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日本は民主社会と言われながらも、先進諸国の文化にはない縦の人間関係が非常に幅を効かす社会だと思うのです。

 組織や人間関係を築く際、日本人は相手が自分より年齢が上か、肩書きが上かで態度が変わります。言葉使いも極端に変わります。これはあらゆる社会に見られます。才能や人格が乏しくても1年早く生まれたからと先輩風を吹かせます(外国から来た人は一様に驚く現象です)。諸外国でも年配者はある程度敬いますが、日本ほど卑屈にもならないし、後輩でも才能があれば素直に認めようとします。
 
先輩だからといって肩肘はらず、後輩のよさを素直に認めていく度量を養う方が社会をもっと生きやすい社会風土を作ると思うのですが…。私は必要悪とは思わず、社会悪だと思っています。

A 回答 (14件中1~10件)

 いい問題提起ですね。

他の方達の意見も勉強になりました。
 ところで、私が以下のように言ったら、どのように評価してくれるでしょうか?ちなみに私は40代半ばです。

 もし、「縦の人間関係」が全く無い社会で、あるプロジェクトで決定事項が生じ、みんなで議論したとします。この時意見はまとまるでしょうか?答えはまとまりません。なぜなら、採用された意見の主が優秀ということになり、他はダメということになるので、絶対に他人の意見を是と認められないからです。ちなみに、このような社会では全ての局面で、争いが生じます。勝つという結果が全てだからです。
 逆に、「縦の社会」が完全に固定している社会を考えてみましょう。この場合、下の意見は全く採用されないでしょうか?答えは否です。どんな組織も必ず問題に直面します。この場合、下の意見を採用しても自分の地位は侵されません。むしろ、広く下を使って良い意見を採り上げたと上に評価されるので、損はありません。

 上の話はくだらないとお思いでしょうから、歴史を見てみましょう。
 まず、中国の王朝ですが、概ねその創世記には功臣の粛正が行われています。激しいところでは、漢の劉邦、明の朱元章、最近では共産党の毛沢東が大粛正を行っています。これは、政権初期には、まだ地位が完全に固定化していないため、いつ寝首をかかれるか分からないからです。この功臣の粛正に成功した政権が長期政権を維持できています。日本でも、徳川家康が功臣をかなり粛正しています。

 今度は、千葉周作です。彼が江戸で名をなしたとき、その出身地の伊達藩では殿様が「あれを我が藩の剣術指南役に取り立てよ。他藩に取られるな」と指示したのですが、藩の剣術指南役からの反対で、重臣達が「あれは百姓の出で、藩の格に合いません」として、採用しなかったということがありました。その後、御三家の水戸藩が、千葉周作を藩の剣術指南役に取り立てたため、伊達藩の重役らは非常に叱責されたそうです。
 このエピソードは一見、質問者の意図に沿うようです。しかし、むしろこれは意外に江戸時代の武家というのは中途採用が多かったことを物語ります。そして、もし伊達藩に千葉周作が採用されていたら、前の剣術指南役は解雇です。
 つまり、江戸時代は意外に縦社会が固定されていなかったと言えるのです。その中で、下の優秀性を認めることは、自分が解雇されたり、格下げされたりすることを意味します。だから、重臣達は自分たちの生活を守るため反対したと理解できます。

 今度は、私の経験談を、少しお話しします。
 私は、大学時代ある武道をやっていました。その時の私たちの上下関係は固定されていました。その私たちから見ると、野球部の先輩風や後輩いじめは随分酷く見えました。リベラルな野球の後輩いじめが、私たち武道をやっているものより酷いのは何故か?とおもったものです。
 今、思えば、野球は結局監督の評価で容易に後輩にレギュラーの座やポジションを奪われるスポーツだったからだと考えられます。先輩には既にその大学で、後輩より一年以上長く苦しい練習をしてきている自負があるのです。それが簡単に奪われるのですから、たまらないでしょう。自分の地位を侵しそうな後輩は先につぶしておくに限ります。

 先輩風というのは、縦の関係が容易に覆る社会ほど吹きそうに思いますが如何でしょうか?
 なるべく明確にするために極論に走っています。為念。

 
 
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

指摘された中の江戸幕府は、強固な縦社会でした。社会体制的には、停滞期ともいえる社会だったのでしょうね。そうした点で礼節などが重んじられる形式主義が幅を利かせる社会だったともいえますね。ただ、徳川政権の柱であった重農主義の中にあって、アジアで最も先端をいく商業が堺を中心に発展して、商人が力を持った時代でもありました。江戸文化そうした商人の影響を受け結果の社会でした。武士は無為徒食の権威だけが頼りの集団に成り下がった時代です。商業社会は明らかにその実態は縦社会と縁遠いものです。実力と才能だけが問われる社会構造を作る因ともなりました。

