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 最近時代小説(歴史小説)をよく読んでいますが、いろいろな階級の人が出てきて、その序列(エラサ)がどうなのか、もう一つハッキリしないので困っています。
 自分で一応次のように序列をつけてみました。
 武士(お城勤め)、郷士、足軽、若党、中間

(1)郷士につきましては難しく、維新後は士族ではなく、平民になっているようです。一方、足軽で一代限りではなく世襲で代々続いている家柄の場合は、士族になっているという記載のサイトがありました。
 こういうことから見ると、足軽の方がエライようにも見えますが、今でも残っている郷士の武家屋敷を訪ねてみますと、長大な長屋門で、脇には門番が訪問者を誰何するような出窓もあり、屋敷地全体は2千数百坪もあるような立派なものでした。また史説に寄れば、この家の始祖は、その藩の上士の五男で、藩主より広大な荒地をもらい帰農したのがその始まりであったとのことです。
 この門構えや屋敷を見ますと、足軽や徒士よりずっと上という感じを受けます。郷士にもいろいろあると思います。また藩によっても違うと思いますが、足軽より下とは思えませんが、どうなんでしょうか?

2)歴史小説などを読んでいますと、若党は主人のお供をするときには、木刀を腰に差しており、武芸にも励んでいたようです。
 そうすると、事あるときは主人に従って従軍するという風に想像され、士分ではないが家来のうち、中間は家来というより使用人(下男のようなもの)ということで、若党は中間より上という風に思いましたがどうでしょうか?

 興味本位の質問ですみません。歴史小説も時代考証がどの程度しっかりしているのか、怪しいところがあります。江戸時代に詳しい方のご回答をよろしくお願いします。

A 回答 (8件)

既にお調べになっているかもしれませんが参考までに



参考URL:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%A3%AB
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/16 16:38

一藩の武士になると、馬廻り・徒士・足軽・中間の順番になると思います。

足軽になると、羽織を着る事もならず、足も素足、上の藩士が来ると道の端にしゃがみ頭をさげる…と結構差別があったみたいですね。言い方が違いますが、若党も似たりよったりでしょうか。刀も大刀しかさす事ができず、給金も年3両1人扶持から「さんぴん」という蔑称ができたと確か思います。
「郷士」というのは、どの藩にもあったわけではないと思います。土佐藩などは、一りょう具足の人たちがその後山内家で郷士になったのだと思います。身分的にはそんなに高く無いのですが、中にはなかなか良い暮らしをしていた人もあるでしょう。半農半士なわけですが、時代劇で見るように農家がすべて貧しかったわけではありませんよね。山形の庄内地方だったと思うのですが、「本間様にはなれるわけはないが、せめてお殿様くらいにはなってみたい」というような言葉があったみたいです。本間様とは今の本間ゴルフの先祖で、当時のお殿様よりはるかに財力があり、みんなの羨望のまとだったようですね。(ちょっと話がそれましたごめんなさい)
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/16 16:39

山本博文 「日本史の一級資料」から。



<上等士族>
大臣(大臣家から家老などがでます。上士) 
小姓組(戦闘時は中核部隊。平時は藩主の警護。知行地を持つ武士。おおむね100石以上。格が高いと300石。有能な者は町奉行、群奉行、お留守居役などに登用。平士)
なお、上士と平士に身分の違いはなく、大臣家の次男、三男は分家すると小姓組となる。  
医師
儒者

<下等武士>
祐筆、中小姓、供小姓、小役人、足軽
下等武士は俸給では家族を養うのはムリで、内職が本業のようなもの。
足軽は士格だが、武士とはいいがたい待遇。藩によっては百姓出身者でしめられた。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございました。

お礼日時:2006/10/16 18:59

武田氏に関する文献を読んだりすれば分かりますが、「武士」というのは、織田信長が兵農分離して「専業武士」というものを作り出す前は


「農村の地主クラスの者が、自分の村のより規模の小さい農民や自分の使用人を引き連れて、一定の武装をして戦場に赴くもの」
でした。

兵農分離の結果、(A)専業武士になって農村を離れた者(江戸時代の武士)、(B)武士を辞めて農業に専念する者に分かれました。郷士とは、(B)のうちで「農村居住の武士」としての格式を認められた者です。どのような者を郷士として認定したかは藩によって違います。郷士は藩から扶持を貰うわけではなく、農業による収入で生活していたはずです。

