アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

敬称(特に大名の)に関して質問させて下さい。
大臣は「公」、三位以上の大中納言と参議は「卿」と呼んだという事ですが、従三位となる前の前田綱紀のように「位階は正四位下の参議」でも参議ということで「卿」と呼ばれていたのでしょうか?

江戸時代、仙台中将伊達氏や安芸少将浅野氏など他の国持大名や一般の大名(朝散太夫)といった、参議未満の大名を呼ぶ際の敬称は公でも卿でもなくどういった敬称で呼ばれていたのでしょうか?
参議以上なら光圀「卿」となるところ、参議未満なら光圀「殿」と呼ばれていたのでしょうか。(貴人を名前で呼ぶことは当時は失礼に当たったという事は存じています。)

同じ「左近衛権中将」でも、松平光長は従三位なので「卿」で、仙台伊達や薩州島津、大老時の井伊掃部頭は位階が四位なので「卿」とは呼ばれなかったということで合ってますでしょうか。

まとまらない質問で恐縮ですが、よろしくお願い致します。

A 回答 (9件)

 >国家の総覧者+その家族と、中将と言えど臣下では決定的に身分が違うということもあったのでしょうか。


 おっしゃる通りです。ここいらへんが戦前と古代の違っているところです。
 戦前の「士族」という身分は、ほとんどものを云いませんでした。特権というものは、ほとんどなかったと思います。せいぜい結婚のときに「家柄」ということで、多少ものを云ったくらいでしょう。
 閣下と敬称がついている華族についても、似たようなことが云えます。
 華族の子弟でも兵隊に行きました。一般人と同じように苦労させられました。貴種好みの上官に当たったときは一般人と違って多少いい目ができたかも知れませんが、原則的には一般人と同じと云っていいでしょう。
 皇族は軍隊に入っても軍学校卒(陸士、陸大など)で、士官からのスタートとなりますし、怪我や戦死などさせたらエライコトですから、はれ物にさわるような扱いでした。殿下少佐と中将閣下が廊下ですれ違ったときは、先に閣下が敬礼するような「感じ」でしょうね。
 その点、華族は一般人と変わらず、二等兵で入った華族の子弟が、水のみ百姓の子倅の古兵にいびられた、ということはよく聞く話です。
 東条さんの秘書官であった伯爵家の広橋さんは、奥さんが皇族の出で大層な家柄ですが、東条さんからは「オイ、広橋!」と呼び捨てであったそうです。
 東条内閣の奥さん方が集まったとき、無邪気な広橋さんの奥さんは、さっさと最上席に座ってしまったことがあったそうです。後で他の大臣の奥さん方の間で、あれはおかしい、東条さんの奥さんが最上席であるべきだとの陰口を云われたことがあったそうです。
 陰口の方が正しいんでしょうね。東条内閣の奥さん方の会合ですから、ご主人の席次を準用するのが本来でしょう。
 同じくご母堂が皇族の出であった久留米藩主家(伯爵)の有馬頼義も軍隊では大変だったようで、彼の兵隊小説にその様子がうかがえます。

>国語の本・・・小生は歴史とか国語は本式に勉強したことはありません。蔵書趣味もありません。興味本位の濫読です。ただ濫読ばっかりでも、なんとなしに自分なりの歴史観(という大層なものではありませんが)ついてきたような感じがします。
 歴史の教科書に書いていることは概ね正しいと思います。しかし、そこに書かれていることを、数学の公式のように振り回して使うのは、どうかと思っています。
 教科書に書かれていることは「何時代はこうであった」という特徴(だけ)を書いています。そして多くの人々はそれを丸呑みして、その特徴をその時代の全部ととらえてしまっている人が多いように思います。特徴はあくまで特徴に過ぎません。
 戦前戦中の社会は言論弾圧、軍国主義の暗黒の社会というとらえ方があります。そういう「特徴」はたしかにあったと思います。
 私は戦前に生まれていましたが戦前の社会をほとんど知りません。大正二桁生まれの人も兵隊には取られましたが、本当のところはわかっていません。
 戦争の苦しみや悲惨さを本当に知っているのは、そのとき老いた親と子供を抱え苦労した明治生まれの人々であったと思います。
 そういう明治生まれの人々(教養人、庶民などいろいろ)の話を聞くと一口ではいえませんが、実情は大分違うように思います。
 NO.6さんの答えがついてよかったと思います。質問の趣旨に関係の無い回答をいっぱいして、他の方の回答が付かないのではないかと心配していました。
 NO.7さんは大変謙虚な方です。
 このまえ80歳近い声楽の先生の話を聞きました。声楽というのは難しい、最近ますます知らないこと(知りたいこと)が増えてきたと云っていました。
 大家といわれる人は大体が謙虚なもので、「その道で知らないことが一番多い人が大家だ」と思います。
 
