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花が美しいのはなぜでしょう? 色々考えたのですが、うまい説明が見つかりません。

初めは、進化論的なメリットがあるのかなぁと考えてみました。でも、花にとって、ハチを惹きつけるのは意味がありますが、人を惹き付けてもしょうがないと思いました。また、人にとっては、花が美しいと、確かに気分はいいですが、それが、種として生き残るための必須条件とも思えません。

それなら、教育の効果かなぁと考えてみました。親が子に花は美しいと教えたためでしょうか? でも、現実には、親の好きな歌を子供も好きだということは、むしろまれです。いくら教育しても、人の嗜好は強制できないと思いました。

ということで、「花はなぜ美しいのか?」 うまく説明できません。天の恵みでしょうか?

うまい説明があったら、教えてください。

A 回答 (26件中1~10件)

これはモシ社会も含む黒人アフリカ全般にいえることだが、造形表現で、自然を模写したものがまったくないといってよいくらい欠如している。

また、花を植えたり、切り花をして鑑賞したり、自然の景色を愛でたりというならわしがない。サバンナの落日でも、雨期のはじめのパルキア樹の花盛りでも、タチアオイに似た西アフリカ原産の植物であるオクラの花が家の裏一面に、朝露に濡れた花を開いているときでも、私は美しさに思わず足をとめて眺めてしまう。そんなとき、傍らにいるモシの村人に何度も「きれいだね」と同意を求めるように言ってみたことがあるが、反応はなかった。見馴れているから特別の感慨はない、ということでもなさそうだ。
これは私一人の個人的な体験ではなく、一般的な形でモシ社会の知識人の何人かに尋ねてみた結果でも確かめられた。アフリカとインドを主な専攻地域とするイギリスの人類学者ジャック・グディの花の比較文化史の浩翰な著述でも、サハラ以南のアフリカ社会に、花を観賞するならわしがないことがいくつかの留保つきでだが、指摘されている。
(『コトバ・言葉・ことば』川田順造)
長い間、学習は本能と対置されて考えられてきた。この立場では、本能は遺伝によって決定されている行動で、学習は遺伝子から解放された行動ということになる。しかし、この二分法が正しくないことは、二〇世紀の中頃には確立した。ニコ・ティンバーゲンの教科書にはつぎのようなことが書いてある。行動の発達と発現を制御する遺伝的なシステムのことを、本能あるいは生得的行動機構という。経験の結果、この生得的行動機構にある程度持続的な変化がおきたとき、これを学習という。そのとき、中枢神経の過程になんらかの変化が起こっているはずである。(『人間性はどこから来たのか』西田利貞)

飛行機が落ちた原因を、人はあれこれと調査しますが、
だれかが、「それは重力だ」と叫べば、笑われてしまいます。飛行機が落ちた原因は飛んだからです。

色々有りますが、頑張ってください、これを言いたかっただけ(代読、笑。

この回答への補足

川田順造さんの著書で、ご紹介いただいた『コトバ・言葉・ことば』、それと、『人類の地平から』を買いました。まだ、読み終わったわけではないですが、すごく参考になる本でしたので、あらためて、お礼を述べさせていただきたいと思います。

川田さんの言っておられる「文化の三角測量」という考え方は、大変示唆に富んでいて、様々な応用ができそうです。これについては、#22の補足でも少しふれさせていただきました。

どうもありがとうございました。

補足日時:2006/08/30 08:10
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この回答へのお礼

「モシ社会」の話、眼からウロコで、へーそういう社会があったんだとびっくりしています。早速、Webで調べてみると、太鼓の音だけで、王朝物語を伝える話がでてきて、「へー、へー、へー、。。。」の100「へー」です。これって、「トリビアの泉」に出せるんじゃないですか?

