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鎌倉幕府亡き後の鎌倉は、室町時代には少し政治色が残っていたようですが、江戸時代あたりの様子はどんなだったのでしょうか?

A 回答 (3件)

江戸から近い行楽地として栄えていました。

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この回答へのお礼

そうなんですね。

お礼日時:2007/04/29 11:59

江戸中期以降、江ノ島の弁財天、鶴ヶ丘八幡宮、大仏などの門前町として、宿泊付きの行楽地としてそれなりに栄えていましたが、現在の鎌倉の中心街は農村でした。


※ 弁財天 八幡宮 大仏などは現在の鎌倉の中心街のはずれとなっております。
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この回答へのお礼

早くも観光地化していたということにやや驚きました。それと農村ですか。

お礼日時:2007/04/29 11:58

江戸時代初期は、武士が「武家の棟梁・源氏」史跡を巡るのがブームだったようです。


が、時代が下がるにつれて江戸庶民も多く巡礼しています。
鎌倉も賑わっていたようです。
当時は、観光と言う意識が無く巡礼目的でした。
金毘羅詣で、お伊勢さん詣で、成田山詣で・・・。
巡礼目的だと、手形も容易に発行可能だったようですね。

「お江戸日本橋七つ立ち」という唄があるように、夜が明けきらない午前4時ごろには(江戸を)出発していたようです。

江島神社と岩屋、鶴岡八幡宮、鎌倉五山(寺)と鎌倉大仏が参拝の中心だったようです。
ただ、東慶寺などの「縁切寺」「駆け込み寺」が存在した為、全国から「離縁」を求めて多くの女性も逃げ込んでいます。
当時、夫側からの離縁状(三行半)がなければ離縁(離婚)出来なかったのですが、縁切寺で修行?すれば幕府公認で離縁が可能でした。
「尼寺」という事も有り、寺社奉行配下・男子禁制という事もあり、夫・町奉行所・番屋役人は手出しが出来なかったようです。

※東慶寺は、豊臣秀吉の実娘も尼僧となりました。
※男児だと、三条河原で処刑でしたが女児は出家を条件に助命。
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この回答へのお礼

もっぱら観光産業的様相を呈していたのですか。。
その歴史が長いんですね。
駆け込み寺も一種の名物でしょうから、その種の巡礼観光非常時地域という事なんでしょうかね。

お礼日時:2007/04/29 11:57

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