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江戸時代の公家は、茶道はどの流派で行っていたのでしょうか?

A 回答 (2件)

家元制度


17世紀千宗旦から始まる
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%AE%97% …
しかし、これは後付で(つまり、三千家の地位が上がってから)実際に家元制度となってきたのは、18世紀。
しかも、18世紀の段階で、お茶の流派は、上記の三千家と藪内流程度。
当時の茶道のメインストリームは、武家であり
千利休=古田織部=小堀遠州 この流れが主。
禁中並公家諸法度で、公家は学問しなさいと指示された段階では、茶道は学問の対象ではありませんでした。
つまり、それぞれの個人のレベルで、好き勝手にやっていました。
なので、公家が○○の流派で…というのは存在しません。
仁清の茶壺は、武家であった金森宗和によって発見されました。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%A3%AE% …
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 御存じのように茶道は公家文化から出たものではなく、武家から出たもので、千利休がこれを侘び茶として大成しました。

京都の公家は侘び茶とは距離を置き、独自の道を摸索していたようで、その成果が仁清の茶壺となって結実したと言われています。このような状況の下で関白近衛家煕は侘び茶と王朝文化を融合して新しく公家茶道を創設しました。京都の公家はこの公家茶道を伝承して来たものと思われます。
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