郷士と言うのは、「郷士」である前に「地主」です。場合によっては「今でも残っている郷士の武家屋敷を訪ねてみますと、長大な長屋門で、脇には門番が訪問者を誰何するような出窓もあり、屋敷地全体は2千数百坪もあるような立派なものでした。」と言う具合になります。

私の先祖は某藩で数百石の禄を頂く「上士」でしたが、城下町の屋敷は約1千坪でした。この屋敷の相当部分は畑にしていたらしいので、富裕な郷士の2千坪以上の屋敷よりかなり見劣りしたはずです。これは別に不思議なことではありません。武士=公務員、郷士=地主だからです。この辺の感覚は現在と大差ありません。

足軽と言うのは、ケースバイケースでしょうが「雑兵」「正規武士の従者」です。身分の上下はややこしいですが、
武士>=郷士>足軽
の関係であったと思います。

郷士が明治時代以降に「平民」身分になったとしても、別に貧乏になったわけではありません。そのことを気にした郷士はあまりいなかったと思います。

(2)中間というのは武士階級ではなく平民階級に属する「武家の使用人」です。ある程度の身分の武士であれば世襲の家臣(武士身分)を抱えていました。時代物で当主の息子が「爺」と呼ぶような人です。その「爺」の息子が「若党」だとすれば、その人も武士身分であり、「若党は主人のお供をするときには、木刀を腰に差しており、武芸にも励んでいたようです」となるでしょう。質問者様の理解で正しいと思います。

この回答への補足

丁寧なご回答ありがとうございます。すみませんが、もう少し質問させてください。
>郷士が明治時代以降に「平民」身分になったとしても、別に貧乏になったわけではありません。そのことを気にした郷士はあまりいなかったと思います。・・・
 回答者様のご先祖は上士であるのに、敷地のかなりの部分を畑にされていたというのは、江戸時代も後半になり、藩財政の窮迫で禄米借り上げなどを食らって、やむを得ずお庭を畑地にされ、幾分かの家計の足しにされたのかなあと想像します。
 維新後、武士は禄や扶持を失い、官職を得られなかった人々は窮迫していったのに比べ、郷士はそのまま大勢の小作人を使い、なお勢いを保持していたように思います(戦後の農地改革までは)。仰せの通り不満はなかったのでしょうね。

(1)郷士も出自によっていろいろでしょうが、前質の「長大な長屋門の持ち主」の始祖は藩の上士の五男であったとのことです。親の上士は分家もならず、養子先もなく、たまたま出ていた荒地開墾の話に乗って五男を帰農させたのではないかと推測されます(全くの推測ですが)。長大な長屋門等の格式は、郷士なら誰でも許されるものではないと思われます。出自が低ければ、金持ちで宏大な屋敷を建てられる財力があっても無理なような気がします。
 上士の五男ということで上士並みの格式を許されたと解しますがいかがでしょうか?

(2)「若党」というものについて、もう一つはっきりしません。足軽は藩から直接わずかな扶持を貰っている場合もあれば、高禄の上士の家来である足軽もあるようです。時代小説に出てくる若党は年齢も若いのが多いのですが、年齢に関係なく年をとっても若党は若党だと思うんです。
 若党とは、A.上士の家来で足軽よりマシな武士、B.上士の家来の足軽のこと、C.帯刀を許されない家来(木刀まで)、D.出自によって違う、百姓から奉公に上がった若党であれば、Cになるし、武士の次男等の出であればA・・・のいずれかであろうと思われますが、いかがでしょうか?