貴重な情報、ありがとうございました。

>花を植えたり、切り花をして鑑賞したり、自然の景色を愛でたりというならわしがない

これは、書き言葉がないことと何か関係があるんでしょうかね。大変興味深いです。

>しかし、この二分法が正しくないことは、二〇世紀の中頃には確立した。

私は、本能か教育(+経験)かの二分法で考える傾向がありました。それをどう突破するのか、ご紹介いただいた本を参考に考えてみたいと思います。

どうもありがとうございました。

お礼日時:2006/08/27 15:04

#24です。

補足拝見しました。

変な表現ですが「適度な熱帯」であれば、花を髪飾りにするとか、「花の美」を感受する心理は存在するような気がしているのですが、どうなんでしょうね。
「モデルC」というのは「過度の熱帯」とでもいうような、かなり限定された地域ではないか、という印象があります。
「過度の熱帯」でも、食物を中心にして「>生き残るためになんとかなる自然環境」は担保されているでしょうから、文明の進化度という点では「適度な熱帯」と大差ないような気もします。
どちらも文明の発展を必要としない地域かもしれませんが、同じ熱帯でも、ある一定以上の気温が万年的に続くかどうかということで花に対する認識が異なってくる、というような説はないのでしょうか。
・・・と、やはり「暴力としての熱帯説」に拘泥してしまいます。

四大文明発祥地ということに関しては、おっしゃるように「必要は発明の母」を地で行く原理が働いていたのは確かなように思います。
そこには、日々築き上げてゆく努力が明日への架け橋となる期待感も醸成されていたはずで、必然的に【可能性】という概念は重みを持って身に染み込んでいったように思われます。
その点、熱帯では生存環境は担保されていて、その上、超熱帯ともなると明日への可能性を認識するゆとりもないほど強烈な暑さに圧倒されて、今を凌ぐのに手一杯という状況にならざるを得なかった・・・という推測からまだ抜けられないようです。

確かに花以上に、と言うより「美」という概念以上に我々を感動させる自然の景色はありますね。
ただ、しおれた花や何かの死骸が浮いた泥沼も自然でしょうから、(無論、生きている)「花(など)」と特化したのはそういう意味です。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございました。

>「モデルC」というのは「過度の熱帯」とでもいうような、かなり限定された地域ではないか、という印象があります。

川田さんの本には、花を美しいと感じないのは、モシ族だけでなく、広くアフリカに住む人々に見られる現象と書いてあるように思いますが、私も、ちゃんと全部読んだわけではないので、間違っていると困りますから、もう少し勉強してみます。

>どちらも文明の発展を必要としない地域かもしれませんが、同じ熱帯でも、ある一定以上の気温が万年的に続くかどうかということで花に対する認識が異なってくる、というような説はないのでしょうか。

あるかもしれませんが、これも私の勉強不足で、はっきりしたことはわかりません。

>そこには、日々築き上げてゆく努力が明日への架け橋となる期待感も醸成されていたはずで、必然的に【可能性】という概念は重みを持って身に染み込んでいったように思われます。

hakobuluさんの可能性説は、確かに、現象を説明する有力な説だと思います。


たびたび、貴重なお考えをお知らせいただきありがとうございました。

お礼日時:2006/08/31 06:57

しつこいようで申し訳ないのですが。


花は何故美しいのか、と言う問いの背景として、
何故、花は咲くのか、と言う問いがあるような気がいたします。咲かなければ花の実存は認められないかもしれません。(種から花まで、奇跡的とも言えそうな経過を経て咲くに至るわけです。)
 
 「何故花は美しいのか?」と言う問いを聞き、花の美しさは、実存を問うたものではないかと思いました。
 摘み取れてしまうような美しさ、手に入るような美しさを、花に認めているのみの問いならば、所詮、花は美しいだけに過ぎない。
 しかし、花の美しさは、何かを超えた感があります。花には、実存とも言える何かを感じさせる美しさが、宿っている。そのように花の素晴らしさを感じれるならば、花は何故咲くのか、人は何故生きるのか、そのような問の解を、そっと、ふわりと、希望を抱くようにして、得れそうな気がするのです。答えまで、遠くない距離を、花と私達の間に、感じれるのです。
・・・
花は、そこに在るようにして生まれ咲いており、終にはそこに、滅び死なないかのように実をつける。
花の生き方と人の生き方は、遠く隔たれてはいないと思いませんか。

心苦しい回答ですが、私の未熟な答弁が、只の主張に終わってしまわないことを願っています。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>(種から花まで、奇跡的とも言えそうな経過を経て咲くに至るわけです。)

生命の神秘ですね。

>しかし、花の美しさは、何かを超えた感があります。花には、実存とも言える何かを感じさせる美しさが、宿っている。

無限の真っ暗闇の宇宙空間に地球が何の支えもなくポカンと浮いている。気が付くと、その上に、自分と言う塵のように小さい人間が張り付いていた。何億年の長き時間のただの一瞬だけ。気が付くと、花も張り付いていた。何億年の長き時間のただの一瞬だけ。一瞬と一瞬の出会いの中で、美が生まれた。

