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「暑い」と「哲学」で思い浮かぶのが、織田信長の甲州攻めにおける、恵林寺・快川の言葉です。
「心頭、滅却、火もまた凉」
この極意は、私の物質的肉体は私自身の外部の存在で、自分自身の精神とは無関係であると言うことでしょうか?
暑さを感じるのは、私自身が、精神と肉体の統一体として存在するからと考えますが、暑気払いの「良い哲学」が有りましたらご紹介ください。

A 回答 (7件)

>涼しくなるどころかどっと汗が出てしまいました。


汗が出ると、体の熱が奪われて体温が下がります。
それは良い事ではありませんか?

>体の中が暑くなると感じることは、私たちの体は、心にとっては外部になっているような気がしたのですが?
仏教の思想では、体は心の現れとされます。
つまり、心と体が在るのではなく、ただ心のみがあるということです。

>暑いと思う心を無くすのは難しそうですね。
確かに無くすのは、難しいです。
しかし、無くす必要は無いと思います。
四季のある日本では、昔から暑い夏を楽しんできました。
暑いと感ずるのは健康な証拠です。
暑い事は有難く、寒い事もまた有難いのです。

参考URL:http://www2.health.ne.jp/library/3000/w3000282.h …
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この回答へのお礼

nyozegamonさん、ご回答有難うございます。
理屈はわかっていても、汗が出るのは辛いところも有ります、特に仕事で、涼しい部屋と炎天下を出たり入ったりすると、汗をかかずに快適に過ごしたいと思ってしまいます。
あそびなら、暑い事も寒い事も楽しめるのですが。

お礼日時:2002/07/21 06:58

 


 哲学的な回答ではありませんが、ちょっと、お邪魔します。
 
 潜在意識をコントロールできれば、肉体もある程度は支配できるものですし、運勢もある程度は変えられるものであると感じています。人が死に至るほどの灼熱の熱さを耐えられるだけの精神力を養えるのかどうかは分かりませんが、私は人間の精神力の不思議さに関心を抱いています。

 手術をする際に、麻酔が不要なら、術後の治癒が早まるものですが、いかんせん激痛が伴いますので、そうはいきませんよね。でも、暗示法(世間で言う「催眠法」)を上手く活用できれば、麻酔がなくとも痛みを感じなくする事が出来るようです。世界の中には、麻酔無しでも痛みを感じさせずに手術してしまう人が存在しているのも事実のようですね。

 その他にも、自身の精神力で不知と言われた病を克服した人、経済的にどん底の状況を信念の力で向上に導いた人等、例を挙げれば切りがありません。fishbowl66さんも、自己暗示法を会得する事が出来たなら、真夏の暑い日に毛布に包まっても汗をかくこともなく、逆に寒さを感じるようにする事が出来ると思います。

 (ところで、OKWEBカテで拝見したのですが、HNを変更してしまうのですか? ・・残念です。)
 
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この回答へのお礼

aoihoshiさん、ご回答有難うございます。
人間の精神力も不思議ですね。私は、人間の、刹那的な欲求の方に感心がありますが。
どうも、目に見えないものは信じない不幸の星の下に生まれたのかもしれません。

(新しいHNを用意したのですが、キッカケを逃してしまいました、せめて最後の数字は取りたいのですが、今まで頂いた回答を読み返すのが難しくなりそうで、当分は諦めました。そんな訳で、今後とも、よろしくお願いします。)

お礼日時:2002/07/22 18:51

>「心頭、滅却、火もまた凉」



引用句について一言。
この句は臨済宗で重用される「碧巌録」第43則の評唱が出典なのですが、正確には「安禅は必ずしも山水を須いず 心頭を滅却すれば火も自ら涼し」となっています。当然、快川国師も遺偈としてそう言ったのでしょう。とにかく「火もまた涼し」というのは、俗流の間違いであることを踏まえておく必要があります。

ただ一言の違いですが、きわめて大きな違いが生まれます。
本来の表現である「火も自ら涼し」といった時には、作為のなさが感じられますし、暑さそのままに暑さを忘れる風情が伺えます。
この場合の「涼し」は「暑い(熱い)」の反意語として使われているのでなく、道元禅師が道詠で「~冬雪さえて涼しかりけり」と詠んだのと同じ風情で、「そのままなりに妙味がある」といった意味が感じられるのです。
もともとこの句は、一般に言われているように無念無想によって無感覚になることを意味するのでは全くなくて、暑さを暑さとしてそのままに受けとめようとする態度を意味する言葉です。

