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自己啓発本は好きになれないんですが、
どうして自己啓発本を読まないのですか?と聞かれたときに
自分の中では論理的な理由が見つからないんです。

もちろん口では「忙しいので」というのですが、
自分の中で迷いがあります。

自己啓発本の必要性を論理的に否定してもらえませんか?

A 回答 (7件)

人格形成に必要となるものは実体験、及びそこから導き出され練り上げられた【知恵】であり、文字を追って手に入れただけの知識はほとんど役に立たないからです。


例えば【死の壁】という本がありますが、あれを読んで死を恐れなくなった方が何人いるのかという話です。交通事故で生死の境を彷徨って以来、死が怖くなくなった(死を恐れる暇があったら精一杯生きようと前向きになった)という話はよく耳にしますが。
ここで質問して多くの回答(=知識)を得られた方のうち、何人が本当に救われているかを考えるのもよいかと思います。今回のご質問にしたところで、私の回答を読むことで問題が完全に解決することはないでしょう。
文字から得られる知識など、所詮その程度のものです。

もう一つ書き加えるならば、文字から得られる知識を知恵にまで昇華するためには相応の経験と努力が不可欠であり、それらができる条件が整っている方、及び実践される方は極めて少ないということです。
ゆえに、質問者様の仰る「忙しい」も、充分に納得のいく理由であると私には思えます。
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この回答へのお礼

>知識を知恵にまで昇華するためには相応の経験と努力が不可欠
これがヒントになりそうです。回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/15 17:30

がんばらなければ出来ない様な事柄は、長く続くはずが無いので。


でいいと思います。
人間そんなずっとがんばって生きてゆけるはずがありません。時にはだらだらとして、無駄な事もたくさんする。それが人間です。
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この回答へのお礼

そうですよね。でも、もう少し頑張ります。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/15 16:57

例えば


「自己啓発をすべきと思ってすぐに本に飛びつくのは、その時点で自己啓発を怠っていることになる。
本来の自己啓発とは、自分なりに自分の問題点を分析し、自分で改善策や成長するための方法を考える過程で、
自分の価値観や考え方が昇華していくものである。

それはまるで問題集の質問を読んでも全く考えず、すぐに解答を見てしまうことと同じである」
など。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
手段として自己啓発本を用いる限りは、主体性を失っていないように思います。
とはいえ、自己啓発本を信仰するあまり思考を停止させてしまっている人は多いですよね。

お礼日時:2007/09/15 16:54

以下の理由などどうでしょう。



1.書籍とはいえ、「他人から指図されたくねえ!」っていうプライドがあるから。もしくは「私、強情なので」。
2.私には、本を読んでも、理解できる能力がないから。(日本語で書かれた本であっても、著者の考え方を読み取る能力が無い人は多いと思います。パソコンの専門書を素人が理解できないのと同様な状態)
3.自己啓発なんか不要。私の人生、このまま、現在のままでいいと思っているから。
4.無意味だから。つまり、もし読んでみて、「りっぱだ、感動した!」ってことが書かれていたとしても、その言葉に従うことは自分には性格的、能力的にすごく大変であり、やらないと思うので。例えば、ダイエット本を読んで、「私は凄く太っている。彼女はあんなに痩せて凄いなあ、でもそんな食事を続けることは、私には無理!食べること大好きなんだもん!」っていうような状態。

こんな答えを、もうすこしカッコよく補強すればいいと思います。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
4が使えそうです。
自分の能力の限界を超えていて実行不可能だから読んでも無意味ってことですよね。
でも「読んでみなきゃ分からないよ」と言われたら…

お礼日時:2007/09/15 17:07

こんばんあは。

私も同じです。
なぜなら、ご存知と思いますが、人間には欲求5段階説という段階的な欲求があると思います。その最も上が自己実現の欲求ですよね。

自己啓発。私はその定義ははっきりと説明できません。なぜなら本を読むことが直接自己啓発のいうところの自己実現には到底、そこまで自己実現など努力をしなかった、またはっきりした理由が分らなかった上、「これくらいでいいや」といい加減で、頭の中では大切かと思っていても行動になかなか結びつくのに時間がかかりすぎているからです。

私個人の考えで恐縮ですが、これは何事にも前向きでモチベーションや目標を高くもち、それに向ってあらゆる体験などを通じないと、自己啓発という言葉だけでなく、それな恐らく一生涯かかるかもしれないと思ったからです。

書籍を読み、様々な自己啓発の方法があると思いますが、理由はどうあれ自分自身で考え行動することが大切なことかといまさらながら感じているところです。しかし、いろんな自己啓発関連の書籍などから、自分で良いと思ったことを吸収し、行動に移す方が難しいからだと思いました。

本でも、ネットでも、人間関係、知識、技術など、自分を啓発する自分との戦いの要素などもあるかと思いました。

自己啓発セミナー…私自信も教える立場にいながら、なかなか自分では難しいというのが実情でした。でも人から教わることも大切ですし、理由はどうあれ、否定することもできないと思いますし、たとえ否定したところで何の意味もないと思いました。

また超高齢化社会で、様々なことに加齢を感じずにご自身を啓発するために日々努力なさっているお年寄りも多いかと思います。
あまり参考にならずにすみません。何かの機会や体験を通じて、utainagaraさんが感じる時もあるかも知れません。

いい加減な考えと表現などすみません。少しでも何かの時に参考のひとつにでもなれば幸いです。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
あの…すいません。文章の要点がよく分かりません。
要するに自己啓発は自己の体験を通してなされるものだということでしょうか?

お礼日時:2007/09/15 17:17

自己啓発とは自分で行うものなのに、自己啓発本に頼ったら、自己啓発にならないから。

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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
本を「手段」として自己啓発に用いる限りは、
それはそれで自己啓発のような気がしますが…。

お礼日時:2007/09/15 16:49

手短に。



数学の世界で「公理」(※)というものがあります。

(※)ウィキペディアでの「公理」説明
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AC%E7%90%86

↑から一部引用しますと・・・

≪公理(こうり、Axiom)とは、その他の命題を導きだすための前提として導入される最も基本的な仮定のことである。一つの形式体系における議論の前提として置かれる一連の公理の集まりを公理系という。公理を前提として演繹手続きによって導きだされる命題は定理とよばれる。多くの文脈で「公理」と同じ概念をさすものとして仮定や前提という言葉も並列して用いられている。≫

自己啓発本は、公理(や仮定や前提)がないのに定理ばかり述べているから、根拠がなく、
信用性に欠け、必要性がないと思われます。
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この回答へのお礼

自己啓発本の主張はひたすら人格主義で現実を直視していない。
その意味で確かに根拠が無く信用性に欠けるものが多いですね。
回答ありがとうございました。

お礼日時:2007/09/15 16:37

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