>花は何故咲くのか、人は何故生きるのか、

謎です。

>花の生き方と人の生き方は、遠く隔たれてはいないと思いませんか。

同じ原理の中に生きていると思います。

お礼日時:2006/08/30 21:22

#22です。

補足拝見しました。

>モデルA,Bでは、人間が自己家畜化して自然から遠ざかってしまった結果、自然に郷愁を覚え、・・・、
:確かにそういう一面もあるのかもしれませんね。
ただ、自然といっても千差万別ですから、花は植物の象徴あるいは本質、と捉えたとしても、やはり花(など)に特化して美を感じるのは何か他の要素があるのではないかと考えたくはなります。
造形美ということも含めて美を考えた場合の説明がつかなくなるようにも思います。

また、モデルCが自然と一体化している、という点には少し首を傾げます。
これはあくまで想像にしかすぎませんが、いわゆる未開地域(あるいは未開時代)であっても、人間の限界に迫る気候の暴力としての徹底的な暑さがなければ、花を愛でるゆとりは生まれている(生まれていた)ような気がするからです。
また、なぜ、「>モデルCでは、有り合せのものと、人間自身を道具とするような使い方」をするようになったのか、ということを考えてみると、そこにはやはり圧倒的な暴力としての超? 熱帯も重大な要因のひとつとして絡んでくるような気もします。
そして花に(未来への)可能性を感じることよりも、今日生き延びることが(現在の)絶対的必要性として位置づけられるようになったのではないか、と。
モデルCの明確な区分がよくわからないので、これらの解釈には多少矛盾する点があるようにお感じになるかもしれませんが、いわゆる熱帯地方と未開民族などが多いであろう(そう暑くはない)山岳地域をごっちゃにして述べています。

アフリカの例を知った時に、対極としての極寒地域に関しても推測してみました。
当初は、人類にとって暖房は比較的容易なので極寒地では自然に押しつぶされる可能性は低いが、冷房は案外難しい(電気が無い場合)ので超? 熱帯地域ではどうしても自然に席巻されやすいのではないか、と考えました。
しかし、極寒地では確かに自然とは一体化しづらいですね。
自然との距離を保たなければならないわけで、そういう点ではおっしゃるとおり、自然への郷愁として、その象徴である花に美を感じるということもあるのかもしれません。

【9.11の深層心理】という視点は興味深いです。
機会がありましたら、またそのうち色々と教えて下さい。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>やはり花(など)に特化して美を感じるのは何か他の要素があるのではないかと考えたくはなります。

自分でも、ややこんがらかってるのですが、よく考えてみると、自然の中で、特に、花だけが美しく感じられるわけではないと思います。例えば、登山で、山々の風景を見たり、海辺に立って、沈む夕日を見たりすれば、大自然の美しさに心が打たれます。夕日が沈む海辺の景色の感動は、私にとっては、花以上のものがあります。

>人間の限界に迫る気候の暴力としての徹底的な暑さがなければ、花を愛でるゆとりは生まれている(生まれていた)ような気がするからです。

この後の数行のhakobuluさんのお考えは、私と丁度正反対になっているように思います。ただ、私の考えの根拠は、確か、中学生の頃に習った知識のような気がしますので、正確かどうかはわかりません。その知識と言うのは、南の地方で、いわゆる文明のようなものが生まれなかったのは、文明を起こさなくても、取り合えず、生き残るためにはなんとかなる自然環境があったからだというものです。とりあえず、木の実や果物や、小動物を獲って食を繋ぎ、大掛かりな暖房設備や分厚い衣服を着なくても、簡単な衣服だけで生きていける程度に気温が高いからだというような話です。

考えるてみると、四大文明が起こったところは、いずれも、冬は寒くて、植物も枯れるので、農業を起こしたり、家畜を育てたりして、食物の蓄えを作り、また、寒さを防ぐためのしっかりした家や、暖房の燃料の確保や、着るものも、しっかりした衣服を作るため、綿、麻、羊などを必要とするようになり、結果的に、自然と闘い、文明を起こさざるを得なかったような気もしますが、どうなんでしょうね。少し知識不足ですが。

補足日時:2006/08/30 21:06
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再度の10です。