ところが、それに対して「火もまた涼し」となると、えらく肩ひじの張ったわざとらしさが生まれてしまい、興趣がそがれてしまいます。こうしてやろう、という意図がうすら見えるために禅味が生まれないのです。
何よりも「また」と言ったがために「暑(熱)」に対するところの「涼」が全面に出てしまい、“熱い火でも涼しく感じる”といった不可思議な禅定の力を強く臭わせる句になってしまいました。
俗バージョンはむしろ、誤りがもたらしたこのわかり易さの故に人口に膾炙したと言えるでしょう。もちろん快川国師が超然と焼け死ぬ時にこの句を引用したことで、妙に精神的なニュアンスが強調されることになったのはやむを得なかったのかも知れませんが。

いずれにしても、恐らく国師本人の胸中も、碧巌録の評唱を付した克勤禅師の狙いも、現実に流布する俗バージョンの中に埋没してしまっています。この句をとりあげる人は、そのことに是非自覚的になって頂きたいと思います。


>暑気払いのよい哲学

上記との関係で書きます。
仏教、といっても広大すぎてポジションどりが難しいのですが、少なくともお釈迦さんは暑さ寒さや痛覚から逃れる方法を説いたわけでなく、そこから派生的に生まれる苦しみから逃れる方法を説いた、と言えるでしょう。

その実例が雑阿含経第17「箭経」の中に示されています。
悟りを開いた仏の“苦・楽”と、凡夫の“苦・楽”とは同じなのか、違うならどのように違うのか、という質問に対して、お釈迦さんが毒矢を例にひき、「毒矢が刺されば誰でも痛い。それと同じで、自分も痛いときは痛い、苦しいときは苦しい」という意味の答えをされるのです。
しかし違いはその先にあって、「凡夫は身受だけでなく心受によって苦しむが、如来は身受だけで心受がない、自分には第二の矢が刺さらない」という意味の説法をされています。

これにならって言えば、暑さとは“身受”であって、これは誰にとっても避け難いものです。しかしその後の苦しみである“心受”、すなわち痛みや暑さを他のせいにして腹を立てたり、よからぬ妄想を巡らせることで生まれる苦しみからは自由だ、という意味です。
そうした時こそ、本当に暑さを単なる暑さとして受け止めることができる、というのがお釈迦さんの教えであり、また引用句の本旨にもつながるのだと思います。
つまり、快川国師の引用を意訳すると「暑い(熱い)だけで心の患いはない。清明な気分で死んでいけるぞ」という風に受け止めるべきで、碧巌録におけるこの句の引用の狙いもまさにそこを訴えることにあるのです。


以下余談ですが、ここでの「心」という言葉について触れておきます。
これについては仏典に出てくる様々な「心」の用法との整合性があまりないのではないでしょうか。この句が、そもそもは炎暑の中で修行する僧侶の姿を中国の詩人が詠んだ詩の中の一句であって、それがそのまま碧巌録に取りこまれたことに違和感の原因があると言えます。
元来仏教の“心”という言葉は多義的な言葉であって、霊魂の意味で使われたり、精神・思考・認識作用の総体を指す言葉として使われたり(“三界唯心”などの言葉はここによります)、あるいは精神作用だけを指したり、とニュアンスは多様です。
ただ、今回の場合は「自我の活動する場所」という程度のニュアンスで使われていると受けとっていいと思います。
先のお答えにもありましたが、我、すなわち不滅の魂を認めない仏教では知覚の主体の扱いを考えあぐねた結果、我を必要としない知覚の説明のためにアビダルマなど理論の精緻化をはかり、挙句隘路にはまり込んでしまうのです。ですから、大所にたてば、心の問題を論じる場合には、その陥穽に十分自覚的であるべきでしょう。「心を論じて火坑に落つ」、です。
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この回答へのお礼

neil_2112さん、ご回答有難うございます。
素晴らしいアドバイスを頂き、感謝いたします。
この言葉は、快川師のオリジナルではなかったのですか、勉強になりました。
「身受」「心受」も、二元論に陥ることなく、理解する事が大切なようです、ただ最後の方は難解ですね、
「心を論じて火杭に落つ」うーむ又質問をしなければ。
ご丁寧なご回答有難うございます。

お礼日時:2002/07/22 18:37

 


少なくとも、仏僧が語った言葉を前提にしていますから、これは仏教的な考えでどう解釈するかという問いだと考えます。(そうでないのでしたら、最初の言葉の引用は何かということになります。また質問が、この挿話と密接に関係しています)。

>私の物質的肉体は私自身の外部の存在で、自分自身の精神とは無関係であると言うことでしょうか?