信長、秀吉、家康ともお雇い外国人などから世界の動静を把握し、商業の重要性を認識していました。また、この三人に共通するのは門閥や出自にこだわることなく、才能ある者を登用していることです。そうした点で実力主義を認める芽が育っています。坂本龍馬のその発想の原点は商業主義、実力主義でした。江戸幕府の縦社会のありようをへどが出るほどに嫌っています。一方、あの勝海舟はアメリカから帰国し、アメリカ社会の様子を幕府老中から聞かれ、「アメリカでは賢い人が偉い位置を占めている」と答えたそうです。明治維新は、実力と才能が評価される社会への移行期だったと思うのです。

私は高校時代野球部でした。勝利のためには本来、学年は関係ないはずなのですが、どうしても上級生優先でした。私のチームは負けることが多かったのですが、敗因を真剣に考えることもなく上級生優位は変わりませんでした。今の甲子園を見ていると一時代前よりも下級生が多くなって、まさに実力主義に基づいてチーム構成されており、好ましい傾向と受け止めています。

勝つことが目的であれば、一年苦しい練習してきたというのはあくまで個人レベルの問題であり、勝つという目的に対してはそれを表に出す性質の問題ではありません。そんな自負は捨て去るべきなのです。苦労しているのは1年生でも同じで、むしろボール拾い、先輩のユニフォームの洗濯、後片付けを先輩の軽い命令でやらねばならない後輩こそ、苦労していると言えます。どうゆうわけか、今でも野球部が他のクラブに比較して、封建的な体質を残しています(総じて野球部が最も強い縦社会の体質を残しています)。

お礼日時:2007/10/23 21:37

既に出ている話でもありますが、先進国に無い縦社会というのは多分誤りです。

意思決定はどんな組織でも行なわれ、それを多数決で行なっていたら組織は機能しません。
欧米での上下関係は凄まじく、酒を飲んで上司に意見する無礼講などという事は許されません。勿論意見を求める事はありますが、上司から My opinion と言う言葉が出れば、即時に話は Boss is boss になります。上級職は食事をする場所も違いますし、結果責任というリスク負担を行なうと同時に多大な報酬を得ます。一方下級職は「言われた事」をするだけで良く、サービス残業する事などありえません。そういった中で、欧米人の方がモラルにかける媚び諂いをしている実情があります。
すでに綻びが発生した1990年までの日本の会社組織は、年功序列の上で経験者が先輩として給料以上の役割を背負うという特徴がありました。短所・長所は勿論あった訳ですが、前述の欧米組織が飽くまで能力主義(中には国籍・身分差別はある)によって上下関係が定められ、同僚はライバルであるという組織なので、職位が同じ先輩からの助言は「敵に塩を贈る」事になり期待出来ません。
人の能力を正確に測るのは難しく、マクロの見方で言えば経験値が能力値に影響するのは確かなので、学歴同様社歴についても評価の項目に入れる事は、必要悪と言うより一つの方便であると思います。
仰る様に後輩の良さを素直に認められる人は、絶対に追い抜かれる事の無い事を確信できる実力者なのでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

ご指摘のように欧米での会社組織の中では、ある面では日本的な温情主義など歯牙にもかけないほど、厳しさはあると思います。そうした点で目的達成のための会社論理は、欧米の縦社会の現実の方が、むしろ日本より厳しい側面があるかも知れません。しかし、それは失敗したときや目的達成が成らなかった場合など、責任の所在がはるかに日本より明確にしているからではないでしょうか。むしろ、仕事上の論理、責任がしっかり自己規定され、それが組織全体として共通認識を持ちえているからだと思うのです。

その点で、日本のように常に大勢の動向を窺いながら、責任転嫁の逃げ道を用意して責任が所在不明というわけでははなく、責任の取り方の軸がぶれないないように思います。公私の領域を明確にしているとも言えます。したがって、仕事の遂行上、年齢や門閥は関係ないとの認識に至ると思われます。日本はどうしても温情、閨閥、出身校など情実が絡む組織を形成しやすい、だから、派閥や徒党を組みやすく責任転嫁の下地を作ってしまう。その一つの例として昔ほどではないにしても、課長など上司の引越しまで手伝わされという、とんでもない力関係が往々にして働きます。自分の組織におけるスタンスを人間関係で測るという悪しき組織習慣を断ち切れません。

ご機嫌取りや、上司に意見を言うことなく追随し、正論(意見)を言う者を異端視する。その結果、左遷です。上司と要領よく立ち振る舞える者だけが幹部の道が開かれているというのは、あまりにも姑息です。しかし、これを言うと理想論として片付けられてしまいそうですね。