何から答えていいやら困りますが、真剣に読んでくださってよかったと想います。

禅の修業でこういうのがあるんです。
たとえば、お師匠さんが、人差し指を出して、修行者に向かって「これはなんだ?」と聞くんです。
「はい、それは人差し指です」と答えたら「修行が足りない!」と言われるんです。

なぜか?
ありのままをありのままに観れていないからです。
人差し指というのは、あくまでも世俗の概念です。

「これはなんだ?」と聞かれたあとに、頭の中でいろんなことを考えて想っているから「人差し指」などという答えが生まれてきてしまうんです。つまり心がまだまだ不安定だから、そのような考えが生まれてきてしまうんです。

こういう禅問答に正解というのは無いのですが「これはなんだ?」と聞かれたら「これ!」と答える。。。そんな感覚が良いとされている???んです。



「これ」はあくまでも「これ」です。
「花」もあくまでも「紅」です。
柳は柳ではなく、ただの「緑」なんです。

心が安定していれば、不動心、無心であれば、ありのままがありのままに観えるハズなんです。

・・・で、これは、単なる思想遊び、哲学では無く、実際に坐禅瞑想をすると、本当に、世界がこのように観えるように成ってしまうんです。質問者さまも、子どもの頃は、「これはこれ」であったろうと想います。ところが大人になるにつれ概念が増え、その概念によって心が縛られ、気づかないうちに心の自由が束縛されていると想うんです。

ですが、日本では坐禅、その大元は「ヴィパッサナー瞑想」というものですが、これらをすれば、本当にありのままが、ありのままに観えるように成ってしまうんです。
「今、此処の自分!」に立脚して、生きられるようになってしまうんです。
頭がスッキリした覚醒状態になって、迷いがなく、囚われのない自分に成れてしまうんです。


で、こういう話は、長文必至で、私も苦労しますので、まずは、山名哲史/著「声に出して読む般若心経」という本を図書館で借りてみてください。買う必要はありません。図書館にいけばあると想います。
これは、本のタイトルと中身が全然違うので安心して読んでください。
とても平たく、わかりやすく仏教が説明されています。

また漫画でも 小泉吉宏/著「ブッタ と シッタカブッタ」シリーズがあります。


ちなみに私が仏教に興味を持ったきっかけは生理学です。
大脳生理学者の本にも仏教の話がたくさん出てくるんです。
「仏陀は、苦行中に、自分の肉体をモルモットにして人体の仕組みを把握していたとしか思えない」なんて記述もあったりして、それで、仏教に興味を持ったんです。で、何も、こういう体験は仏教だけの専売特許ではなく武道や、書道、茶道や呼吸法・・いろんなことで体験できるはずなんです。



花を白人、ウンコを有色人種に代えて発想してみてください。
果たして、本当に白人は美しいのか。
夕食人種は劣っているのか。

白人はただ白いだけです。
黒人はただ黒いだけです。

それがありのままの姿「実相」です。

こちらの5も一読してみてください。
http://okwave.jp/kotaeru.php3?q=1881202


で、ちなみに感謝、感謝・・・という場合も煩悩だといえます。
つまり、それが昂奮によるものであれば、ありのままをありのままに観れていないということになるんです。
感謝の気持ちも何らかの概念に縛られているのであれば煩悩です。
何かの奴隷になって、そのように想わされているのであれば不自由な状態だというんです。

つまり仰るとおり心の持ちようということになるんです。
仏教、勉強してみてください。
面白いし、本当に人生を変える力をもっていると想います。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

>「これはなんだ?」と聞かれたら「これ!」と答える。。。そんな感覚が良いとされている???んです。

なるほど! 「これはこれだ!」というのは、「A=A」ですから、まちがいなく、絶対真理です。

>柳は柳ではなく、ただの「緑」なんです。

ただの「緑」が直接目に飛び込んでくる。多分、赤ん坊ならそう感じるでしょうね。

>また漫画でも 小泉吉宏/著「ブッタ と シッタカブッタ」シリーズがあります。

漫画、大好きです!

