プロが教えるわが家の防犯対策術!

悪いことをしたら悪いことが、いいことをしたらいいことが
返ってくるのは本当でしょうか?
私の場合そっくりそのまま返ってきました。
それに対して、ものすごく悪いことをした人たちは今ものうのうと生きています。
この両者の違いは一体何によるものでしょうか?
私の考えではやはり罪の意識がある人間とない人間がいるせいだとおもいます。罪の意識があると、いつか爆発して不幸になります。
しかし、罪の意識すらないと不発弾のごとく死ぬまで爆発しないで生きられます。世の中そううまくはできていないから、復讐とか天誅という言葉があるのでしょうか?
因果応報。信じたいですが、やはりないのかもしれません。

A 回答 (13件中1~10件)

その後、回答がないのでチョット・・・



一般的因果と哲学上の因果、それと因果応報とは違います。

一般的な因果は理論上説明がつく因果、つまり因果関係がはっきり成り立っているもの。

哲学上の因果は、すべての事象は関わりあい(因縁等)ながら成り立っている。これは説明がつかない場合が多い。

因果応報は善因善果、悪因悪果の道理。つまり善行をつめば好ましい御利益が得られ、悪行をすれば苦しい目にあうというもの。
釈迦もこの道理を説いていますが、“対機説法”といって、相手のレベルにあう説き方をします。つまり“方便”として用いたのです。
なぜなら仏教の究極は“空”の道理です。“空”の道理では当然、善も悪もありませんので、因果応報は成り立ちません。

本来、善果は善行による報いすべてを意味し、好ましいことに限りません。悪果も同様にいえます。

善行を積むことによって苦しみを得ることもあり、悪行をすることによっていい思いを得ることも多々あります。

よって因果応報はありません。

正直者は馬鹿を見て、悪いやつほど利益(りえき)を得るものですが、社会を成り立たせるために、因果応報なる思想ができたのです。
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誰しも自分が可愛いのです。


悪人に天罰を、善人に幸運をは人情ですね。
でもそれは無責任ではなくても自己中の考え方。

理不尽というもの、
これは自分に都合の良くない場合に限って使われます。
もし宝くじで3億円当たってしまって
「私は何も良い行いしてないので受け取る理由がない、理不尽だ!」
と悩む人がいたら善人ではなく既得な人です。

不幸は相手を選ばないようです。
でも幸運は自分で選択したものしか受け取れない
ようになっていて

辛苦を味わい、今も辛苦するなら
その中で順応する自分が軸となり
用意されていた世界と逆したり
異なる世界を自分で構築することもあるでしょう。

過去にあった不幸も幸せになってしまうと
「お陰様で、あの頃は大変だったよ」等と
経験値にして自分の糧となり、
時に取り出して懐かしめるものになります。

逆に昔の幸せは
今辛苦を味わうにあたり、
いっそう辛くさせるものになってしまう。

人生は白いキャンバス
執着が色を付けているのです。
相対的に違う色との明度で濃い、薄いと感じるだけ。

因果応酬は周期的なリズム?になるのですね。

私は法則ではなく
強いものと弱いものの天秤。

戦いを挑んでくるのは
勝てる目算が出来ているからであり、
守るために戦うのは、守りきれても
その被害は攻め込んだ敵よりも甚大になる
のは過去の争いを見ても明らかです。

「弱いものの為に強くなる。強くなって弱いものを助ける。」

こういう法則?は自然が用意したものでなく
人間にしかない発想、
神でさえ失敗していてまだ作れないです。
しかしいつの日か
進化した人類が因果を断ち切れると思っています。

断ち切りたくないってことでしたら
強くならなくて構わないということになります。

でも男の子でしょ?
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早々にお礼をありがとうございます。



>電話でえらそうに悪かったなとだけ言ってきても、何も変わらないと
思いませんか?電話の彼、何かあったんでしょうね。
私を苛めて塾から追い出した奴の声にそっくりでした。
彼は今弁護士になるべくニート生活です。


その彼は、少しは人生の経験を積んで、質問者様に悪かったと思い、お詫びの電話をしてきたのかもしれませんね。

でもおっしゃるとおり、そんな程度では人を苦しめた過去の事実は消すことは出来ないと思います。

彼がその償いが出来るのは次の場合です。
1)苦を与えた本人に心から尽くし、身をもってありとあらゆる出来る限りの行動を起こして侘びなければなりません。
そして、相手が心から許しても良いという気持ちになったときに、初めて過去の悪因縁を消すことが出来ます。

2)自分が過去相手に与えたような苦しみを味わっている人の味方になり、助け、その辛い状況から救い出し、心から感謝される場合です。

それ以外の方法とは、とにかく辛い立場の人を見つけては力になってあげることでしょうね。
でも、人を苛め抜くことが出来るような人にとってはなかなか出来ることではありません。
彼はおそらく、人に無償で奉仕することは自分が損することだと思っているでしょうから。

