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以下は新約聖書マタイの福音書からの引用です。このあたりが、日本語にもかかわらず何を教訓として述べているのかわからないのです。簡単に解説をお願いできませんか?



あなた方を受け入れる者は,わたしを受け入れるのだ。そして,わたしを受け入れる者は,わたしを遣わした方を受け入れるのだ。 10:41 預言者という名のゆえに預言者を受け入れる者は,預言者の報いを受けるだろう。また,義人という名のゆえに義人を受け入れる者は,義人の報いを受けるだろう。 10:42 弟子という名のゆえにこれら小さな者の一人に一杯の水を与える者については,本当にはっきりとあなた方に告げるが,彼はその報いを決して失わないだろう」。

A 回答 (4件)

キリスト者でもなく、正統教義としてこのように解釈されているかは分かりませんが、個人的に解釈してみました。



「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方をうけいれるのである (マタイ10;40)」

個人的解釈:
あなたがた=弟子=信者、わたし=イエス、わたしを遣わされた方=神。つまり、弟子(信者)を信じてキリスト者になった人は、イエスを信じることとなり、イエスを信じることは神を信じることになる。
つまり、布教の精神を説いた言葉ではないでしょうか?



「預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。(マタイ10;41)

個人的解釈:
預言者=イエス、正しい者=弟子。こう解釈すると、これもやはり布教の精神を説いた言葉。また、同じ報いとは「復活して天に上げられる=イエスが十字架上で死ぬも3日後に復活し、肉体を持ったまま天に上げられた」ことを指すと思われる。
つまり、キリスト教徒になれば最後の審判の折、正しい人は復活して(肉体を持って)天の国に上げられるという教義を示した言葉。



「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の1人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。(マタイ10;42)」

個人的解釈;
この小さな者1人=弟子の1人、冷たい水一杯=施し(イエスらが活躍した地は砂漠故に「冷たい水」は貴重)。つまり、喜捨の精神を説いたモノ。また、後の教会への貢ぎ物をする事とも解釈出来る。
つまり、「弟子(教会)に貢ぎ物をした人は救われる」



「イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。(マタイ11;1)」

個人的解釈:
この一文で、やはり上記の内容は布教の精神を説いた言葉であったと解釈できる。
つまり、「弟子(信者)を信じて、キリスト者となった人は、イエスと神を信じることになり、救われる。また、教会に貢ぎ物をする人もそれ相応の報いを受ける。よって、異教徒であっても改心すれば救われるし、異教徒を改心させることが弟子(信者)の使命である」
と解釈出来る。
この精神から、キリスト教は布教活動を活発化させ、世界宗教の一つに躍り出たと思われる。


以上、キリスト者でもない一個人の勝手な解釈でした。
参考になれば幸いです。

※私の文章は、新共同訳に拠っています。
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いかにも胡散臭い江原啓之だが、


美輪明宏なら信じるにやぶさかではないということ。
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考えてみました。



10:41

預言者だと<その肩書き>によりその人を預言者だと承認するものは、その預言者の結果である良いこと、悪いことの責任を取ることになる。

良い人だという<評判>だからと、その人を盲目的に良い人だと認証する人は、その人のやった結果に対しても良きにつけ悪しきにつけ、その責任を認証した人も取る責務が生じる。


つまり、人の評判を熟考無しに、確かめもせず、軽はずみに人の評判を信じて入信したものは、そのグループがいいときは自分も高く評価され「やっぱりお得だ 入ってよかった 儲けた 儲けた」となれるが、そのグループが悪しきことをやった時、「私がやったんじゃない。実行犯は教団で、私はそんな教団だとは知らなかった。噂を信じた私も教団の被害者です」と責任を取ることを免れようとしても無駄だってことじゃないかと。

つまり、自分で確かめもせず、評判に頼って受け入れた場合であっても、どちらの報いも受ける と。


10:42

これはサマリアの女性にイエスが水を頼んだエピソードを思い出します。
同時にトマスの福音書のヨハネの解脱をも思い出します。
【イエスがトマスを認めるやいなや「私はもはやあなたの先生ではない。 なぜなら私が量った沸きいずる泉を飲み酔いしれたからである。私の口から飲むものは私のようになるだろう。そして私もまた彼になるであろう。そして隠されていたものが彼に現れるであろう。】

これが、『あなた方を受け入れる者は,わたしを受け入れるのだ。そして,わたしを受け入れる者は,わたしを遣わした方を受け入れるのだ。』


教訓というより、弟子達はイエスと同等のレベルに達したと認定されたという前提により成り立つ論法。


ところが、最後の晩餐の場面では、イエスが磔刑になり別れを惜しんでいるという時に、誰が後継者になるか弟子たちはイエスの気持ちなどそっちのけで喧嘩している、、、、と。


そしてユダの福音書では、ユダが選ばれている、、、、と。


ただし、マタイ文章はヘブライ語が元だったようなんですね。
で、直訳されているらしく、ヘブライ語のイデオムを知らないと、本当に意味がわからないらしいんです。


で、私本読んで調べたのですが、その箇所のヘブライ語に戻した意味は載っていませんでした。

まだギリシャ語による新約聖書を、ヘブライ語に戻す研究が始まったばかりなので、今後本来の意味が明らかになるかもしれません。
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愛を実践する人の足はうつくしいという意味だと思います。



愛を生きる人の耳はうつくしい。

これらのうつくしさに打たれる人のこころは うつくしい・・・と。
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