>「仏陀は、苦行中に、自分の肉体をモルモットにして人体の仕組みを把握していたとしか思えない」なんて記述もあったりして、

おもしろそうですね。人間の心は集中すると、常識では考えられない能力を発揮するのかも知れませんね。

>花を白人、ウンコを有色人種に代えて発想してみてください。

うーん、花は毟り取られるけど、ウンコはくさいので、生き延びられると考えるのか、それとも、ウンコは花の肥やしになるということか、でも、そのウンコは誰がしたのか....なんだか頭がこんがらかってきました。難しいです。

>で、ちなみに感謝、感謝・・・という場合も煩悩だといえます。

うーん。ojizou-samには、色々、有益なお話を聞かせていただいたので、最後に、感謝をしたいのですが、さて、煩悩なしで感謝するには、どうしたら良いのか、途方に暮れるのですが、とりあえず、素直に、「ありがとうございました」と申し上げておきたいと思います。

お礼日時:2006/08/30 08:51

#18です。

補足拝見しました。
>自然の過酷さの前に、積極的に生きる希望を失った状態のことのようにも思えるのですが
:全くその通りのことです。
何やら遠回しな言い方すると自分が頭が良くなったように錯覚してしまう悪い癖がありまして、実は頭の悪いことを隠すための自我の必死の隠蔽作業なのですが、気付きかけてはいるものの半分ほどは無意識との共犯作業でもありまして、なかなか抜け出せずにいます。

小さい子に鶏を解体させるサバンナのお母さん。
必要から生じた意図せざることなのでしょうが、結局こういったギリギリの生活には嘘の入り込む余地が無い、ということでしょうね。
結果として、日本より遥かに進歩した精神が養われることになっているのを、GDP上位国対発展途上国の皮肉と捉えるべきでしょうか。

私はBSのERが好きで欠かさず見ていますが、ここに登場する医師たちの姿勢には感銘を受けます。
ドラマであることを多少割り引くとしても、日本の医師の姿勢とはおよそ根本的な落差があるのが感じ取れます。
重態の母親を心配するのがたとえ幼い子供であったとしても、決しておざなりな慰めやその場しのぎのいい加減なことは言いません。
どんなに弱って死にそうな人に対しても一人の人間として「同等に」対処します。
個人的にはアメリカもやはり進歩を遂げてきたのではないか、という印象を受けます。
奴隷制度の定着していた頃は恐らくこのような対応はしていなかったような気がします。
ごく最近から見られるようになった傾向なのかどうかはわかりませんが、ブッシュを嫌いな人でもアメリカはやはり上等、と思わせるのはたとえばこのような一面がまぎれもなく定着しているからでしょう。

嘘で構築された美が通用すると考えているうちは、東洋の黄色い猿(古いか? )と揶揄されても止むを得ないのかもしれません。

この回答への補足

ご回答ありがとうございます。

>ごく最近から見られるようになった傾向なのかどうかはわかりませんが、ブッシュを嫌いな人でもアメリカはやはり上等、と思わせるのはたとえばこのような一面がまぎれもなく定着しているからでしょう。

BSのERを見ていないので、的外れかも知れませんが、アメリカはいい意味での個人主義が発達していると思います。「人に迷惑をかけない限り、(そして、もちろん、法律を犯さない限り)、何をしても自由だ」というのが、観念的ではなく、実質的に浸透しているように思います。そして、その一方で、社会への貢献や、他者への配慮の精神が一定の水準を確保しているところで、利己主義とは一線を引いていると思います。

ただ、ブッシュ嫌いがいることからもわかるように、国家として見たアメリカは、世界の中で、戦争の原動力になっている一面も否定できないように思います。何故、そうなるのか、大変興味を持っているのですが、9.11の深層心理の話など読んでいると、なるほどなぁと思わせる部分が少なからずあります。


ところで、「花が美しいのは何故か?」に戻りますが、やはり、アフリカの例がすごいヒントになりそうなので、引き続き考えてみました。昨日は、本屋を探し回り、ついに、「コトバ、言葉、ことば」を見つけました。ただ、結構、専門的な本で、「ふむ、ふむ、なるほどわかった」と簡単に読める感じではありませんでした。また、ざーっと目を通した限りでは、何故、アフリカの人々が花を美しいと感じないかに対する直接的な説明はないように思いました。

この本と、昨日見つけた「人類の地平から」を見て(読んで、ではなく)、わかったのは、この川田順造さんが繰り返し言っておられることの一つに「文化の三角測量」というのがあります。これは、ある文化的事象をフランス、日本、モシの3つの異なった文化圏から比較考察するという考え方、一般化すると、世界を西(洋)、東(洋)の2点からだけではなく、「南」を加えた三つの視点から見ることの重要性を述べておられます(川田さんは、西、東、南を、それぞれ、モデルA,モデルB,モデルCと呼んでいます)。