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>二等兵で入った華族の子弟が、水のみ百姓の子倅の古兵にいびられた
華族といっても様々でしょうけど、世が世ならどこぞの大名の子弟だったかもしれないのに、面白いものですね。

>東条さんの奥さんが最上席であるべきだとの陰口を云われたこと
戦前でも、臣籍降嫁したとはいえ皇族の出自の人の陰口をたたけるような雰囲気はあったのですね。

>教科書に書かれていることは「何時代はこうであった」という特徴(だけ)を書いています。
>特徴はあくまで特徴に過ぎません。
そうですね。木を見て森を見ずではないですが、狭い紙幅の関係上、特徴的なことが列挙されているだけでしょうから、点と点から線を結ぶことはできても、面として捉えるのは乱暴というものでしょうね。

>NO.7さんは大変謙虚な方です。
私もそう思います。

>大家といわれる人は大体が謙虚なもので、「その道で知らないことが一番多い人が大家だ」
そういうものかもしれませんね。虚心坦懐ということでしょうね。
佐伯千仭(弁護士・元京都帝大教授)という刑事法の泰斗が去年98歳で鬼籍に入られました。かの「滝川事件」の際に京都帝大(助教授職)を去られ、戦後は弁護士として活動され東京裁判の弁護人も務められています。亡くなる半年くらい前に、中山研一という佐伯先生のお弟子さん(といっても中山先生も長らく京大教授の任にあった、齢八十になられる大先生ですが)が佐伯宅を訪問した際にも、記憶力は抜群で佐伯先生の学問に対する厳しさを見る思いであられたということです。「理論の世界には疑ふことの許されない権威はない」という言葉を残されていますが、大家とよばれる方は謙虚さの裏返しとして学問に臨む自分自身にも大変厳しい方が多いのかもしれません。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/05/06 12:42

No.6です。


先の答えは正式な席の時のような硬い呼び名と思います。
山本博文著「江戸お留守居役の日記」中の当時の文章ではそうなっています。
内輪の席例えば、江戸城内で火鉢を囲んで密談の時などは、尾張殿、水戸殿、加賀殿、長門殿、伊達殿のように呼び合ったと思います。   相手によっては毛利殿と呼べたかどうか判りませんが、国持ち大名は上記のようでしょう。  ただし陸奥殿とは呼ばない気がします。
下がると呼び名は「守名乗り」になりますが、境目は知りません。
「卿」の件ですが三位以上と、四位のなかの参議だけの敬称と聞いています。
普通はあまり使うことはなかったでしょうが、幕末になり幕府や諸大名と朝廷の接触がふえると、結構使われたかも知れません。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

「江戸お留守居役の日記」は私も持っていますが、とても面白い本ですよね。福間彦右衛門のような優秀な留守居役が幕初にいたから、毛利は藩主が・・・でも幕閣と緊密な関係を保てたのでしょうね。


火鉢を囲んでの密談の時などは、所領名で呼び合ったのですね。
やはり氏で呼ぶのは失礼だったのでしょうか。

>幕末になり幕府や諸大名と朝廷の接触がふえると、結構使われたかも知れません。
そうかもしれないですね。
朝廷関係との接触が増えると、相手に合わせて「卿」が使われることも結構あったのかもしれないですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/05/06 12:48

