【お題】NEW演歌

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「平安時代」というと、
私の中では貴族のお姫さまや花合わせ薫物合わせといった雅なお遊び、
あとは和歌くらいしか思い浮かばず、平民の様子がまったく想像できないんですが、
誰もがこんな優雅な暮らしをしていたはずがありませんよね?
平安の平民たちはどんな暮らしをしていたんでしょうか。
いろいろ検索にかけてみましたが、貴族の生活ばかりが出てきます。
平民の生活というと範囲が広すぎて知っていても答えづらいと思うので、
特に気になるところを。

1.平民の職業ではどんなものがあったのか。
  中でも若い女性はどんな仕事を持っていたか。

2.街中にはどんな店があったのか。出店のようなものはあったのか。

3.一般人と貴族が交流することはあったのか。
  貴族を街で見かけても話しかけることはできなかったのか。
  よくある「身分の差の恋」などはなかったのか。

4.貴族のように教養を備えていない人は、和歌を詠むこともなかったのか。

5.女性(女の子)の着物は髪型以外江戸時代の町娘と同じようなものなのか。

6.平民は年貢の取立てや貧しい食事になんとか耐えて生活していたのか。

質問が多すぎてすみません。
レポートなどの資料にしたいわけでなく、まったくの興味本位ですが、
どれかひとつでもいいので、平安時代に詳しい方の回答を得られると嬉しいです。

A 回答 (7件)

1.


いろんな職業があったと思われます。当時はある程度の自給自足をしていたとはいうものの、都市部の人ではすべて自分たちでまかなえていたとは思えません。特に工業では、紙、陶器、武器、などのいろんな職工がいたようです。
女性にも職業があったことが予想できます。「振り売り」といわれる行商、機織、海女、白拍子のような芸能関係など、女性ができそうなものは何でもあったと思われます。専業もいたでしょうし、家事・育児・手伝いの傍らだったりもしたでしょう。また、古今東西、富裕な家のメイドは当たり前ですし、男女の仲を取り持つ「仲人」とか「仲媒」といった特殊な職業も文献に見られます。こんなものまであったのですから、衣食住に関するさまざまな職の基本はすでにこの頃にもあったことがうかがえます。
今昔物語などを読むと、たいそう活発な女性が多くいることから、そんなに窮屈な身分制度に押し込められていたわけではなく、わりと社会に出て元気だったようです。

2.
平安京には東西に市が設けられていました。このことから、全国に店はあっただろうと推測できます。ただし、商流の多くは「振り売り」という行商です。明治・江戸時代まで商業の中心はこの「振り売り」です。

3.
あったと思います。直感的にも、今ほど自由さはないにせよ、今も昔も、男女の仲が身分で隔てられるとは思われません。
たとえば、源氏物語の夕顔は貴族とはいえません。通っていた愛人の家の隣に、たまたまあったあばら家に住んでいただけです(実は友人のもと愛人だったわけですが)。逆に貴族の女に下衆の男を紹介する、ということもあったようです。こんなことの手引をやっていたのが、前述の「仲人」「仲媒」といわれる人達(主に女性)だったわけです。源氏物語や伊勢物語でも明示はされていませんが、たくさん出てくる仲介している女のなかには、職にしていたものも含まれていると思います。下女のサイドビジネスでもあったかもしれません。

4.
没落貴族もたくさんいましたし、そのひとたちの影響うけたりして、下々の方へも少しは広まっていたと思います。

5.
もちろん多少違いますが、庶民の服の基本は昭和時代までほとんど変わっていません。変わっているのはブルジョワジーやプチプルジョワジー以上の階級です。
ちなみに土間&高床の住居も、ふすまや障子がふえたくらいで基本は、昭和までほとんど変化していません。

6.
年貢の取立てよりも、自然との闘いと村・クラスの行政官の不法徴収・不法雑役などが厳しかったと思います。年貢は貨幣でもありませんし、農民は米だけしか作らなかったわけではなく、実際は野菜や雑穀、油、織物などで自足したり商売していたりして、それほど苦しくはなかったと思います。生活が破綻してしまうくらい苦しくなる原因の多くは自然だったでしょうね。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!

1.について。
私も自給自足ですべてを賄うのは苦しいのではないかと疑問に思っていました。
振り売りとは、
http://museum.city.fukuoka.jp/jd/html/jd08mati12 …
ここで見られるようなものだと思っていいですか?
時代はかなり違いますがかたちは同じようなものでしょうか。
メイドさんがいたかもしれない「裕福な家」というのは
あくまで一般のお家のことですよね?その場合、今で言う賃金はどうされていたんでしょう?
やはり「今昔物語」からは多くのヒントが得られそうですね。
「女性もわりと社会に出て元気だった」というのはとても嬉しいです。

2.について。
http://rainbow.s140.xrea.com/ishikawa/heian/heia …
今さらですが、こんなページを見つけました。
「町屋の一部を店にしていたこともある」と書かれてあります。
一番下の絵の、女性がいるところがお店の窓口のようなものなのでしょうか。
それともこれが桟敷なんでしょうか。
とりあえず店はあった、ということですよね。
店があるとないとではイメージ上での町の活気が全然違うのです。

3.について。
あったと思いますか?なかった、という意見の方が多いように思いますが、
あったとしても、現代では考えられないほどに家柄の問題が多いですよね。
そうしたら、やっぱり密会ということしかないでしょうか。

その他の意見も非常に興味深いです。特に自然の厳しさというのは私の頭にはまったくなかったです。
またご意見があったら是非聞かせてください!