ある程度、極端に述べましたが、欧米でも日本のような現実があることを承知していますが、基本の論理が明確であるため、失敗があっても揺り戻しがあり、原点に戻って主張できる権利を残しています。とにかく日本は情実や温情、派閥やグループなど人間関係で左右されがちで、それを縦社会の論理がしっかり支えていると思うのです。

何か会社論理に絞って回答される方が多かったのですが、会社のみならず学校も含め、組織論から縦社会をありようを掘り下げた回答も期待したのですが…。特に歴史的な視点があればと思いました。

お礼日時:2007/11/04 21:18

必要である場合もあり、不要である場合もある。


悪である場合もあり、場合によっては善でもある。
というのが私の考えです。

曖昧ですか? 確かにそうですね。
でもそういうものだと思うのです。
或る社会的事象を分析するとして、それが常に一律一定の要因に基づくということはありません。社会というもの自体が多数の価値観と相助相克関係から成る複雑系ですから、全体における善悪の判断基準は統計的であり流動的でもあります。
そもそも縦社会という定義にしても明確なものではありません。
たとえば年齢序列が能力序列と対立するケースがよく問題視されますが、これらが障害となるのは主に同一組織内でのことであり、競争主義的な経済社会においては異なる組織間ではむしろ能力序列が優勢ですので、社会全体の価値観が年齢序列で支配されているという一般論とな必ずしもならないわけです。(要するに、駄目な年寄りが幅を利かせる会社は将来性も無いから辞めればよし、辞められないというのは実は本人の能力自体に問題があるからかも、ということですね)

それに、縦社会として大きく論じるならば、家族社会における序列についても関連付ける必要があります。
年齢を重んじるというのは、社会において自分より前に存在して社会を構成してきた人間の役割を重要視するということであり、父母兄姉には無条件に或る程度は従う、という家族的価値観を社会に広げたものであるともいえるからです。
(要するに、自分の親は能力で自分に劣るから尊敬する必要は無い、などという人はあまり居ませんよね、ということです)

それから、能力序列はおのずと人間的であり普遍的な価値を持つというのは過信でもあります。
能力とは要するに状況に応じて要求される人的資質の集合であり、実際は明確な形の無いものです。
そもそも人間的であることと、組織に有用な能力があることとは同一ではありません。
むしろ、年齢というある意味無条件な経験則指標を準備してその中で成果主義的な微調整を行うという組織運用の方が、序列の流動化や感情的対立による組織の混乱や破壊を抑えるという考え方もあります。

縦社会は年功序列の問題を考えるのは大変良いことです。
しかし、「必要悪」だのという教条的な、それこそ肩肘張った価値観で定義することは無いと思いますよ。
また、西洋的な人間関係の長所に学ぶのも大事ですが、西洋的な社会風土が必ずしも生き易いのかどうか、それこそ両方の社会の中で生活しないとわからないことですから、あまり早計に決め付けない方がきっと良いでしょう。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。やっと後2件となりました。

年齢序列、能力序列といっても極端にシフトするのではなく、アンビバレント(両面価値)の面はあると思うのです。前の方々にも述べてきましたが、要はどこでバランスを取ればいいのかということです。能力主義がかなり浸透してきたと思いますし、ましてや経済といわず政治、教育など世界とほとんど連動し、国際競争力や国際比較が常に問題視される状況下にあれば、我々仲間内で通用していたルールや価値観を問い直すことも必要になってきます。何も世界に迎合しろといっているのではありません。むしろ、日本的な価値が普遍性を内包し、新しい世界基準さえ構築できる可能性さえあると思ってます。

どこの世界でも肩書きや地位を鼻に引っ掛ける人間はいるでしょう。しかし、あまりにも日本は異常と言えるほど、世界とかけ離れていると思わざるを得ません。まさに許容範囲を超えた頑なな人間観と社会観に根ざしていると言えます。

しかし、回答されてきたほとんどの方が能力主義の台頭を認めながらも、縦社会を肯定しているかのような意見に本当に驚いてしまいました。だからと言って、それを認めようとは思いません。まだまだ全体とすれば縦社会の悪しき面が機能し、能力・才能を抑圧していると思わざるを得ないのです。経験者の知恵や経験は、時として社会や組織から求められ、価値を持つことは当然あるでしょう。しかしながら、それを絶対視してしまうほどに彼らは頑なです。