No.4です。


あららら・・私みたいなものが無い頭捻ってあれこれ考える必要はなかったみたいですねえ。私も大名同士が呼びかけに「卿」という敬称を付けるという風に考えていた訳ではないのですが、書き方が中途半端で誤解を招くものだったかもしれません。申し訳ありません。
やっぱり私など回答者にまわるにはまだまだなんですよね。ここへ来た当初は自分の如きものは質問させて頂くばかりであろうというつもりだったのですが、「質問ばかりしているやつは信用出来ない」というような意見に出会いまして、「そういうものなのか」と恐ろしくなって及ばずながら回答のほうもさせて頂くようになったんですけれども・・いや本当色々反省反省です。
そうそう、本当は「徳川諸家系譜」(続群書類従完成会)というものによると御三家・御三卿は尾張殿・紀伊殿・水戸殿・田安殿・一橋殿・清水殿とそれぞれ呼ばれていたということなので、それだけでもお伝えしようと思ってやってきたのですが・・う~ん。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>やっぱり私など回答者にまわるにはまだまだなんですよね。
そんなことないですよ!いつも勉強させて頂いています。
質問者としても、数学などと違って常に解のあるものだとは思ってはいませんし、私の周りにはそんなに歴史好きもおりませんからこうして歴史のお話をさせて頂けるだけでもとても嬉しいことです。

>私も大名同士が呼びかけに「卿」という敬称を付けるという風に考えていた訳ではないのですが、
質問の書き方が悪かったですが、私自身も、面と向かって「○○卿」と呼んでいたとは考えておりませんでしたので、mapatoさんのご回答が誤解を招く書き方だとは思いません。

家光が御三家に将軍と同様に「様」付けするのを禁じたので「殿」になったとか、どこかのサイトで読んだ気がしますが、記憶が定かではありません。

これからもよろしくお願い申し上げます。
ありがとうございました!

お礼日時:2007/05/03 19:07

大名、旗本の呼び名は官名に「殿」をつけると聞きましたが。


大納言殿、中将殿で普通は藩名はつけないとの事です。
浅野内匠頭は「内匠頭殿」です。吉良上野介は「少将殿」です。   同官名の者が同席の場合のみ例えば「浅野内匠頭殿」と呼ぶそうです。
平大名の場合は例えば「淡路の守殿」と呼ぶと聞きましたが。
小説によくある「光圀卿」は本人のいない場所にて話す言葉で、呼び名ではないと思いますが。
御質問の場合は、(伊達)中将殿、(浅野)少将殿です。
 稲垣史生氏の本参照。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>大納言殿、中将殿で普通は藩名はつけないとの事です。
「薩摩中将殿」「長門侍従殿」というのは本人を面前にしない場合の呼び方で、面と向かっては単に中将殿、侍従殿と呼んだという事でしょうか。
例えば、土佐侍従、長門侍従、米沢侍従の3人が大広間席で世間話をする際などには、紛らわしいので山内殿、毛利殿、上杉殿と呼んでいたのでしょうか・・・。でも毛利も山内も確か松平姓を下賜されていたと思うので、その辺を加味すると難しいですね・・・。

朝散太夫の場合には○○守殿と呼ばれていたのですね。

>「光圀卿」は本人のいない場所にて話す言葉で、呼び名ではないと思いますが。
私の質問の書き方が悪かったです。本人のいない場所での呼称も含めて、広い意味での呼び方という意味で質問させて頂きました。申し訳ございません。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/05/03 19:13