お礼日時:2006/09/28 15:37

平安時代の平民と書かれていますが、


律令上(法律上)の表現に平民という言葉はありません。
つまり、そういう概念がない。

良民というくくりならありますが、大半は公民と呼ばれる農民です。
口分田を与えられ、税(米など)を納める人々です。

京の中に住んでいる人は官か、下級官の雑色人、
その人達の所有物である奴隷とほぼ同じとかになります。

官位が高い人々ならともかく、下級官以下は、
ちょっと遠出をするにも許可を得る必要があったり、
戻って来なければ逃げたと見なされて結構厳しい罰があったりと
自由に暮らせていたわけではありません。

以下、わかるところだけ。

1
職業自体は品部がやっていて、沢山ありますが、
良民が自由に仕事を選ぶなどありません。
女性も衣縫部などの仕事はあります。

2
この時代に商店は存在していません。

3
雑色人と貴族なら交流はあったでしょう。
ただ、お嬢様wなどは自由に外へ出られかったはずです。
身分の差がある恋はあったかもしれませんが、
身分が低く過ぎる人は対象外だったと思います。

4
万葉集の段階で、貴族ではない人の歌も入っていますので
いることはいたと思います。

5
わかりません

6
公民はかなり苦しい生活だったと思います。
たまたま豊作だった年の収穫を基準にされたり、とかは
当たり前にあったことのようですので(やめるように、という指示が出されるほどだった)。


以上、間違いだらけかもしれませんが、私が持っている平安初期のイメージです。
律令制でガチガチに国を支配しようとし始めた頃です。
平安後期は朝廷の力が落ちて、かなり違うと思います。
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とりあえず、衣服について。

木綿が一般に普及するのは江戸中期と考えてよいと思います。ですので、平安時代の庶民は当然麻製品や木の皮の繊維などになります。ですので、江戸時代のようなきれいで柔らかい「着物」ではありえません。(日本全国に木綿製品が普及するのは、もっと遅くになります)柳田国男の「木綿以前のこと」などが参考になるのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます!
麻や木の皮、ですか。着心地がどうとか言ってられなかったわけですね。
じゃあ、おしゃれをするとかそういう考えもなかったのでしょうか?

お礼日時:2006/09/29 14:41

実態はよく分かっていません。

しかし、一口に平安時代と言っても400年もあるわけですが、平安後期以降であれば、ある程度推測のつく部分はあると思います。

それは絵画資料によってです。平安末期から鎌倉時代にたくさんの絵巻物が出てきます。有名な源氏物語絵巻などは貴族の生活を描いたものですが、絵巻物には、庶民の姿もたくさん書かれていますから、それによってある程度の様子は分かります。鎌倉時代の作品ですからやや時代は下りますが、たとえば、一遍上人絵伝や法然上人絵伝などに出てくる聴衆や信者たちは庶民です。こうした鎌倉時代(平安末)の絵画史料から、ある程度平安時代にまでさかのぼることが出来ます。

http://www.narahaku.go.jp/exhib/2002toku/ippen/i …

http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/data/kaiga/ho …

また、扇面法華経のように、お経の背景画として、当時の様子を絵にしたものも絵画史料になります。

http://www.kyohaku.go.jp/jp/tokubetsu/kosya/shou …

ここには、働く女達の様子も描かれています。店もあるわけです。上記のサイトには他にもありますので、見てください。

写実とは少し違う面もあるでしょうが、当時の街の様子を知る上では、一級の史料になります。

『今昔物語集』(平安末)のような説話もの、縁起物語なども庶民の生活を知る史料となります。庶民の生活が出てきます。商人・職人の他、運送業などもありました。食物(鮓)を作って売り歩く女の話なども出てきます。農業以外では、商売関係が多いのでしょうか。