私の職場では、私より若い上司が三人いますが、一人は私よりも若い女性が上司です。能力がありますし、人間的バランスも優れています。それでよいのです。私と女性上司との関係は取るに足りないことで、組織全体がよく機能し、組織性が優れていれば良いと判断しなければなりません。成熟した社会組織では、人間的バランスや能力・経験をどう使い切っていくかが問われるのでしょう。

幕末から明治の立役者は揃いも揃って縦社会を嫌い、人物の本質を見極めようとしました。門閥、出自、肩書き、年齢は極端に言えばどうでもいいことだったのです。戦争前の昭和はその逆といえるほど最悪で、過去の歴史に何も学んでいません。その体質は現代でも引きずっているといっても過言ではありません。

お礼日時:2007/11/01 23:37

>>先輩だからといって肩肘はらず、後輩のよさを素直に認めていく度量を養う方が社会をもっと生きやすい社会風土を作ると思うのですが…?。

私は必要悪とは思わず、社会悪だと思っています。

そのとおりです。日本の社会風土は江戸時代に確立したと思います。絶対的な悪しき縦社会、たとえば大失敗はトップの下が切腹させられましたがトップはそれで責任をのがれるというシステムです つまり縦社会によって反乱者がいなくなるので上層部も下層部もただ上だけを気にしていれば何とか世渡りができるという猿や犬社会と同じものです 猿や犬はボス争いを果敢にやりますが、人間は年功序列の法則を作り楽をするため それ以下ともいえます 日本の政官財は閨閥と強烈な縦社会で構成され、彼らは自らを法律と金力で守っているのです 大手メディアは財のスポンサーにべったりですし、普段本質を知らされない一般庶民が多いことから、基本的には変わりません 

質問型にしたほうがよろしいかと・・
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

日本の文化の原型は室町時代に出来上がったと言われます。文化的には公家を中心とした上部階層のものでしたが、江戸文化は庶民の文化でした。文化をたしなむ余裕ができたのは、まさに良い時代と言えるのでしょうね。士農工商という差別階層で縦社会の機能は、一見完璧のように見えます。しかし、商業が力を得て、庶民の間に経済感覚や合理性が生まれ、実力と才能が評価され認知されるという、堅牢に見えた縦社会を崩していく原因が作られます。

この縦社会を理論的に形式化したのは儒教でしたが、武士の権威を支えただけで庶民には浸透していません。ペリーショックから明治維新が成立したのも、武士の存在が白眼視され実力と才能だけが世の中を変え、ヨーロッパのように文明で対抗する思想が一般化したからでもあります。文明への目覚めですね。しかし、日露戦争で完璧に勝ったことで、皮肉にも軍部から庶民に至るまで、神に選ばれた選民主義が日本人を傲慢にしてしまいました。世界史上初めて有色人種が白人に勝ったということで、世界から持ち上げられ進歩を怠ってしまいました。このことが太平洋戦争最大の敗因を作ったとされます。

幕末、薩摩藩や伊達藩もそうですが、明治初期それはもう争うように欧米に各階層の人材を派遣しています。縦社会の象徴である権威だけでは、世界に通用しないと理解されたのです。しかし、明治維新で一階層になっても、福沢諭吉は組織に忠実で組織に埋没する日本人に諦めを感じ、教育事業に目を向けていきます。縦社会の根は福沢諭吉でも断ち切ることは不可能のだったのですね。

今回の守屋元防衛庁長官のように、ほとんどと言っていいほど社会・政治事件は、縦社会が絡む事件だろうと思ってます。本当に根は深いですね。過去に学ぶ日本人であってほしいとつくづく思います。

お礼日時:2007/10/30 22:48

「必要悪か」と縦社会をすでに「悪」と断じていますが、狭量のような気がします。

「民主社会と言われながらも」という表現は民主社会が絶対善であると決めつけているようです。
縦社会も民主社会も、その運用によっては不具合が生じます。例えば世界で最も民主主義を標榜する国において民主的手続きで選ばれた大統領がいかに世界中に戦争やテロを巻き起こしているか。年功序列ではなく民主的手続きによって選ばれた総理大臣が突然職務を放棄したのは記憶に新しいところです。このように「民主社会」にも不具合があります。だからといって「民主社会は悪」とは断言できないのではないでしょうか。
ものごとの一面のみを見る、あるいは世の中の多数の意見になびくことのないようにして下さい。
最後に補足しておきますが、私は「民主社会が悪い」とか「縦社会が民主社会より良い」と言っているわけではありません。
答えからは外れているとは思いますが、貴方の狭量さにちょっとびっくりしたもので。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

縦社会を社会悪と断じたのは、問題提起の表現手段として分りやすくするためでした。問題の本質を論じるときは、時としてこのような表現が相手に伝わりやすいことがあります(誤解は止むを得ません)。象徴的に言えば、民主主義も人間が創ったものである以上、それは相対的にならざるを得ません。まさに絶対視することはできません。