 NO.4さんに全面的に賛成。

そんなところだろうと思います。
 隼人正の件でNO.4さんがおっしゃってたルビのこと、同じ森鴎外のものでも「はやとのしやう」と「はやとのかみ」の二種類出てきました。
 とくに二段目のページでは「はいとのかみ」になっています。これはパソコン入力者のエラーなのか、本のルビがこうであったのかわかりませんが、いずれにしても採字をする人に、読み方を教えた人の訛りが強かったんでしょうなあ。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/681_2 …
http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/2084_ …
 隼人正の読み方で、ポルトガル語あるいはオランダ語のローマ字表記のものが残っていないか検索してみましたが、ありませんでした。
 江戸時代でも、個人的に、読みにくい漢字にはフリガナを振っていた人はいくらでも居たと思います。でも、そういうメモのようなものは、みんな襖の下張りなんかになっちゃって、残っていないんでしょうね。
 隼人正に面と向かって呼ぶ場合や、公式の場で読み上げる場合は、キチンと「かみ」と呼んだと思いますね。
 今でも総理大臣には「総理大臣」という正式呼称と「首相」という呼び方があります。首相という名称は略式な感じで、新聞テレビ雑誌など第三者が本人のいないところで勝手に呼んでいるんだと思います。
 「はやとのしょう」もそんな第三者の勝手な使い方としてはあり得たと思いますね。
 過去の質問の20点の名回答! ↓の内容とも一部通じるところがあります。
http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2906350.html
 今回の敬称の問題にしても隼人正の読み方にしても、チャンと調べるのは大変でしょう。答えを出したら博士号をくれる、というのであれば、やってもいいですが(笑)。
>「三人のファン」・・・当然入っとります!
 

この回答への補足

URL拝見しました。

>挙げられた明治の有名人の読み方も、当時一般に呼ばれていた読み方(音読みが多い)から、本人が『ワシの名前の読み方はこうじゃ。』といった記録や御子孫の話などから、訓読みの方が正しいと判断して修正し、現在の読み方になっているものと思われます。<
実際にはそういう感じだったのかもしれないですね。
他の回答者さんの回答で、「つちい晩翠」がみんなから「どい」と呼ばれるので本人も「どい晩翠」とするようになったと書かれていました。名前の呼ばれ方1つとっても、とても面白いですね。

>原敬
>みんな『ハラケイ』と呼んでいました。
私の世代だと教科書で習った「たかし」になじみがありますが、ずっと「けい」と呼ばれるのが通常だったのですね。

>テレビやラジオ放送もない時代ですから、正しい読み方が一般に伝わりません。
ついつい現代の目線で見てしまいがちでしたが、おっしゃるようにテレビもラジオもない時代に、正しい読みが周知される術は意外となかったのでしょうね。

大変勉強になりました。
ありがとうございました!

補足日時:2007/05/03 19:41
    • good
    • 0
この回答へのお礼

同じ鴎外の本にも二通りの読みが出ているのですね。
やはりどちらも用いていたということなのでしょうね。

江戸時代でもやはり読みにくい漢字にはルビを振っていた人は多かったのかもしれませんね。特に地名などは今でも難読で読めない地名も多いですよね。
やはり公の場では正式に「かみ」と呼んでいたのでしょうね。祐筆などは諸事に通じていたことだと思います。

>答えを出したら博士号をくれる、というのであれば、やってもいいですが(笑)。
こういうことでも、古書を調べて論文にまとめたら意外と学位に値する論文になるのかもしれないですね。調べるとかなり奥が深いかもしれないですね。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/05/03 19:21

こんばんは。


前回の話にも通じますが、武人によって作られた政権であってもおさまってくれば次第に貴族化していくのは世の常ですよね。有職故実に通じたものを重用するなどしていることからもそれがわかります。ですから現在の視点から見ると「どちらが正しいとも言えない」ということであっても「こうでなければならない」とされた場面も当然あったと思います。大名と一口に言ってもあれだけ厳密な家格の違いを設けていますし、幕府自体が朱子学をもって権威の拠り所にせんとした姿勢などからも、そうしたことはやはり重要視すべきことの一つであったと考えられます。参議以上の者に「卿」という敬称を用いるというカビの生えてしまったようなお公家さんのルールも、然るべき時にはやはり守らなければならないものだったのではないでしょうか。
そんなことで何か資料がないものかと探してみたところ、嘉永の頃の大名配置図のようなものを見つけまして(その頃作られたものという意味ではありませんよ)、それには加賀前田斉泰・尾張慶恕・水戸慶篤のところにのみ「卿」の敬称が付されておりました。そんなものを参考にしてみてもやはりお公家さん同様参議以上に「卿」を付けたと考えて宜しいのではないでしょうか(用いられるのは非常に限られた場面のみであったかもしれませんが)。
それ以下の大名に関しては勅使や公儀といった目上からの場合は官位の後に何も付けはしないでしょうが、同輩大名同士などであれば「殿」、目下の者であれば(実際は失礼なのであまり直接に呼びかけるようなことはしませんが何かで必要であった場合には)「侯」などを付けたのではないでしょうか。特に第三者が対象である場合などは所領名などを冠しての「○○侯」という言い方が妥当であるように思います。
まあ、実際のところ行って見でもしない限りはっきりとしたことはわからないというのは確かにそうなのですが・・。
余談ですがどこぞで噂の「三人のファン」の中に私も入れて頂いているのか気になるところですね(笑)
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>加賀前田斉泰・尾張慶恕・水戸慶篤のところにのみ「卿」の敬称が付されておりました。
やはり三位以上+位階に関係なく参議に対して「卿」が用いられていたのですね。
御三家のみならず、准御家門待遇とはいえ外様の前田家にも使われているという点からも、ちゃんと守られていたのでしょうね。

