは後の名監督、近藤貞夫氏です、代わりに指揮を執るとすればこの方でしょう(というか、優勝は投手分業制を導入したこの人の功績だと思いますね。

この回答への補足

最近のパレードは、日本シリーズの結果にかかわらずシリーズ後に行うことが多いようですが、このころは日本シリーズ前に行うのが当たり前だったのでしょうか。

ただ、今と違うのは、このころは秋にキャンプだけでなく、オープン戦も行うことが多かった。また、西暦の偶数年は日米野球が催されますが、この年も行われています。そうすると、日本シリーズ後の日程も取れないということで、パレードは10月14日ということだったのでしょうか。それとも、優勝の余韻が消えないうちにやるという風潮だったのでしょうか。無理にこの時期にやる必要があったのか、ドラフト終了後などでもよかったと思うのですが。

もし、中日が日本一になっていれば、日本一のお祝いとして、2度目のパレードをやっていたのでしょうか?(さすがに、それは無いと思いますが)

長嶋の引退試合という歴史的な試合を主力メンバーで戦っていないというのは、あまりにもったいない。大島、藤波など当時2軍の選手は一生の思い出になるのでしょうが。

それとも、新聞社どうしの試合なので、読売のイベントにのりたくないなど、思惑があったということなのでしょうか。

いろいろ考えられますね。

補足日時:2006/06/26 08:15
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。1974年のセ・リーグのペナントレースは巨人の方が勝利数が多く、最終ゲーム差がない、勝率の差で中日が優勝したと記憶しています。最後まで熾烈な争いを繰り広げていたことを考えると、優勝決定と長嶋引退試合、日本シリーズと日程的に余裕がない中、パレードは引退試合に当てるしかなかったのかもしれませんね。与那嶺が確執を理由にパレードを当てつけるような状況ではなく、また日程の調整は球団がすることですね。星野仙一、高木守道などの主力メンバーも長年戦ってきた長嶋さんの引退ということで、どうしても引退試合は出場したかったと悔しがっていました。

与那嶺監督は1972年~1977年まで中日の監督をされています。監督の就任と同時にヘッドコーチ兼投手コーチに近藤貞夫氏が就任されています(1976年退任)。そうすると、近藤氏がこの試合の指揮を執るというのもうなずけますね。


でも、ultraCSさんは、長嶋の引退試合をご覧になったということですが、歴史に残る試合を見れてうらやましいですね。

お礼日時:2006/06/26 07:14

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