仏教では、肉体と精神の二元論を取っていません。それは西欧哲学です。また多様なインドの思想には、そういう考えもあったかも知れませんが、肉体に対立する精神というような概念はないと思います。

それはとまれ、「物質的肉体」とは何かというと、仏教なら、「私」とは「我(アートマン)」のことですから、アートマンを構成する「五蘊」のなかの、「色」がそれに近いものです。(五蘊は、「色・受・想・行・識」の五つから成り立っています)。

しかし、「暑さ」または「熱さ」を感じているのは、何か、というと、一応「我」ですが、「六識」または「八識」の考えからすると、六識(眼・耳・鼻・舌・身・意)のなかの、「意(マナス)」だということになります。

「熱さ」や「暑さ」は、「身」が感受しているもので、意以外の五識が働いている時は、この意の意識が常に働いているということですから、「意」と「身」が働いて、「熱い」という認識が起こるのだということになります。

六識を消し去ると(深い禅定・瞑想で、そういうことは可能になるとされます)、感じるということも、考えるということも、意識するというこもなくなり、死体のようになりますが、死んでいるのではありません。

意識は残し、身識を滅却、意識しないような状態に心を統一すれば、身が焼けていても、何も感じないという状態になり得ます。

あるいは身識はあるが、それが意識に沿っていない場合、確かに身が焼けて行く熱さはあるが、意識は平静だるという状態も可能かも知れません。

肉体は、精神の外部にあるというより、肉体がないと、このような精神ではない訳で、心身は本来一つのものなのです。肉体が外部にあるように思えるのは、「末梢神経」が、肉体の主要な感覚を伝達し、末梢神経からの信号がなくなれば、いわゆる末梢の肉体については、意識は何も感じなくなります。

それは、手や脚などは、出血多量ということで死なない限り、失っても生きて行けるということにも関係があります。

末梢神経からの信号は、大脳の運動感覚領野で、受け止められ、これが解釈されて、身体の感覚というものが成立します。逆に言えば、大脳内部で、身体の痛みの感覚は作り出すことができるのです。

普通は、そういうことは起こりません。いまは、過去の話になりますが、ハンセン氏病の人の末梢神経が侵されます。すると、足で釘を踏み抜いても何も感じず、大怪我にまでなるとか、また冬など、火の傍で温まっていると、手とか脚とかが、火に近づきすぎて、大火傷しても、気づかないなどが起こります。

痛みに対しては、大脳の感覚野に入らないように、神経路をブロッキングすることもできますし、大脳の感覚野か、またはそれを意識する大脳領野の神経感受性を鈍くすることで、痛みなどを和らげることができます。鎮痛剤とか、エンドルフィンの分泌で、そうなります。

大脳生理学的に見ても、抹消神経からの信号を、意志でブロッキングできれば、あるいは、痛みを緩和するような,脳内麻薬を意志で作り出せれば、身を焼かれながら、その痛みや熱さを感じることなく、笑っていられるということも不可能ではないということになります。

結局、肉体があり、それについてマナスが、見たり、聞いたり、味を知ったり、身から来る感覚を意識したりで、肉体の感覚を知る訳で、「知る主体」は、感覚の配置からは、肉体の内部にあるようになりますが、実際は、内部・外部というのが、身識の図式からの意識の解釈です。

感覚を感受する中枢は、大脳のどこかにあるらしいと思えるのですが、マナス(意識・心)はどこにあるかというと、空間的に「どこ」と指定できないというのが、大脳生理学などの答えのようです。

「心・意識」は一種の場であって、空間的に、どこにあるという訳ではないようなのです。大脳のなかのどこかにあるようですが、内とか外というのが、こういう「場」としての意識の話になってくると、意味がなくなるようです。

脊髄反射は、末梢神経が侵されれば、起こらなくなります。または、脊髄のその部位が損傷を受ければ起こらなくなりますし、色々な理由で、起こらなくなります。

また、禅定・瞑想というのは、大脳内の感覚などを、整除しているだけでなく、本来、不随意筋である心臓の筋肉なども、動かすことができるようになるものです。末梢神経や脊髄反射もコントロールできるでしょう。

(心臓を意志で止めるというのは、ヨーガ行者が実際に実演しており、確認されています。ヨーガとは、禅定=ドャーナと同じものです。仏教では、ヨーガを、禅または禅定と呼んでいるのです)。

>「心頭、滅却、火もまた凉」

これは、「私」は、色々な要素で作られていて、それらが織り上げているのが「私」であって、「六識」の働きに精通して、「身識」を滅却すれば、つまり、意識しなくなれば、火の熱さも、意識しなくなるという意味で、肉体と精神が無関係であるということとは、少し違います。
 
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この回答へのお礼

asterさん、ご回答有難うございます。
いつもの事ながら、詳しく説明を頂き感謝いたします。
ご回答を読み返しながら、お礼を書き込んでいても、集中力の不足か、「私」の修行不足か、汗の出るしまつです。
病気に関する部分は私にも良く判りますが、心臓を意志で止めれるとは驚きました。
高性能のエアコンを作る努力より、凡人が「身識」を滅却できる「薬」の開発が待たれます。