>第三者が対象である場合などは所領名などを冠しての「○○侯」という言い方が妥当
目下や第三者は「薩摩候・長州候・尾州候」という風に用いたのですね。
他藩の家臣は、土井大炊殿・酒井雅楽殿とは呼ばずに、所領名+候で呼んでいたということですね。

>余談ですがどこぞで噂の「三人のファン」の中に私も入れて頂いているのか気になるところですね(笑)
すでにoboeteGooさんから「当然入っとります!」とのお言葉がありますが、身に余る光栄です。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/05/03 18:00

 No.2です。

回答にならない回答をしてしまってすみませんでした。
 猊下は今でも「大僧正猊下」などと、日本の仏教界では使われています。使用基準は各宗派の勝手でしょう。
 一般人がその宗派のトップに向かって「猊下」と呼びかけることはないと思います(少なくとも私はやりません)。
 私が云いたかったのは、敬称といものはT.P.O.によって敬称が違ってくるということです。
 例えば陸軍中将のお家があったとします。奥さんは「あなた」か「旦那様」、下男、下女は「旦那様」と中将本人に向かって呼びかけていたと思います。新聞記者や一般人の男性は「閣下」と呼んでいたでしょう。軍関係の下位の人はもちろん「閣下」、先輩は「○○クン」だと思います。
 新聞や雑誌の記事では、天皇や皇族については「天皇陛下」や「○○宮殿下」と書きますが、中将については、普通は「○○中将」で閣下はつけていません。
 比較的明確な基準があった戦前の「閣下」でも、こんな感じです。
 江戸時代のご質問のようなことにつきましては、ややこしいでしょうな。小生にはわかりません。
 >「閣下」も、現代では国家を代表する特命全権大使に付けるくらいでしょうか。どうして首相や国務大臣クラスへの使用も一般的でなくなっているのか不思議です。
 国際儀礼上つけていると思います。大統領閣下=ミスタープレジデントというようなもんでしょう。
 今となっては日本語の「閣下」というのは仰々しい感じがします。
 外務省がバッシングを受けていたとき、日本の駐外国大使は日本商社マンなどに「閣下と呼ばせている」と新聞テレビからイジワルを云われていました。
 小生の感じでは「閣下」という敬称の復活は100%ムリだと思います。皇后陛下でも「皇后さま」、皇太子妃殿下が「雅子さま」という呼び方がまかり通ってます。
 まあ、顕職とされる職名 イコール 敬称、尊称だという考え方もありますから、いいイメージを持たれていない閣下の復活はないでしょうな。
 雑談みたいになってすみませんでした。
  
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>日本の仏教界では使われています。
仏教界で使われているのですね。全然縁がなく聞いたことがありませんでした。

>敬称といものはT.P.O.によって敬称が違ってくるということです。
おっしゃるとおりだと思います。
新聞でも中将クラスには閣下と付けていなかったのですね。
国家の総覧者+その家族と、中将と言えど臣下では決定的に身分が違うということもあったのでしょうか。

>国際儀礼上つけていると思います。
諸外国の首脳には付けていますが、国内の閣僚などには私的な場でもあまり使わないですよね。今の時代には合わないのでしょうか。
おっしゃるように仰々しい感じも受けますね。

