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落語は文学的要素よりもお笑い的なものが多くあまり落語の話は文学として扱われないものと思っていたのですが、落語は一方でかなりストーリー的には文学的に思えるものもあると思うのです。(例えば「死神」など)落語はある意味文学からは少し離れているとも思うのですが皆さんはどうお考えですか?

A 回答 (11件中1~10件)

落語が文学ではない、と思われるのは、落語を文学として扱わなかったからです。


「文学」という語には「文学研究」という意味と「研究対象としての現象」という2つの意味があります。
「文学」とか「文学作品」といわれているものは成立当初から(書かれた時点など)「文学」として認識されていたわけでも、意識して作られたわけでもありません。のちに「文学」としての枠に取り込まれることによって「文学」として扱われるようになるのです。
そして、口頭の芸が扱われなくて、書かれたものが「文学」のようなきがするのは、口頭だと変化しやすく研究や比較検討がしずらい為です。
落語を研究対象にする、というのも現在では新しい動きですが、いずれは当然のことになるかもしれません。
これまで落語を研究対象にしなかったのは、学問としての「文学」の怠慢であったとも言えるでしょう。
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「落語」は文学ではありません。では何かというと、「落語」という芸術の一ジャンル・形式でしょう。芸術というには抵抗があるという人もいるかも知れませんが、娯楽性・通俗性の高い芸術、という風に考えられます。

ホメーロスの叙事詩、ギリシアの悲劇、喜劇などがあり、これらは岩波文庫などにも翻訳が入っていますが、「文学」になっています。

しかし、元々、叙事詩は、叙事詩人が、落語とは違いますが、ある効果を醸成しつつ、朗誦したもので、途中で、竪琴の音楽なども入っていたと考えられます(即興性の高いもので、落語と同様、その時その場の雰囲気で、長くなったり、短くなったり、音楽が入ったり、入らなかったりしました。日本の「平家物語」のようなものでしょう)。

ギリシア悲劇や喜劇などは、「劇」であって、合唱隊(コロス)もいましたから、オペラのようなものかも知れません。文学になった悲劇では、「コロス」という指定になっていますが、この言葉を、実際は、合唱隊が歌ったのです。

「落語」が、テキスト化され、テキストの文章価値で鑑賞されるようになると、このテキストが、「落語文学」になります。ホメーロスは、600年ぐらいか、朗誦されてきた後、前6世紀頃、アテーナイで文字テキストに写されたはずです。

「落語」の場合、話芸というより、「座って演じる一人芝居」ではないでしょうか。落語は本来、聞き見に行くもので、演者の動作なども、重要な要素のはずです。

落語の台本だけだと、映画の台本同様、文学としても、どこに芸術性があるのか分からなくなるでしょう。しかし、川柳・狂歌も文学になって研究されていますから、時代や風俗を映した文学となるかも知れません。また、内容的に、文字にしても、なお芸術性の高い台本もあることでしょう。
 
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国文科の卒論で落語を取り上げた落語ファンですm(__)m


(『話と噺と咄とはなし』だったと思います^^;)

でも「落語のノベライゼーション」は文学だと思ってますが
落語そのものは文学じゃないと思ってます

落語のノベライゼーションもいくつか読みましたが
「落語」というよりは「昔話」「御伽噺」のように感じました
そういう意味では文学なんだと思います

落語は同じ人が同じ演目をやっても同じものにはなりません
演者のノリでいくらでも変化します
毎回違うから同じ人の同じ演目でも何度でも見たいと思ってしまいます

個人的には落語が何であっても構わないのですが
「それが1番生きてる」と感じる形がジャンルだと思ってます
落語や戯曲が1番生きる形は文字ではなく舞台なので
落語は文学ちゃうもん!(T_T)
でも落語のノベライゼーションは文学^^

落語に肩入れしすぎかなぁ~・・・(-_-;)
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早稲田大学文学部の野村雅昭教授は、「落語の言語学」「落語の話術」などの著書もあり、論文等も書いていますから、落語はすでに文学の研究対象になっているといえるのではないでしょうか。

学生さんも落語をネタにした卒論を書いているようですし。
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戯曲は文学として扱われています。


作者不詳のものも文学として研究対象になっています。
ということで、これだけでは、文学として扱われない理由にはならないのではないでしょうか?
209belonさんが思っているほど、文学の間口は狭くありませんよ。安心してくださいね。
←こんどは変えました。
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「口承文学」という言葉があります。

そして、それは立派に「文学」として研究されています。
ですから、口頭だから文学ではない、とは言えないでしょう。
では、何故落語は「文学」ではないのかと言うと、既に他の方も指摘なさっているように、落語は話の筋自体よりも、話者の「芸」に重きを置いているためではないでしょうか。そのため、落語は「(口承)文学」ではなく「(口承)文芸」なのではないかと思います。
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明治文学全集(筑摩書房)には、落語も所収されています。

ということは文学として扱われていないことも無いのでは。大学の文学部でも、研究している先生は何人もいるし、卒論のテーマとしても通用します。209belonさんが思うほど扱われていないものではないです。
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書物として広まっていないからではないでしょうか。



落語に限らず、講談や浪曲など口頭で伝承されるものはあまり文学とは言われていませんよね。
文学的要素があるにせよ、文字になっていないからだと思います。

落語そのものが、中身よりも話者の演じ方に力点が置かれているからかもしれません。
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落語は語り手の語り口により多少違いが出てくるし、枕(本題に入る前の導入)にもその人の個性が出て、他人が語る落語に同じ物がないとまで言えます。


落語全集などもわざわざ「○○さんの高座より」などと断って収載してあります。
この辺が文学と一線をおいている理由かもしれません。
ちなみに落語って作者は明確にわかっているのでしょうか。
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落語も文学の一種として研究されていますよ。


ただ、文学としてあまりとらえられていないのは、落語というものが、話芸であるからだと思います。
あとは、娯楽要素が強いところが「文学」、としてあまり扱われない理由かもしれませんね。文学=深刻、という図式が一部では根強いようですから。
こんなところだと思います。
個人的には、文学だと思いますけどね。要するに、何をもってして文学ととらえるかということでしょう。
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