とにかく人に人生に影響を与える位の「苦しみ」を与えてしまうとそれを償うのはたやすいことでは無いと思います。

質問者様にとっては、その理不尽な苛めに対して、恨み、憎しみを感じるのは当然ですが、どうかその負の感情から早く離れてください。

彼はのうのうとはしてはいないかもしれませんよ。
何らかの苦しみを味わっている可能性が高いです。

悔しい気持ちは分かりますが、仕返しは法則に任せて御自分の心を立て直してください。
心に暗い感情が残っていると、その負のエネルギーが他の暗い感情を引き寄せて心が負の感情に支配されかねません。
そうなってしまうと、心のままに負の因縁の種を蒔いてしまうことになります。
それこそ悔しいではありませんか。
彼の苛めの影響に今だに支配されていることになってしまいます。
ばかばかしいですよ。それこそ無念です。

早く忘れましょう。
彼がその自分の行いによって、これから受けるであろう
応報を憐れんで、許してあげられれば御自分の飛躍的向上につながると思います。
難しいですが・・でも、難しいからこそ価値があるとも言えます。
そうやってこの感情を乗り越えられれば、もう二度と同じようなことでは苦しめられなくなると思います。
このことを仏陀は因縁解脱と言っているのではないでしょうか。

偉そうなことを色々書いてしまいましたが、もし参考になれば幸いです。
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「因果応報」は確かに存在すると思います。


この世、この宇宙をも貫いている「原因と結果の法則」がすなわち「因果応報の法則」だと思います。

全てには原因(因)があり、それに条件(縁)が加わることによって結果(果)が導かれる、という法則です。

ですからこれは懲罰でも報償でもなく、プラスのエネルギー(プラスの動機)でもって為されたことにはプラスの結果が、マイナスのエネルギー(マイナスの動機)でもって為されたことにはマイナスの結果が自動的に導き出される法則なのです。
例外もえこひいきも情状酌量も無い、厳然たる、公平な法則だと思います。

でも、人生には多くの不公平があるように見えます。
生まれながらの貧富の差、環境の違い、容貌の違い、人種、文化、性、宗教、肉体的優劣、社会的地位の違い・・など数え上げればキリがありません。

又、努力の差による結果の違いは受け入れられても、自然災害や事故、事件に巻き込まれる場合はどうでしょうか?
どうやってこの不幸を因果応報の法則で説明できるのでしょうか?

不幸を因果応報すなわち過去の自分が蒔いた種だという考えはなかなか受け入れがたいと思いますが、それはおそらく自分の人生が今生限りの一回だけだと思い込んでいる場合に特にそうなのではないでしょうか。

もし、人生が何十回・・いや何百回もあるならば・・つまり「輪廻転生」が存在するならば、かなり上手く説明できると思います。

因果応報は今生限りではなく、輪廻転生の中で働く法則だと思います。
もし、マイナスの種を蒔けば、その実をちゃんとしっかり刈り取れる準備が出来たときに心して取り掛かるのです。準備が出来ていなければ刈り取れません。

つまり、人生におこる不幸とは、それを乗り越えられる位に人生の達人になったときになって初めてチャレンジした、未だ解決していない魂の課題だと思います。

そうやって人格を向上していくことがプラスの種を多く蒔くことにつながり、結果的に至福の状態に近づいていくのだと思います。

又、勇気と意欲のあるチャレンジャーは早く向上したいためにわざと人生に困難を設定して生まれてくるかもしれません。

今生限りの物質的人生感、今の人生の中だけで人より幸か不幸かだけを考える習慣から離れて、もっと永遠の魂としての向上によってもたらされる真の幸福の本質的な部分に目を向けるとき、

一見、不幸に見えることが実は魂を磨き、それを乗り越えることが、永遠の幸福への近道であったり、

一見、幸福に見えることが実は魂の大きな試練であり、傲慢やうぬぼれに陥ってしまう時には実は大きなマイナスの種を蒔いてしまうことになるかもしれないということです。

そう考えると、悪事を働いても未だのうのうとしている人とは、未だその結果を受け取るだけの魂的レベルに達していないか、借金を先送りしていることに気が付いていないかのどちらかです。
ですからこんな人を見かけたら、哀れんでください。
やがて、法則は滞りなく働きます。

又、人生の不幸になげいている方々、どうかどんな不幸の中にも自己を向上させることの出来る幸福への鍵が含まれていると思ってください。
自分で乗り越えられない不幸はないそうですから、ありったけの持てる智慧と勇気を働かせ、精一杯に取組むならば、きっと何処からか慰めや援助がもたらされ、乗り越える力が湧いてくると思います。