>皇后陛下でも「皇后さま」、皇太子妃殿下が「雅子さま」という呼び方がまかり通ってます。
天皇家がこの国の主から政治的権能を有しない象徴となって、国民が主権者となった今の世の中では、時代が変わったという事なのでしょうね。戦前なら国賊ものでしょうか。
奇しくも今日は憲法記念日で、日本国憲法もちょうど還暦を迎えましたが、今や世論調査をしても9条は時代に合わないから改憲した方が良いと考える人が多数を占めるようで、時代は変わったなぁと感じます。
一法学徒としては、9条以外にも重要改正点が結構あるようなので、出来ることなら全有権者に芦部憲法あたりを読んだ上で1票を投じて欲しいとすら思う(賛成にしても反対にしても軽く考えないで欲しい)のですが、現実にはイメージに流された投票行動になるのではないかと危惧しています。「現実」を強調する事も非常に大切ですし私も9条は変えたほうが良いと思っていますが、「憲法とは本来的にどういうものなのか」といった歴史的意味合いをよく理解した上で有権者各人が投票をしないのなら、国家の基本法である憲法改正も、単なる一法律の改廃と似たようなものになってしまうと感じています。
蛇足が長くなりました。

今の世の中、「先生」が便利に使われていますね。
代議士も弁護士も医者も先生だらけで変な感じです。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/05/03 10:50

 下に付ける敬称というものは、呼ぶ人と呼ばれる人の関係と、T、P、O によって変わってくると思います、何時の時代でも。


 明治以降ですと、陛下、殿下、閣下、殿、猊下 などの使われ方は、割合とハッキリとしていたと思います。下位の者は上位者に対してキッチリと定められた敬称を使っていました。
 昭和天皇が諸官を前にして「お前達は・・・」という意味で「卿(けい)等は・・・」と云っていました。
 江戸期以前のことはよく知りません。わかりません。
 物書きが書いた○○物語のようなものは、質問者がおっしゃるような厳密な区分を意識してやっていたように思えません。
 質問者さんのご質問の趣旨は「公式にはどう呼ばれていたか」ということかと思いますが、さてその公式とはなんぞやと問われると私も?です。
 将軍が新任の大名を引見するとき、老中が紹介するわけですが、そのときは呼び捨てであった、との記述を何かで読んだことがあります
    • good
    • 0
この回答へのお礼

猊下(げいか)は確か高僧への敬称ですよね。実際に使われているのを見聞きしたことがなかったです。私のPCでも猊下だけ変換できないようです。ローマ法王やチベット仏教の活仏クラスでないと使わないのでしょうか。

「閣下」も、現代では国家を代表する特命全権大使に付けるくらいでしょうか。どうして首相や国務大臣クラスへの使用も一般的でなくなっているのか不思議です。

>さてその公式とはなんぞや
そこを突き詰めると難しいですね。
今でこそ、国際儀礼上のプロトコルなどは結構厳密に決まっているのでしょうけど、従三位中将の松平光長と従四位上中将の伊達吉村とで、同じ中将でも位階の違いで呼び分けたのか・・・当時の人に聞いてみないと分からない事なのかもしれません。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/05/01 18:07

まずは、その敬称が職務の階位から来ているのか、家の階位から来ているのかってのがありますよね。

例えば明治では徳川宗家は公爵、徳川御三家は侯爵、徳川三卿家は伯爵になってます。それと同様に、家で官位を継いでいる事があります。有名なのは光圀の黄門ですよね。中納言の唐名が黄門ですから。唐名で呼ばれる人もいますね。徳川内府とか、古田織部とか。

御三卿ってのは、公卿位(従三位)に当主が拝命されたから御三卿です。大臣職は公、長官職は卿です。例えば、結城秀康は権大納言ですが、越前卿・越前宰相・越前黄門などの名が残ってます。

そういえば、徳川家って、藤原本姓なのに、源氏長者になってますね。
    • good
    • 0
この回答へのお礼

>御三卿ってのは、公卿位(従三位)に当主が拝命されたから御三卿です。
そうなのですね。
御三卿は八省の長官(かみ)を名乗ったから「卿」というのかと思っていました。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/04/30 20:34

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!