ご質問のうちのいくつかは、上記にあげた絵画史料にも考えるヒントはあるように思います。一般庶民と貴族の交流ですが、寺社参りなどは、貴賤問わず、やっておりますし、法然上人絵伝などを見ても僧侶の説法の場では同じ場所で聞いています。熊野詣でなども、上皇から庶民まで盛んにしていますね。ただ、交流があったとまで言えるかどうかはわかりません。貴族ではないにしても、ある程度裕福な身なりをしていないとその場で話すことはあっても交流と言えるようなつきあいは基本的にないのではないかと思います。和歌のレベルに関しては残っていないのでなんとも言えませんが、いわゆる短歌は、平安時代には技巧的なものとなっていましたから根っからの庶民には詠めないでしょう。ただ、いわゆる貴族的な和歌とはちがって、神事や仏事での歌(法文歌)や、歌謡のようなものはあったでしょうし、そういったものと今様と言われる平安後期から鎌倉時代に流行した歌の形式(『梁塵秘抄』で検索してみてください)とは関係が深いようですから、和歌の一ジャンルを構成するものはある程度の教養を持つ庶民の間にはあったのかもしれません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
平安時代と一括りにしてしまいましたが、400年もの時間があることを忘れていました…。
なるほど、絵画からもヒントが得られる、というのは考えていませんでした。
「今昔物語」にも是非触れてみたいと思います。

貴族が平民と同じ場にいるということが今まで想像できませんでした。
一般の人々は貴族をどういった目で見ていたんでしょうか。非常に興味があります。
「梁塵秘抄」で検索するといろいろ出ますね。ここからも庶民の生活を学べそうです。

とても参考になります。ありがとうございます。

お礼日時:2006/09/28 15:04

NO2の方に補足的に書きます。


朝廷が完全な支配をしていた平安時代初期の一般人の多くは農民でした。で、その農民が自分が作った作物を売りに街に行商に出たりしていたようです。この時代、女性専有の職業もなく男女ともに農業に従事していました。
農民が耕す田畑は当然彼らのものではなく、朝廷から借り受けた口分田です。面白いのは、口分田はにまで平等に貸し与え年貢を納めていたようです。この制度を歴史学では、「条里制」と呼びます。
平安時代末期には、貴族と農民の中間の層、武士という階級が登場します。武士とは、国境警備隊として各地に派遣された下級貴族たちの末裔で、長年その土地に住み土地を開墾して田畑を作りやがて、領主と呼ばれるようになります。
貴族に比べれば武士の方が農民たちとの接点もずっと多く、身分違いの恋も当然あったでしょうね。
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この回答へのお礼

ありがとうございます!皆さんの回答を比べると、
「女性の農業以外の仕事としての活躍の場はほとんどなかったのではないか」
という答えと、「大いにあったのではないか」という答えといろいろですね。
たぶん平安時代といっても初期と後期でも違うのでしょうね。
年貢、と聞くととても苦しくて辛い生活をイメージしてしまいますが、
餓えに苦しむ人よりも、ある程度幸せな毎日を確保できていた人のほうが多いのでしょうか。
平安という時代を好む人は多いですが、本当に豊かな暮らし(精神的な)
をしていたのは貴族だけだったとしたら、正直残念です。
武士との身分違いの恋なら少なくなかったのでは?というお答えは納得です。

お礼日時:2006/09/28 14:47

最初に断っておきますがこの方面に詳しいわけではありません。


全部、イメージというか推測で。

1.この時代は例えば江戸時代に比べても格段に商人や職人は少なかったはずです。都市住人というのが少ない。従って平民というのは90%以上が農民だったはずです。後は漁師とか。
2.これはわかりませんが、商業という物が発達していないため店という物は少なかったのではないでしょうか。固定の商店はおそらくなく、行商や露店があるかないかという程度。
3.身分というものが存在しない現代人の感覚とは違って、歴然とした身分感覚がある当時としては、極端な事を言えば身分の高い貴族などは平民を同じ人間とはみなさなかったのではないかと思います。従って身分違いの恋なるものは存在しなかったと思います。
4.万葉集には庶民の和歌もふくまれているそうですから、全く和歌を詠まなかったとは言えないとは思いますが、一般の庶民には教育とか教養とかは当時全く存在しませんから、和歌というものが存在する事すら知らない庶民がほとんどだったと思います。
5.江戸時代の町娘というのは、もっとずっと豊かな都市住民であって、その様な人種は当時存在しません。また和服自体が当時生まれたか生まれないかの境目でしょうか。
6.そうなんでしょう。ただし彼らにとってはそれが普通で当たり前だったのでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。推測でも嬉しいです。
すべての項目に答えてくださってありがとうございます!
とても興味深く読ませていただきました。

3.について。
確かに身分の高い貴族の中には、平民など同じ人間ではないと思っていた人もいるでしょうね。
いろいろな和歌を知り、平安の人たちはなんて繊細な心を持っていたんだろうと
思ったのですが、そんな感性豊かな貴族たちは平民の暮らしについてどう思っていたんでしょうか。
「自分だけこんないい暮らしをして申し訳ないな…」と思ったりはしなかったんでしょうか。
それとも平民の生活自体をよく知らなかったんでしょうか。

お礼日時:2006/09/28 14:34

とりあえず家は竪穴式住居。


いやこれホント。
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この回答へのお礼

参考にさせていただきます。

お礼日時:2006/09/28 14:24

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