プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

一般的に現代の歌舞伎は「出雲の阿国」が原型が作ったと言われています。
しかし、それは間違いだ!と否定する説を市川家の縁人から聞きました。

「安土桃山時代、豊臣の世に反抗した傾き、演劇風刺のようなものが歌舞伎に発展したのです。
特に、豊臣に攻め滅ぼされた北条ゆかりの者たちが、江戸や浪速などで積極的にこの演劇をやっており、そこに徳川が目をつけ、北条ゆかりの者の演劇は、寛容に対応した方針を出したとされます。
徳川は思想的動向には厳しく、出雲の阿国などの女歌舞伎の系統は、様々な規正をかけられて衰退していきました。
反豊臣に傾く北条のゆかりのものだけが現代に残ったのです。」

実際の歴史では豊臣家に攻められた北条氏はことごとく討たれました。
女子供は滝山城に逃れましたが、追い詰められ、八王子城に逃げた人々はすべて命を落としました。
しかし、小田原城に篭った人々のうち、一部は生き延びたようです。
後に徳川家康のもてなしをうけ、大阪の狭山に移り住んだようです。
北条家とともに、一族も移り住んだようです。


現代の歌舞伎の源流は「出雲阿国」と「後北条氏」どちらが正しいのでしょうか?

A 回答 (3件)

一口に歌舞伎と言っても、いろんな「家」もあることですし、江戸歌


舞伎の市川家には北条氏起源との言い伝えか何かを先祖代々伝えてい
るのかもししれませんね。念のために「成田屋 市川團十郎・海老蔵公
式ホームページ」を見てみましたが、歌舞伎の起源や市川家の起源自
体は触れられていませんでした。

歌舞伎というと一般には「出雲の阿国」が原型だとされていますが、
「荒事と和事」と並び称されるように、江戸と京都では代表的な歌舞
伎の芸風が異なるので、それぞれの起源を別に求めることがあっても、
あながち荒唐無稽ではないと思います。ただ、江戸歌舞伎が北条氏起
源というのは、私も始めて聞きました。

「荒事と和事」を検索してみたら、↓がヒットしました。参考まで。

参考URL:http://www.nnn.co.jp/dainichi/rensai/kabuki/kabu …
    • good
    • 0
この回答へのお礼

江戸と京都では歌舞伎の芸風が異なるので、別々の起源を求めるのが正解かも知れないですね。
江戸歌舞伎は豊臣の世に北条の残党がかぶき、それを徳川が支援したというのが起源かもしれないですね。
ありがとうございました。

お礼日時:2007/03/26 18:47

すいません。

ANo.2 です。
うっかり「江戸と京都」と書いてしまいましたが、ご存知の通り
正確には「江戸と上方(京・大坂)」です。
    • good
    • 0

私は「出雲阿国」を取ります。



>実際の歴史では豊臣家に攻められた北条氏はことごとく討たれました。

豊臣秀吉の北条攻めで降伏した北条家ですが、本拠地の小田原城は攻め滅ぼされたのではなく降伏して開城しました。その為、小田原城にいた北条家の者も、その家臣も多くの者が生き延びています。攻められ落城したのはその他の支城です。
また、小田原城の降伏は7月5日であり、八王子城の落城は6月23日です。
北条家四代目当主、氏政は切腹しましたが、その子で北条五代目当主、氏直は高野山に隠居させられた後、その後、豊臣秀吉に許され一万石を与えられて大名に復帰しています。
四代目、氏政の弟、氏規も氏直と同じく秀吉に許され、8980石を与えられています。亡くなった後を、その子、氏盛が後を継ぎ加増されて1万石の大名となり、その後、狭山藩藩祖となりました。
氏規と同じ四代目、氏政の弟、氏邦は前田利家に1000石で召抱えられました。
二代目氏綱の次男の血筋である氏勝は徳川家康に1万石で召抱えらました。
北条家の家臣も多くが新たな主人に召抱えられています。

質問者様の書いている北条氏はことごとく討たれたという説は納得いきません。

京の都で「出雲阿国」が評判になると、続々と後に続く者が出ました。その中には遊女歌舞伎、若衆歌舞伎という、体を売るのが目的の非常に風紀を乱す歌舞伎も多々あったので取り締まりがあったのです。

市川家の初代が生まれたのは、1660年です。初舞台は1673年です。「出雲阿国」が京で評判になったのは、1603年です。市川家縁人の人が、どのように歌舞伎の発祥を教わってきたのかは知りませんが、少なくとも
市川家は、発祥の頃には、歌舞伎世界に対して、今のように大きな影響力が無かった事は明らかでしょう。

どんな歴史にも異説、奇説、謀略説はつきものです。遥か昔の過去の事なので「後北条氏」説が必ず、間違っているとは言いませんが、質問者様の文章を読んだ限りでは、私は源流は通説通り「出雲阿国」説が正しいと判断しました。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

小田原城にいた北条家の者も家臣も多くの者が生き延びて、さらに北条氏勝が“徳川家康”に1万石で召抱えられていたとは。
北条氏が多数生き残っていて、徳川家の配下になっていたならば、
北条の生き残りが豊臣の世に反抗して傾き、演劇風刺の活動をして、徳川家がその演芸風刺を支援して、歌舞伎に発展させたと充分に考えることは可能ですね。
北条氏はことごとく討たれたという説が間違っていて、北条氏の者は生き残っている方が、現代の歌舞伎の源流は「後北条氏」だという説に説得力が増します。

市川家の初代が生まれたのは1660年で、出雲阿国が京で評判になったのが1603年ならば、本当に関係がないですね。
おそらく2人は面識がなかったでしょう。
となると、市川家の歌舞伎は出雲阿国と関係ない別の流派だということですね。
その市川家の縁人が言うには「市川家の歌舞伎は出雲阿国の念仏踊りなどが源流ではない。」と断言していましたので、別の流派だと信じたいと思います。
確かに現代歌舞伎には念仏踊り的な要素は感じられませんね。

あなたの説明で、現代歌舞伎の源流は後北条氏の生き残りが、反豊臣の風刺演芸活動をして、それを徳川家が支援して発展したのもだという確信が深まりました。
ありがとうございます。

お礼日時:2007/03/11 09:37

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!