補足日時:2006/10/16 21:59
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 郷士が、いわゆるお城勤めの武士と根本的に違うのは、本来は殿様の部下ではないということです。

江戸時代に国替えと言って、殿様以下の武士が新しい領地に移動していくときにも、そのままその土地に残り新しい殿様の支配を受けます。

 郷士は元々戦国時代には、小規模な領主(土豪)として、その地域を支配する大名の支配を受け、一族や領地内の男を数十人単位で率いて、武士として合戦に参加し、合戦がないときは農業をしていました。
 しかし、戦国時代も進むにしたがって大名の数が減り、戦場が遠くになり長期化するようになってきました。特に、信長・秀吉の天下統一の時代に、今まで従ってきた大名が滅ぼされたとき、新しい支配者の下に所属し武士の生活を続け故郷を捨てるか、武士としての生活を捨てて農業で生計を立てるか、選択を迫られることになりました。(長男は農業を、次男以下は武士になるというような選択も多かったようです。)

 天下統一を成し遂げた秀吉によって農民は武装解除されてしまいましたが、農業を選択したとはいいながら、元の土豪は農村(=郷)の有力者として江戸時代には、ほとんどが庄屋・大庄屋となって、村の治安維持を守る関係から最低限の武装を許され、その村の有力者の地位は存続しました。

 領地に新しくやってきた殿様が新領地を治めるには、この有力者としての力を借りる事が不可欠で、武士としての格式と地位を与え、自分の家臣団に付属する形を取るのが一般的で、「姓を与える」「脇差を許す」「完全な武士としての資格を与える=郷士」など細かく格差をつけながら、取り込みました。

 郷士の次男などで武士にあこがれる者は、上士の若党などをやっていて、武士としての素質があるとなれば、下士の家の養子になるぐらいはできました。

この回答への補足

 ご丁寧なご回答ありがとうございます。郷士の本流、いわゆる「地侍からの郷士」についてのご立派なご解説、恐れ入ります。いま、別の回答者の方への補足質問についてもコメントいただければありがたいのですが。

補足日時:2006/10/17 12:22
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若党は正式な呼び名ではなさそうで、難しいのですが士のようで、卒の足軽より上のようです。

   まあ徒士見習いというところですか。    従って下士からの順序では徒士、若党、足軽、中間、小者になります。   作家は別な解釈をしているかも知れません。
郷士は藩により制度が異なるので、一律の序列付けは出来ません。
土佐藩の郷士はご存知と思いますが、米沢藩については、国境警備、地方行政の一部担当の御役屋郷士、半士半農の原方郷士、上級藩士の家来の陪臣郷士などありました。   原方は下士扱いです。

この回答への補足

 ありがとうございました。おかげさまで大分わかってきました。米沢藩の郷士の扱い、大変参考になりました。
 ここで皆さんからいただいたご回答を参考に、次のように序列を作ってみました。いかがでしょうか?
1.上士
2.下士(徒士)
3.陪臣(ただし極めて大身の上士の家来で上位の陪臣は2より上の場合もある)
4.郷士(出自が有力な豪族や大身の上士の帰農の場合は2より上の場合もある)
5.若党(武士見習い、出世すれば2、3へ)
6.足軽
(足軽から上が軍人とみなされる)
7.中間(仕事内容がある程度決まっていた)
8.小者(全くの下働き)
 藩には何万石につき何人という軍役の義務があったようです。藩は財政上の問題で、扶持のいらない郷士をこれに入れ、数あわせをしたような印象を持ってます。
 また上士も石高に合わせて人数が必要なことから、費用が少なくて済む若党を抱えて、数を合わせているように思います。
 米沢藩の郷士の活用振りも、相次ぐ処分(ドンドン領地を削られた)が、このような苦心の策となって表れているような感じを受けます。

 まあ、江戸時代の武家社会の階級の序列をキッチリつけるのは、難しいもんですね。
 旧陸軍のように階級がハッキリしていれば、問題はないのですが(それでも准尉と見習士官の関係は微妙)、江戸時代では階級章が着いていないわけですから、道で出会えばどちらが先にお辞儀をするのか判断に困ったでしょうね。まあそれなりの身分に合った服装をしていて、なんとなしにわかったんでしょうけど。
 ありがとうございました。

補足日時:2006/10/19 16:22
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No.6です。

平凡社「日本歴史大事典」にもうちょっと明確な記述がありました。
若党  武家奉公人のうち最上級の身分の者。徒若党、侍などと呼ばれる。  幕府の軍役では馬上の主人の馬の脇を守る戦闘員で、武士として処遇されるとの事。  袴、羽織、両刀を差す。
郷士  武士より一段低い身分。   足軽より下という事でしょうか。
旧族郷士  元は士であった者。  薩摩藩では外城衆、延岡藩では小侍、郷足軽といい、無足人という所もある。
取立郷士  新田開発など藩に功績があった者、ここら辺が立派な屋敷を構えていたのでしょう。
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この回答へのお礼

