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なまじ知ったばかりに不幸に陥るということがあります。
自分では結構まともだと思っていたことが、客観的にみると劣っていることだったりした場合、その知識のために不幸に陥ったということもできます。逆に知らないためにたいしたものでないものをありがたがり、幸福の糧にできる場合もあります。

そう考えると、客観的には不幸なことでも本人にとって幸福なのと、その客観性を知ったばかりに不幸に陥ることは、どう考えればいいのでしょうか?まるで「知識」のせいで不幸に陥ったかのように思えます。「知識」が悪であるかのようです。

例:
後進国で情報統制してたために国民に世界的生活水準が知らされず、国民は結構これがいい暮らしなのではないかと錯覚している。

身体障害がある人がそれに慣れてしまって普通だと思っていたのに、健康体というものを再認識して不幸感に陥る。

子供で、自分の家庭が結構いい家庭なのではと思っていたが、ホームステイとかで他の家庭を垣間見て「ああ、おれは不幸だ」などと感じる。

A 回答 (21件中11~20件)

たしかにそういうことはあると思います。


知らなければ良かったと言うことも多いです。
ただ「「知識」が悪」というよりも、それをどう受けとめるかという問題が大きいと思います。
ですので、知識として知らせるときには、事実を知らせればいいというのではなく、知る側への配慮が必要になると思います。
例えば、子供に何かを知らせるのには、その成長段階を考慮しるというように。それがないと「「知識」が悪」になってしまう可能性が高いのだと思います。
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この回答へのお礼

大変、思いやりのこもったお考えです。私もそのことを大事にして実践できるようにしたいものです。

お礼日時:2007/06/29 15:38

かといって


知らぬが仏ということわざを否定しているわけじゃないからね。
時と場合によって。
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知る知らないで言えば逆のことだっていくらでもあります。

解釈によってどちらでも取れる場合に情報が多くなって今迄の解釈が成り立たなくなった場合のことですが、しかしこの格言は自分のことではないようにも思います。つまりある人がある人を利用しているときに利用されている人がその事に気づいていない場合その人は利用しているひとにとっては仏のように思えるということではないでしょうか。自分のこととして考えれば利用されていることに気がつかない法が幸せというのは相当がった見方をしないと納得できないようにも思います。
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この回答へのお礼

格言の解釈にとしてそのように考えることもできるのですね。利用されているというのは侮辱的なことですが、それに気づかない幸せもありうるのでしょう。

お礼日時:2007/06/29 15:37

質問の内容からすると


言ってる意味分かんないだろうな。。。
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この回答へのお礼

そういう含みがある回答はあまり親切じゃありませんね。

お礼日時:2007/06/29 08:55

日本人の哲学は


表層的には相対的に見えても
内面的には絶対的なのかもね。
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この回答へのお礼

そこをもうちょっと噛み砕けませんか?

お礼日時:2007/06/29 08:55

幸不幸の


客観性ねえ

比較級の幸せね。

相田みつおさん
幸せはいつも自分の心が決める。
この言葉
どお
思う?
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この回答へのお礼

相田みつおの言葉はどうも性に合わないんですね。
なぜか分析してませんが、奇麗事のベクトルを感じるということでしょうね。

お礼日時:2007/06/29 08:54

 幸福感の基準なんだろうと思います。

その基準を公私のどちらに重きを置くか?にもよるでしょう。

 例えば、チベットやモンゴルでも最近は先進国で勉強する若者が出てきました。そして、先進国での暮らしに慣れて結局故郷に帰らない者が居る一方で、そこでの暮らしに違和感を覚えてまた戻る者も居る。

 一般的に幸せだと言われる価値観。と、自分はこれが幸せだという価値観。どちらが正しいのではなく、どちらを選択するか?と言うだけなのですね。

で すから、選択肢が無い方が可哀想なのです。

 しかし、例のような、他の家庭を羨むようなのは、選択肢として間違っています。所謂、境遇だとか、身体的な特徴だとかの、自分の行動によって変えられないものは、極めて、個人的な事なので、それを一般的なものと比べて幸せ不幸せを論じるべきでないのです。

 そこは、一般的なものに価値観を見出すのなら、それに近づくように出来るか否かが選択肢なんです。

 例えば、同一性障害に悩む者が、手術を行えるか否か?また、法的に転換を認めるか否か?こう言うことが全くタブーの国で暮らしていれば、彼らはとても不幸ですし、日本のようにある程度の条件が整えば、思いが叶う事が判っていれば、彼らは幸せだと思います。

 いずれにせよ、人の幸福・不幸せはその個が感じるものです。
 『知らぬが仏』と言う言葉は、知らない方が楽だよ。と言う意味で、それが、幸せかどうかについては触れていません。

 昔から一般的には知る事によって、さらに増える苦悩がある事は多々有ったでしょう。つまり、知ったからとて、そんな世界もあるという情報が増えただけで、何も現状が変わらない事から知る事による苦しみの方がケースとしては多かったのだと思います。

 しかし、今はこのQ&Aサイトのような情報源があるし、知りたければ、かなりのところまで知ることが出来ます。そして、生活様式は個人に重きを置いているので、人様に迷惑を掛けなければ、どんな生活を送ろうが自由です。日の丸を掲揚しなくてもお咎めはありません。

 ですから、今の我が国においては、『知らぬが仏』と言う言葉は、まさに個人に「貴方には知る権利が有るけれど、貴方はどうしますか?」と言う選択肢としての言葉だと思います。 
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この回答へのお礼

丁寧なご回答、ありがとうございます。
日本では自由がある知る権利がある知ることもできる知った後でいろいろ講ずる手段もある、そういうものがないところと比べれば、確かに幸せなはずです。豊かな人生の可能性を閉じられることは苦しいですから。しかし一方、悟りの境地のようなものと、無知の安定というものがあれば、それはそれで別の境地に達せられるのではないかと思ったしだいです。

お礼日時:2007/06/29 08:53

知られるべきものは知られるようになるとまでは言いませんが 自分が知りたいかどうかだと思います。



知りたいと思ったら 知ろうとします。知りたくないと言っていても 知りたいときには 知ろうとします。

知ったあとに 幸福になるか不孝になるかは 本人の知ったことではありません。《知ることができてよかったけれども その内容は かえって 悪いものとなってしまった》というのは 人に対しての愛想です。

例示された場合は 単純だと思います。知られるべくして知られたで済むと思います。新たな知識を持って やっていけないようなら 知識を持つ前にも やっていけないような状態だったと考えられます。
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この回答へのお礼

そうですね。自我の脆弱性を払拭しなければならないという、当然の課題に突き当たります。

お礼日時:2007/06/29 08:50

「知って行った罪より知らないで行った罪のほうが重い」を考慮すると


知らない故の幸福は、主観は自由ですが、客観的には評価されないということでしょうね。
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この回答へのお礼

そういう言い方があるとは知りませんでした。
逆化と思っていました。確かに客観的には知るほうを評価しますね。

お礼日時:2007/06/24 17:18

知識を持つことと幸福になることに関連性がないからでしょう。



知って、知ることができたことに幸せを感じる人もあれば、知ったことで今の自分に不幸を感じる人も居る。

知識を得ることはそれ以外に意味がないことで、その知識をどのように使うかはその本人しだいでしかありません。
幸せもその人のとり方しだい、同じ現象にあっても幸せに思う人も居れば不幸に思う人も居るからね。
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この回答へのお礼

そうですね。もしかしたら関係ないことなんでしょうね。

お礼日時:2007/06/24 17:16

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