様々な例が取り上げられていますが、その一つとして、道具と人間の関係の話がありました。モデルA(西洋)では、できるだけ、人間の力を利用せず、また、個々人の訓練に基づく技能を使わないような道具(一例として、ナイフ、フォーク、スプーンや、広く、人手を極力使わない自動機械など)を用い、、モデルB(日本)では、人間の力を有る程度使用し、また、個々人の訓練による技能を使うような道具(一例として、箸の使用等)を用い、モデルCでは、有り合せのものと、人間自身を道具とするような使い方(手を使って食べたり、ひょうたんを器の代わりに使ったりなど)するということがあります。

長くなるので、ちょっと飛躍しますが、私の考えた結論だけ述べてみたいと思います。

まず、モデルA,Bでは「花は美しい」と感じているのに、モデルCでは「花は美しい」と感じないのは、何故かと考えてみました。一つ思い付いたのは、「自然との距離」です。モデルA,Bでは、自然を対象化して自然を制御する方向へ向かいます。その結果、人間は、どんどん、自然環境から離れ、人工的環境に組み込まれます(川田さんはこれを、人間の「自己家畜化」と呼んでおられます)。一方、モデルCでは、人間は自然と対立せず、自然と一体となって生きていきます。

そこで、結論ですが、モデルA,Bでは、人間が自己家畜化して自然から遠ざかってしまった結果、自然に郷愁を覚え、自然を象徴する花に美を感じるようになったのではないでしょうか。それに対し、モデルCでは、自分は自然の一部ですから、ことさらに自然に郷愁を持たないし、花にも特別な感慨を持たないのではないか。そんな風に考えてみました。いかがでしょうか?

補足日時:2006/08/30 08:07
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>>そして、秘めた美しさを引き出し、花を咲かせるきっかけが、(「如何にあるべきか」などの、)哲学的問いを持つ動機となっているように思えます。



>「花を美しい」と感じる心を引き出す過程ということになるでしょうか?

哲学的問い(主題)を持つことによって、咲こうとしている自分(主役)に気付くのではないか、ということです。
 
「人が咲く」とは、このような意味で捉えていただければと思います。
また、意味は異なりますが、「花が考える」と言うニュアンスが、遠くないと思います。
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この回答へのお礼

花の美しさに触発されて、自分も開花できるといいですね。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/29 18:30

植物も人間も細胞れべるでは似たようなつくりの大本では先祖が同じ


と考えられる生物です。
ですから生殖に関する器官などでは特に共感する部分が残っているのかも知れませんね。
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この回答へのお礼

>ですから生殖に関する器官などでは特に共感する部分が残っているのかも知れませんね。

えー、確かに、花は生殖器ですからね。

でも、人間は、人間の生殖器を美しいと感じるのかなぁ......

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/29 18:28

 理由がない可能性は考慮されますか。


 また、問の立て方が何か、前提的に間違っている気もします。
まず、花は美しいと言う前提を取り払い、花は美しいかどうか、花も含めて美しいのか、花だけが美しいのか、美しいのが花であったのか、色々な言葉の建て方があるように思います。
 
 私個人としての見解は、花が咲くから美しいのであって、種のままでは秘めた美しさを見逃してしまう、そんな感じでしょうか。
 
 そして、秘めた美しさを引き出し、花を咲かせるきっかけが、(「如何にあるべきか」などの、)哲学的問いを持つ動機となっているように思えます。
 このようにして哲学的問は、意味を持つのではないでしょうか。 
 だから私は、哲学的問いを持つことは大切であると思います。何故ならそれが、花の咲く機縁を呼ぶものとして、働きうると思うからです。
 
 つまり、上手い説明が見つからない理由として、あなたや私自身が未だ咲いていないから、と言う事実はないでしょうか。
 何故生きるのか、そういう問を解決していないから、上手い説明が見つからないのだと、私には思えます。
 花と私達の距離感を、私はこのように感じます。
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この回答へのお礼

>理由がない可能性は考慮されますか。

「偶然だ」というのも、一つの答えと思います。

>まず、花は美しいと言う前提を取り払い、花は美しいかどうか、花も含めて美しいのか、花だけが美しいのか、美しいのが花であったのか、色々な言葉の建て方があるように思います。

おっしゃる通りですね。#14さんが指摘されているように、花を美しいと感じない民族もいるそうです。

>そして、秘めた美しさを引き出し、花を咲かせるきっかけが、(「如何にあるべきか」などの、)哲学的問いを持つ動機となっているように思えます。

「花を美しい」と感じる心を引き出す過程ということになるでしょうか?