民主主義は時間と手間ひまがかかり、非常にまどろっこしいものです。加えてプロセスが非常に重要視されます。しかし、不完全であれ民主主義を超えるものが創造されていない現代の社会状況である以上、学習と運用で知恵を絞るしかありません。民主主義が独裁体制より優れているのは、人権、自由、平等などの人間の諸権利が万人に与えられたものであり、その上で個々のアイデンティティを獲得できるからでしょう。言うなれば、「みんなは一人のために」が独裁体制を表現しているとすれば、民主主義は「一人はみんなのために」ということになると思います。

独裁体制は縦社会のみでしか維持できません。人格は認められず機械のような存在でしかありません。旧日本軍(特に陸軍)は、当時の政府を無視し統帥権という特権を濫用して、国民を無謀な戦争に引きずり釣り込みました。今でいうシビリアンコントロールが効かなかったのです。独善的な縦社会が内包する暴走でした。

基本的に民主主義と縦社会の関係は、総じて矛盾や不都合や合理性を欠くと考えています。当然、民主主義社会でも縦の機能は当然必要です。そうでなければ、組織上の最終的な命令や実行の部分において責任や義務は伴わないことになるでしょう。

要は実力や才能を常に縦の機能より優位性を与える。運用でバランスを取ることが大事だといいたいのです。縦の機能の非合理的な部分を抑えることが日本に求められており、世界標準に近づく道だと思うのです。世界を意識することもなく、知ろうとしない日本人であれば、縦社会を疑うこともなく容認し、日本の文化だからしょうがないと諦めるのでしょうね。したがって、強い意志を込めて私は社会悪と断定しました。それでも狭量であれば止むを得ません。

お礼日時:2007/10/28 22:31

ここでは、議論は禁止ってことすが、元の質問の延長とみなされる、No.9さんの想定問題への回答ってことで、ちょっと考えてみました。



想定問題では、縦の人間関係でも、横の人間関係でも問題があるわけですね。で、そういう問題が発生する原因を分析すれば、3つくらいあるでしょうか?

1)個人と組織(私と公)の利害対立

 プロジェクトの成功よりも、プロジェクト内での自分の評価を優先。野球の試合で勝つために能力ある人を選手にするよりも、自分のレギュラーポジション確保を優先するなど。

2)意見の優劣の判定方法を知らない、判定の価値基準があいまい、あるいは存在しない

 プロジェクトで複数の企画があったとして、その優劣を判定するには、十分な現状把握と、それぞれのメリットとデメリット比較を論理的に推論しないといけません。またその判定の根本となる価値観(哲学)にいかに寄与するか?ってことを、特定個人の利害を離れて、検討しないといけないと思います。もし、こういう手順が決まってないと、結論は出ないでしょうね。(ちなみに、年金問題は、”十分な現状把握”を政府が行おうとしないため、解決に向かいませんね)
 もちろん「頑固」「他人の意見は絶対きかない」っていう人もいます。が、そういう人は、将来、それなりの扱いをされると思います。なお、そんな事情も無いのに、結論が出ないなら、「全部ボツ!もっと良い企画出せ!」って結論じゃないでしょうかね。

2)議論(ディベート)のやり方を知らない

 「朝まで生テレビ」のように、発言は、割り込みの素早さや司会者の裁量に左右されるし、相手の話を聞かずに、自分のいいたいことだけ話せばOK、議論がかみ合わず平行線になっても、そのままっていうヒドイ番組があります。あんなのを真似ていたら、結論なんてでませんし、それこそ、縦社会のように、「親分のひとこと」で決めるほうがましでしょう。


結局、人間関係が「縦」あるいは「横」だとしても、それ以前に、お互いの「価値観」が一致していることが最重要だと思います。大学の部活動で、「優勝第一!」のテニス部と「皆でワイワイ楽しむ方針」のテニスサークルは、価値観が不一致で、統一ができないようなもんです。

そして「上下の人間関係」で、強圧的に上が下に押し付けるのは、「封建主義」「独裁国家」体制であり、その傾向が強いっていうことは、日本も「北朝鮮」の仲間であって、まだまだ「民主主義」を学ぶ途上だということではないでしょうか。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

今までの回答者のお礼の中でも述べてきたのですが、私は全面的に縦社会を真っ向から否定しているわけではありません。日本は儒教の影響があるといえども日本の文化が育て、ある種日本社会の知恵が有効に作用してきた面もあるでしょう。私が今回問題にしたかったのは、旧日本軍や今の会社及び学校組織に代表されるように、弊害や問題が出てもそれを疑うこともなく、縦社会の弊害を疑問視もぜず是認していることなのです。社会秩序の維持や目的達成のために、時に縦の論理が必要なことは認めます。しかし、才能や実力は縦の論理に増して優位性を与えるべきと言いたいのです。