お礼日時:2002/07/21 11:57

おじゃる丸でも見ながら、地獄からやっと帰って来た、やあ良かったと思うのは如何



そもさん せっぱ!
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この回答へのお礼

mcqgogoさん、ご回答有難うございます。
ということは、一度地獄に落ちろと言うことですね(笑

そもさん せっぱ! て日本語ですか?またいつか教えてください。

お礼日時:2002/07/21 07:24

火が涼しいのは極端な例として挙げたのでしょう、でなければ「重度の神経障害」です。

(中学の時に「反射」って習いませんでしたか?)
(補足:「心頭、滅却、火もまた涼」この言葉自分は「心頭滅却すれば火もまた涼しい」と覚えてました。)

・末端の感覚器官Aが「暑さ(とか何でも良いが)」を感知する→神経伝達経路から脳に情報が伝わる→大脳皮質内のAに対応する神経集塊に「暑さ」情報が到着→『Aが暑い』
余りに簡素で適当だが、どこかが暑い(この場合は一部より全身で、「熱い!」という時と受容器官が違うだろうが)の説明。

だから、例えば右親指が「痛い」という時は、実際に右親指部分は痛覚を、神経回路興奮という上記のルートで脳の右親指に対応する神経集塊で「痛いに対応する何事かが起きてる」=「右親指が痛いというのは、脳内の右親指対応部分で起きてる生理反応で、実は右親指自体は何も感じてない」
これが、正解では?だからこそ「心頭滅却すれば=全身の感覚器官に対応する大脳内の神経集塊部分を何とかすれば」「火もまた涼=火の熱の情報受容器官自身は別に熱いとか感じてはいない、感じれない。」

ただし、最初の例のように「反射」の場合は「熱い!」と感じた瞬間に「ショート・カット」して受容器官が(手を引っ込めるなど)反応するので例外。もし「反射」のレベルまでコントロール出来たら「何か神経障害、その他の疾病状態」でしょう。

・(個人的体験)過去入院時に、「皮膚移植の抜糸」の時に「なるべく違う事を考えてました」途中で抜糸してる先生が「痛くない?」「痛くないの?」と何度も訊くので「痛くないようにしてる」と答えた事あり。途中で後ろを振り返ると大勢の研修医&看護婦が見てるのでそっちが恥ずかしかった。木綿糸みたいな黒い糸で、縫合部分はグチャグチャで綺麗な直線曲線でなかった。担当看護婦さんが「普通患者さんが痛がり局部麻酔してますよ」との事。
「心頭、滅却、火もまた涼」の実践の限界は、この程度でないでしょうか?(余程繰り返し、訓練でもしてない限り)

そして、更に重要に思えるのは「暑い」という感覚は(先述のように)一部の末端感覚からの情報では無く「全身の正常保持(=ホメイオタシス)」の範疇になり、「中脳・間脳などの体温維持・呼吸・発汗などの作用」で、単純な受容感覚情報としての「熱い」に対する「滅却処理」は不可能では?
という事で、「暑気払いを、頭で処理は無理」が結論。(唯一有り得るのが、こういう事を夢中になって考えてる時は一時的に「暑さ」は後回しにされるくらいか)
死んだ東大卒の物理教師が「団扇で扇ぐと、室内の気体分子エネルギーが活発になり余計暑くなる」と発言も教室が「シーン!!!」と静まり返って「お寒い状況」になった事思い出しました。
では~♪♪♪
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この回答へのお礼

Bareninnoさん、ご回答有難うございます。
暑さを忘れて読み返してしまいました、私の質問も暑気払いに役立つた様で、喜んでいます。
結構、怖いお話で、足を食べられても痛くない蛸になった夢を見そうです。
>「暑気払いを、頭で処理は無理」が結論。
この結論は、もっともだとは思いますが、少しつまらないので、お化け屋敷の哲学でも始めてみたいところです。

お礼日時:2002/07/21 07:18

無念無想の境地にあれば、どんな苦痛も苦痛と感じないという意味です。


http://dictionary.goo.ne.jp/cgi-bin/dict_search. …

他に「三界は唯心の所現なり。」(華厳経)などの言葉があります。

簡単に言えば、暑いと思う心があるから暑いのであります。
下記URLを参考にしてください。

参考URL:http://www.melma.com/mag/82/m00024782/a00000015. …
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この回答へのお礼

nyozegamonさん、ご回答有難うございます。
やはり心の問題でしょうか。
暑さ対策の為、熱い飲み物を飲んで自分の体温を上げると涼しく感じるのではないだろうかと、暫らく冷たいものを飲まずに、熱いお茶ばかり飲んでいましたが、涼しくなるどころかどっと汗が出てしまいました。
体の中が暑くなると感じることは、私たちの体は、心にとっては外部になっているような気がしたのですが?
心を無くすのではなく、暑いと思う心を無くすのは難しそうですね。

お礼日時:2002/07/20 19:02

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