そうやって壮絶な、勇敢な、力強い人生を送って、他の人々の手本になるような一生を送った偉人はたくさんい
ます。

又、不幸にも家族を失うことがあっても、やがて又巡り会えます。
魂は永遠なので、肉体は失われても魂としての存在は生き続けますから。

受け入れがたい方もいらっしゃると思いますが、一度このような視点からも人生を考えてみてください。
参考になれば、幸いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。 
難しいおはなしでしたが大体わかりました。
電話でえらそうに悪かったなとだけ言ってきても、何も変わらないと
思いませんか?電話の彼、何かあったんでしょうね。
私を苛めて塾から追い出した奴の声にそっくりでした。彼は今弁護士になるべくニート生活です。そして黒い服が大好きです。
サイコパシスは黒が好きみたいですよ。今までみんなそうでした。

お礼日時:2006/07/22 09:04

悪い事しても、良い事をしても、同時に不特定多数の人間に、戦争、地震、洪水はやってきますね。



私自身、阪神淡路大震災の被災者です。

お前が地震の被害を受けたのは日頃の行いのせいだ!とは、本気で言われたくありません。
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kagami333さん、こんばんわ。



因果応報と輪廻転生を総合的に考えるとこの世とあの世の仕組みが観えてきます。

因果応報すなわち原因結果の法則は、
自分が想い行ったことがどういう現象という結果になるのか、
ということを体験学習するためのものなのです。

また、私たち人間は各自、
この世(地上)とあの世(霊界)とを行ったり来たりしながら、
少しずつ生命進化(心の進化)を続けています。

この世での地上体験期間中においては、
原因と結果との間にタイムラグがあり、
また諸事複雑に入り乱れていますので、
どの原因がどの結果を生んだのか見分けがつきにくかったのです。
しかし、21世紀に入り、どんどんこのタイムラグが短くなりつつあり、
原因結果の法則に気づく人が増えてきています。

一方、霊界はといいますと、
この世界は、想ったことがすぐ現実に目の前に現れる世界です。
すなわち、タイムラグがないのです。

ですから、例えば心の温かい人(霊)は、まわりの人(霊)は自分と同じような人(霊)ばかりで、
そのような結果が目の前に出現します。
いってみればこれが「天国」でしょう。
反対にケンカばかりするような人(霊)は、まわりの人(霊)は自分と同じような人(霊)ばかりで、
そのような現象が目の前に現れます。
いってみればこれは「地獄」でしょう。
霊界は自分と同じような人(霊)といっしょに暮らす世界です。

そこで、タイムラグのある地上世界では心の清い人も、汚い人も
比較的無事過ごしていられます。
私たち地球人は程度に差はありますが心が汚れていますので、
息をつく暇がある地上世界で心をきれいにしておく必要があるわけです。
そうでないと、肉体を離れて霊界に移行してからがたいへん苦しいわけです。
(一般的にこれを「死」といいますが肉体が死ぬだけで生命(霊)は死にません)
地上世界で悪い原因ばかり造って、結果を苦痛体験として味わう事が出来なかった人(kagami333さんのいう不発弾の人)は
死後にその結果を体験します。
これは造った原因にみ合うだけのたいへん苦しく長いものです。
可哀想ですが、原因結果の法則は宇宙普遍の厳然たる法則ですから厳しいものです。

このようにして、人間という肉体に宿る生命(霊)は
この世とあの世を往復しながら体験学習を繰り返し、
より高級な生命に進化してゆくわけです。
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自他、主客の認識で因果応報の概念が左右されます。

ある現象が発生しているとき、いかなる現象であれ、いわゆる因果応報は完全に成立しています。認識のズレは、自己と他をいかなる視点に置いているかです。
とはいえ、最近、因果応報?で帰ってくる時間が短くなっているように思えてなりません。なにかにつけて、良いことも悪いこともすごくタイミングがいいんですよね。
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世の中の不公平感を隠すために便宜上作り上げられた思想です。

従って何の根拠もありません。そう思うのは勝手ですけれど、そうならないのが現実です。
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因果応報という言葉の意味ですが、これは悪いことだけが返ってくるというわけではありません。


良いことの意味にも使われます。
確か自業自得は悪い方だけの意味ではなかったかな。

その言葉の意味から思うのは、質問者さまが

>ものすごく悪いことをした人たちは今ものうのうと生きています

と書かれていますが、その悪い人はきっと、良い方の因果応報も受けられないのではないかと。
質問者さまのような、罪の意識のある人にとっては、良い方も悪い方も因果が現れるのではないかと思います。
良いことをすればその意識を持っているだけでも幸せな気分になりますよね。
でも罪の意識もない人は悪事の報いも受けない代わりに、良い行いをした報いも受けられないのではないでしょうか。
どちらが幸せかわかりませんけど、そういう意味では公平ではないかと思います。
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社会の構成員が因果応報を信じた方が、社会防衛上好ましいというだけです。


つまりそれを信じる人の方が社会にとっては都合がいいわけです。
それ以上の意味はありません。
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