より価値的なもの、アイデアが優れているもの、より真理に近いものを評価するのに、年齢や肩書きは本来関係がないはずです。後輩や肩書きが下の者でも、自分の不完全な価値観を上回った場合、それを認める度量、寛容性が大人であり、先輩の資質であり人間力でしょう。それを認める態度をとったからといって後輩は尊敬をなくすでしょうか。むしろ、心から尊敬するのではないかと思うのです。

『朝まで生テレビ』は私も好きでよく観てます。自己主張のぶつかり合いで、矛盾だらけですが、プロデューサーの意図するものが出ていると思います。もちろん結論は局側も司会者も誰も期待していません。自分の思いのたけを話し、視聴者に考えるヒントを与えればという程度でしょう。日本人の苦手なディベートを取り上げた数少ない番組だけに、本格的な討論番組のステータスとして、確固たる位置を確立してほしいと思ってます。

独裁体制は国家単位の揺るぎなき縦社会の象徴でしょうね。ワレサ元ポーランド大統領は、京都で黒尽くめの修学旅行生徒の統率のとれた集団行動をみて「ポーランドより社会主義的だ」と感想を述べたそうです。そのくらい縦社会が強い日本の社会生活は、とても民主主義が浸透しているとは思えず、おしなべて外国の識者は資本主義社会で最も進んだ共産主義的社会と揶揄します。まだまだその程度の民度なんですね。

他の回答に答えられなくてすみません。またの機会に。

お礼日時:2007/10/27 00:17

・階層的な組織の経営よりもフラットな組織の経営の方が


効率がよくなるのではといった話はよく耳にはします。
ただ、アイデアや各成員の専門的知識がどれだけ必要になるかというのが、
運営する組織・グループによって違いがあります。

・専制型リーダー、民主型リーダー、放任型リーダー
という分類が心理学者レヴィンの実験でありました。
放任型はやはり効率がよくないようです。
ワンマンの専制型と話し合う民主型は共に効率はいいけれども、
専制型の方がいじめが起こり、モチベーションが長続きしないので、
民主型が優れているんだとかいうこと。
でも現実社会ではあまり適用されない(?)。

・欧米の中でも、アメリカは個人主義-垂直、
ヨーロッパは個人主義-水平と分類されることもあります。

・年齢に関する給与の格差は日本の方が欧米よりも大きいけれども、
CEOと一般社員の給与の格差だと欧米の方がはるかに大きいです。
経済格差ならアメリカは日本よりもずっと"縦社会"になります。

・韓国の経営は日本より権威的かと思います。
日本の中流意識と韓国の上下意識を比べたものもありました。
欧米に対する日本独自…と通念で思われているものが、
途上国ではもっと強力に存在する場合は結構多いです。

・上下関係・集団主義が強い国の方が所得が低い傾向があるとかいう話もあります。
でもこういった観点は拒否感を持つ人が多そうです。
上下関係が小さいから豊かになったのではなく、
豊かだから上下関係が縮小したのかもしれませんが。
http://www.dataranking.com/table.cgi?TP=bm04-1&L …

・でもドラッカー、ガルブレイズ、ポパーなどなど、
日本の礼儀作法には好感を持つ人は多いですが。

・ゲマインシャフト(地縁・血縁型共同体)から
ゲゼルシャフト(目的型共同体)への移行が
近代社会の形成過程というモデルもありました。

・インターネットでは上下関係は形骸化してますし、
若い世代では転職の意識も増大していますから、
日本でも世代が立てばもっとフラットになるのかもしれません。

・男女の上下関係も是正した方が経済には有利とは言われるのですが、
男性はなかなか信じたがりません。
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この回答へのお礼

どうも回答ありがとうございました。

広範囲にわたるデータや識者の見解、大変に参考になります。
格差社会と縦社会の因果関係と連動性は、もう少し研究しないと判然としない点が多々あるように思います。ヨーロッパなどは、伝統ある階層社会でその棲み分けは、ある程度認知されている社会構造と言えるものでしょう。しかし、根底には、人間の諸権利は既に万人が共有する権利であり財産と認識されています。挑戦の機会平等、一度失敗しても再挑戦の機会を与える社会などは、全ての人に人間の可能性や才能を認めていこうとする、歴史に学んだ文化の寛容性を示すものと思います。まさにこれこそ民主主義の精神であり文明だと思うのです。また、ノーブレス・オブリージュ(地位や豊かな者の社会貢献)の精神はキリスト教の影響があるとはいえ

