【大喜利】【投稿~9/7】 ロボットの住む世界で流行ってる罰ゲームとは?

織田信長の正室である濃姫の最後がどうだったのかよく分かりません。よく聞く説では、信長と共に本能寺で最後を迎えた、というものがありますが、これはどれくらい信憑性のある説なのでしょうか?
他にもいくつか説があるのでしょうか?
あと、濃姫は子に恵まれなかったようですが、信長との夫婦関係は良好だったのでしょうか?

すいません。暇なときでいいので誰か教えて下さい。

A 回答 (6件)

彼女に関しては全く不明としか言いようがなく、様々な歴史小説家が想像を逞しくしてその生涯を描いていますけど、これが真実と言うものはありません。


また子供があったかなかったかも、信長の場合多くの子供に恵まれ、母親が不明の者もいますので、夭逝したりしたら記録にも残りませんね。
夫婦仲も、良かったとする説もあれば、悪くて離婚した、利用価値が無くなり殺された、本能寺でも長刀を振るって敵を防ぎ、信長に殉じて一緒に亡くなった、安土城から脱出して日野に逃れた、京都で悠々自適な生涯を送ったまで、確実なことはわかりません。
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この回答へのお礼

う~ん・・そんなにたくさんの説があるんですね。知りませんでした。今の濃姫のイメージは、小説家によって作り上げられたもの、ということでしょうか?
いつの日か彼女の生涯が解明される日が来ることを祈るばかりです。

お礼日時:2006/09/27 10:50

岡田正人氏が92年3月号の「歴史読本」で諸史料を基に濃姫のことについて書かれていますので、超概要をご紹介します。



◆永禄十二年段階(美濃奪取二年後)で濃姫は生きている
『言継卿記』永禄十二年七月二十七日条によると、斎藤義龍後家が所持している壺を信長が所望したところ、「信長本妻兄弟女子十六人自害たるべし」と信長本妻らが反発した。

◆天正十三年段階(信長没二年後)で濃姫は生きている
天正十三年(1585)に成立した『織田信長分限帳』に「安土殿」が「六百貫文」を化粧料として織田信雄から与えられている。「安土殿」は他事例から考え正室と考えるのが妥当であることから、濃姫は信雄の保護下で生活していたのではないか。

◆濃姫の墓は信長の墓所である大徳寺総見院(京都)にある
寛延三年(1750)から間もない時期に成立した織田家の過去帳ともいえる『泰巌相公縁会名簿』(安土・摠見寺所蔵)に「信長公御台」として「養華院殿要津妙玄大姉」と記されている。没年は「慶長十七年壬子(1612…信長没30年後)七月九日」。また、『総見院之図面』(京都・総見院所蔵)に総見院墓所のレイアウト図が記され、ここに「養華」があるため、濃姫の墓は総見院にあると思われる。(実際の墓石に記された文字は解読不能です)
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この回答へのお礼

すごいですね!という事は、濃姫は信長が討たれた後30年も生きていたということですよね??(文章が難しくて・・ちゃんと解読できているかどうか自信ないです)びっくりです。
信長が死んだあと、濃姫→養華院となったんですね。勉強になります。ありがとうございます。

お礼日時:2006/09/27 10:38

斎藤道三の娘にして、織田信長の正室なのに、史料少なすぎますよね。


あの信長が出陣先の本能寺に奥さん連れてくかな。とも思いますよね。
有名なお市御寮人ですら、わからないこともあるのですから、キャラ薄い人では、なおさらですかね。
功名が辻のお千代さんだって、前田公の奥方お松さんだって、本名かどうかだし、毛利元就の正室の名も残っていませんから、当時女性の記録というのは、本当に希薄だったのでしょうね。
私は、好きなようにイメージしてますけど。
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この回答へのお礼

本当ですよね!斉藤道三の娘で織田信長の正室なのにほとんど史料が残ってないなんて寂しすぎます。そんなに特徴の無い人だったのでしょうか?
私も好きなようにイメージしようかな・・。

お礼日時:2006/09/27 15:32

濃姫についての史料は全く残っていませんので、何を書いてもみんな


推測か希望になってしまいます。
名前からして「美濃から来た姫」だから濃姫なんですから、謎だらけ
なのです。
じゃ、どうしてこの「名無しの姫」がやたら歴史の舞台に出るかと
いえば、斎藤道三と信長のエピソードにどうしても外せない人物で
後世の記述家がやむなく適当に名前をつけて登場させただけです。

普通に考えて、子供も出来なかったし実家の斎藤家が滅びた後
京都あたりに出家して父や兄たちの菩提を弔って一生を終えたという
のが妥当なんじゃないでしょうか。
すいません。ロマンの無い退屈な答えでした。
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この回答へのお礼

いえいえ(笑)今までの皆さんの回答を見ていると、そういう考え方もできると思います。名前さえもはっきり残されていないくらい、歴史において、重要性の低い姫だったんですかね・・。人質のような形で嫁入りまでしたのに。何だか寂しいですね。

お礼日時:2006/09/27 15:28

本能寺で無くなったというのは一説ではなく、山岡荘八の小説による


ものではないでしょうか。織田信長というのは小説や映画でよく
取り上げられるのでその半生がしっかり残っていると思われがちですが、
側室や子のことでは史料に残されていないために分からないことが
たくさんあるんだそうです。
記録がないし、そのすぐ後に複数の側室が子どもを産んでいることから
濃とは結婚しただけで夫婦仲は悪かったという説もありますが、
それにしても信憑性はない説だそうです。
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この回答へのお礼

そうなんですか。本能寺で最後を迎えた、というのは小説から来ているんですね。かっこいいエピソードだと思っていたので少し残念です。確かに、現実はそんなにドラマチックなものではないかもしれないですね。
濃姫どころか側室・子のことまで史料がないとは・・。有名なのでもっといろいろ解明されているのかと思っていましたが、織田信長に関してはまだまだ分からないことがたくさんあるみたいですね。

お礼日時:2006/09/27 10:55

今日は、濃姫については、正確な史実が残っていません。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BF%83%E5%A7%AB

私個人としては、信長と共に亡くなったほうが好みです。

ご参考までに。
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この回答へのお礼

同感です。私も信長と共に亡くなったと信じたいです。が、ご紹介いただいたページを読むと、本能寺の変での死亡説の信憑性は低いと書いてありますね・・。残念です。

正確な史実が残っていないとなると、益々気になります。

お礼日時:2006/09/27 10:45

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