明解な参考資料ありがとうございました。参考になりました。

お礼日時:2006/10/19 21:12

 No4のかたの補足1についてですね?もっと詳しい状況がないと確かなことは言えませんが、貴方の説はありそうです。



 また、自費で新田開発をした場合は、その土地の庄屋になる事が約束されたようなものです。殿様の許可をもらって、商人や富裕農民・武士の次男以下が、お金を集め新しい村を作り庄屋になることはよくありました。もし新田経営が上手くいって資金力を得、小藩の財政を支えるような献金をすれば、その藩から上士待遇されることは、十分にありえます。武士の出自である必要はありません。大名貸しといわれた大金持ちは士分待遇の人が結構いたと思います。

他にもありそうな説を一つお答えします。

 江戸時代は、社会システムが家の跡を継ぐことで運営されていた時代ですから、養子の形式を取ったことも考えられます。

 古い家系であるというのは、江戸時代の大切な価値の一つで、必死に守りました。(私の母親の実家も大庄屋で、平安貴族につながる家系図があります:この地域では先祖が土豪だという家の半分ほどが、同じ家系ですが・・・。殿様が領地の巡視をするときには、宿舎となっていたそうで、殿様が私の家よりも古いとほめたそうです。多分、領民の慰撫のための「ほめ言葉」で、言葉で済めば安いものとの発言でしょうが、代々語り継いでいます。)

 ですから、大名の領地内の古い家系を誇る郷士の家の跡継ぎがなかったので、家を残すために跡を継がせた可能性もあります。
 普通、子供がいなくてもこのような家では養子を取りますが、伝染病などで一家全員が急に死んだような場合、格式が高く村落の統治上から家をなくすことが出来ないと、家が殿様の預かりになるかもしれません。
 そのようなケースでは、殿様がちょうど良い家格の武士の部屋住み(=次男坊以下)の男子の中から出来の良い人物を選んで、農民になることを了解させた上で(格式は武士だからと)、嫁を取らせ跡継ぎとしても不思議はありません。
 この場合、血筋は一度途絶えているので、始祖として扱われるでしょう。 
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この回答へのお礼

 長文のご回答ありがとうございます。郷士とはどういうものかよくわかりました。
 回答者さんの母上様のご実家の逸話と全く同じ話が、私が訪問した武家屋敷にも残っています。
 その屋敷は殿様(有数の大藩)が領内巡視の時の宿舎になっており、殿様直筆の扁額(学芸員の本物のお墨付きあり、書の内容はこの屋敷に因んだもの)が残っております。また平安初期から始まる系図も残っていました(ただ、平安初期の部分は系図買いかもしれません)。
 この屋敷の領地は一つの村程度の広さがあり、住民は小作人のみで、庄屋という感じではなく、付近の村から隔絶した小領主のような趣が感じられます。
 また、始祖は大藩の家老(万石級)の次のランクくらいの上士(たしか2千石)の五男ですから、郷士といえども並みの上士とは対等の口をきいたんではないかなと思われます。
 始祖が広大な荒地を藩主から貰ったのは史実としてハッキリしています。始祖の親は長男に後を継がせ、2,3,4男は養子かなんかに出したが、5男の始末に困ったんでしょうね。分家すると本家の禄高が減りますし、それで帰農させたんじゃないかと思います。この屋敷も代々分家は一切していませんでした。婚姻先は武家、神官、出家(僧侶)などです。
 こんな家が維新後は平民になっても、江戸時代は足軽より下に見られるって事はなかったんじゃないかと思います。維新のときは個々の事情は斟酌してられませんので、藩から直接扶持を貰ってないものは、エイヤッと平民にされてしまったのかなあと思います。
 江戸時代は家柄を大事にした世の中だと思います。浪人でも武士として扱われていましたし、前官待遇的な処遇で慰撫しているような気配が随所に感ぜられます。
 ご回答大変勉強になりました。ありがとうございました。
 

お礼日時:2006/10/19 22:48

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