礼儀作法は人間関係をよりスムースに、より豊かにする基本となるものですし、この点は大賛成です。権威で威張りたがる人や縦社会を別の意味で勘違いしている人間こそ、礼儀作法を覚えてほしいものです。本当の礼儀作法を知らない人こそ上にへつらい、下に威張るものです。人間をそのようにしか見ない人は、虚勢を張ったピエロみたいなものです。

幕末にアメリカに渡った幕府高官(小栗順之助もいた)が、通商条約締結のため、ワシントンやニューヨークで大歓迎を受けますが、あの大詩人ホイットマンがニューヨークのパレードで彼らを目撃し、凛とした態度や礼節作法に感動して印象記を新聞に寄せています。礼節を強調すれば縦社会をより強固にするとは思わないのです。別次元の問題で区別して考えるべきだと思うのです。礼節はあくまで人間に対する尊敬であり、意思表明で威厳さえ伴います。人間関係を深く結びつける導入部ではないでしょうか。外国人に対しては、私はあなたに敵意をもっていないとの表明になるかも知れません。

お礼日時:2007/10/20 19:26

礼節の問題だけですね。


それを受け付けれるかどうかでしょう。

…でも、人間ってね。簡単に他人を認めれるなんて出来ませんよ。
欧米の建前と本音を使い分けるエネルギーの裏側では色々と裏工作が行われているのですよ。

それに縦社会と言っても自分勝手な解釈で上司面するのはただの勘違い人間ですしね。
在っても無くても別にどっちもどっちです。

この回答への補足

回答ありがとうございました。

いつも不思議に思うのですが、建前と本音の使い分けは世界共通であると以前より思ってましたし、社会生活上、建前と本音が使い分けられるのは当然でしょう。何故日本だけが日本特有の社会現象のごとく指摘されるのか分りませんでした。ただ、使い方が巧妙であり、陰険であるとの固定観念が江戸時代以降、日本を訪れた外国人に喧伝されてしまった面もあるようです。我々の建前と本音の使い分けは社会秩序のうえで正義であるという傲慢な優越性です。おそらく日本の建前と本音の使い分けは姑息に見えたのではないでしょうか。

軍隊や会社などの目的達成のためには、ある程度の縦社会の論理は必要でしょう。そうでなければ秩序は維持されませんし、責任も義務も脆弱になると考えます。これは私が問題提起したことと矛盾はしないのです。要はバランスであり、才能をどう組織や社会に認知させ活かしていけばいいかということなのです。日本は強力な縦社会でありながら、毎日報道されるような無責任事件が起きるのでしょう。官僚の天下りなどは縦社会が育んだ結果とも言えます。

何故、ほとんどの人が縦社会のありようを肯定するのでしょう。縦社会に潜む非論理性と非倫理性に鈍く、あたまから疑うことをしないのでしょう。あまりにも世界からみれば異質なのです。韓国は李朝600年の儒教の影響を受けて日本より強烈な縦社会ですが、徐々にその構造的な非論理性に気づき始めています。

縦社会の是正が、社会のありようの全てだとはいいませんが、優秀な日本人であれば気づき、そろそろ問題視してもいい頃だと思うのですが…。

補足日時:2007/10/20 18:21
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No.3です。


確かに、eroero1919さんのいわれるような面はありますね。「意見を言わない=>考えてない=>無能」って評価ですね。
また、「ある方の意見=ある方の能力」っていう見方が全くゼロだとしたら、その人の能力評価をする機会が無いことになってしまいますので、リンクする面はやはりあるでしょう。でも、今にも殴り合いっていうような激論をかわした2人が、会議室を出ると、仲良く肩を組むって面もあるわけです。(その仲の良さは、建前かもしれませんけど、でも、明らかな犬猿の間柄になるよりましですね。)

ある女子学生がアメリカ留学時に、ディベートで「婚前交渉は是か非か?」って題目のとき、「私は、隣の人と同じ意見だから発言しなくてもいい」って黙っていたら、その後、「あなたは、結婚や恋愛といった人生の大切な問題を何も考えてないのね。軽蔑するわ!」と友人に言われたって話もあるようです。

ということで、ディベート重視する欧米方式がベストってわけではないでしょうが、優れた意見を後輩が気楽に先輩に言えるような雰囲気は、日本に是非ほしいと思います。「なんで、そんなバカな意見が通ったの?」と聞かれて「空気がそうだから」(実際は、トップ個人の利権とか権力保持が理由でしょうが・・・)って、アホ丸出しは、もう無しにしてほしいですね。