>あなたや私自身が未だ咲いていないから、と言う事実はないでしょうか。

おもしろい見方だと思います。

ご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/08/29 07:49

#16です。

補足拝見しました。


おっしゃるように、「調和のとれたもの」も「美」と認定する要素として大いに考えられそうですね。


>ユニークでおもしろい考えですが、このような考えを持っている学者とかいるんですか?
:もう亡くなっていますが、大槻憲二という精神分析学者の「物理学的生命論」のさわりをご紹介させていただきました。


#14さんへのお礼を拝見していて、なぜアフリカのその地域では花に美を感じないのか、という点について考えてみました。
女性が体や衣類の一部に花をあしらう、などということも全くないのでしょうか?
元よりわかろうはずはないのですが、「可能性のあるもの」が美として受け入れられない状況は推測できるように思います。
いわゆる「死の本能」としての「安定(=破壊)傾向」の、「保存傾向」に対する割合が多い場合です。
人間は、死と生の矛盾という傾向を保持しながらも結局、両傾向がバランスを取りながら(とりあえず)生のベクトルを目指すのを常としていますが、このバランスが崩れて安定傾向が優勢になった場合、従来の「可能性」はもはや意味を持たなくなる、ということではないかと思います。
詳しいことはわかりませんが、なぜバランスが崩れるのかということに関しては、何か圧倒的な力(外部エネルギー)を推測せざるを得ません。
言葉を変えれば、
「可能性」を求めている暇などないほどに、対処しなければならない重大な課題に直面している、ということも言えるかもしれません。
アフリカの場合は熱帯という気候が関与しているような気もしますが、よくはわかりません。

この回答への補足

ご回答ありがとうございました。

>大槻憲二という精神分析学者の「物理学的生命論」のさわりをご紹介させていただきました。

精神分析学者が書いたというのは、大変興味があります。実は、今読んでいる本が、9.11の深層心理を分析したもので、個々の人間ではなく、アメリカという国の深層心理を分析しています。大槻憲二さんの場合は、それをさらに拡大して、地球の深層心理分析ということになるんでしょうかね。おもしろいですね。

>#14さんへのお礼を拝見していて、なぜアフリカのその地域では花に美を感じないのか、という点について考えてみました。

私も気になって、昨日、本屋に行き、#14さんご紹介の本を探したのですが、残念ながら、見つかりませんでした。でも、同じ著者の「人類の地平から」というのがあり、大変おもしろい本なので買ってしまいました。

>人間は、死と生の矛盾という傾向を保持しながらも結局、両傾向がバランスを取りながら(とりあえず)生のベクトルを目指すのを常としていますが、このバランスが崩れて安定傾向が優勢になった場合、従来の「可能性」はもはや意味を持たなくなる、ということではないかと思います。

済みません。この部分は、どうも意味がよくわかりませんでした。「安定傾向が優勢」とは、「死に向かう傾向が優勢」ということですか? それは、具体的には、どういう状況ですか、「生きる意欲がなくなって、もう、死んでもいいや」と思うことでしょうか? その後の部分を読むと、自然の過酷さの前に、積極的に生きる希望を失った状態のことのようにも思えるのですが、今ひとつ、よくわかりませんでした。

上述の「人類の地平から」に、面白い記述がありましたので、ご参考までに引用させていただきます。

「私が暮らしたサバンナの村では、日本の幼稚園児と同じ年頃の子も、大人たちにまじって働く。年のゆかない男の子が、鶏を手際よく解体して、夕食の支度をしている母親のところへもって行くのを見ながら、私は日本の教育ママだったら、子どもにこんなことをさせないだろうと思った。鶏肉は食べるのだが、そういう残酷で汚いことは、純真な子どもにさせるべきではない、どこか別のところで、別の人がやることだと思っているのであろう。だが、別のところにいる、別の人というのは、どこにいる誰のことなのか。鶏を殺して解体するのは残酷で汚いことなのか、包装された鶏をスーパーで買って、家族で食べるのは、やさしく清らかなことなのか。」

さて、積極的に生きているのは、日本の子どもたちでしょうか、それとも、サバンナの子どもとたちでしょうか?

補足日時:2006/08/29 07:42
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