そして、先輩である自分の意見が、後輩の意見に負けても、素直に受け入れる広い度量が、先輩に欲しいですね。

今、必要なのは、どちらにとっても「勇気」でしょうか。

この回答への補足

何も意見を言わないのは、言わせないという長年築いた日本の縦社会の伝統がそうさせている面もあると考えています。何を言っても先輩の意見が優先され、肩書き上位の人が検証をされることもなく無条件で採用される傾向があるとも言えます。これは決して会社組織だけではなく、程度の差こそあれどこにでも見られる現象です。

意見のない人=何も考えていないというのは、ある意味、社会的に自己存在否定であり、生物学的に存在している意味しかない与えられないと思うのです。国際的会議の場でも日本人が共通して評価されるのがこの点です。常に受身で自己の見解を明確にしない。まさに無作為の罪です。゛これが日本の文化よ゛とは間違っても言ってほしくないですね。

「池の鯉大海を知らず」とは日本人の側面を語る適切な言葉かも知れません。しかし、日露戦争では日本は徹底してロシアを研究しましたし、日本に味方する国を多く作る戦略を世界的に展開しました。それで確固たる戦略を持ち得ました。太平洋戦争では精神論が最後の切り札となったため、相手を知ることを怠ったうえ、情報戦を軽視しました(レーダーも昭和15年には実用段階に入っていましたが、海軍は日本がやることではないと無視しました)。日本が追い詰められて始めた戦争とはいえ、南太平洋を制圧した後の戦略・構想が無かったのです。これも縦社会の硬直した結果から導き出される一断面です。部下や多面的な意見を取り入れないのです。当時のアメリカ陸海軍は兵站部門の指揮を民間の運送会社の課長を採用し任せたほど柔軟でした。

先輩は決して最初から偉くはないし、威張る必要もないのです。部下を本気で育てようとし、正論であれば採用し、かつ自分の経験を絶対視することなく伝えれば偉いと思うのです。一番偉いのは自分より偉くなってほしい、自分より人材になってほしいとの気持ちで接する先輩ではないでしょうか(あまりいないでしょうけど)。それでも威厳は損なわれません。

補足日時:2007/10/14 01:08
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確かに、欧米人の他人の価値観に耳を傾ける姿勢は私も大変リスペクトします。

しかしながら、世の中そうは上手くいかないものでしてね。欧米社会っていうのはものすごくタフですよ。
確かに才能があれば認められますが、才能がなければ容赦なく捨てられます。アメリカについていれば、確かにアメリカ社会はチャンスをくれる社会だと思います。けれども、結果が出せないと容赦なく捨てられます。だからみんな「私は優れている、能力がある」とアピールしなければなりません。アピールしないとやる気がないと判断されて捨てられます。上手くいかなくなっても「これこれこういう理由で上手くいかなかった。今度は必ず上手くいく」といわなければなりません。いえないと容赦なくクビです。

それと欧米社会でも必ずしも才能ある人間が素直に認められるとは限りません。他人の才能に嫉妬するのは人間の性で、人種は関係ないですからね。けれども、それをあからさまにするのは「知性がない」といわれるので本音は才能を認めていないのに他人の前では「素晴らしい」なんてことをいけしゃあしゃあといったりするのです。本音と建前の使い分けって欧米人のほうがすごいですよ。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございました。

建前と本音を使い分けるわけるのが日本の専売特許ではないようですね。確かに、本音では自分よりも才能があると認めても、その反動でジェラシーが生まれ、コンプレックスを感じてしまうというのはその裏返しで、民族や人種に関係ないのでしょうね。本音だけで生きれば分裂と戦いを招くでしょうし、建前だけでは実のない虚構の社会になるでしょうね。

あまり欧米を崇拝しているかのような論理を使用したくはないのですが、しかしながら、欧米では人間とは何か、人権とは自由とは何かという基本的な命題と幾世紀にも亘って格闘し、戦い培ってきた歴史があり、それが膨大な哲学に結実しています。日本は儒教などの影響もあるのでしょうが、ともすると美学に傾く精神風土があります。太平洋戦争時、゛一億総特攻゛(昭和天皇は不快感を表明)に象徴されるように、戦争の遂行のために戦略より美学を持ち込みました。どう生きるかではなく、どう死ぬかがと問われた異常なヒステリー社会でした。人の命が虫けらのように扱われ、上官の命令は天皇の命令という強固な縦社会でした。

欧米にも本音と建前が社会に存在するとはいえ、伝統に裏打ちされた社会規範があり、個としての存在理由が常に問われてきた社会だろうと思うのです。欧米では一般論にすりかえず、『あなた自身はどう考えるの』という問いかけがある。翻って、笑ってごまかしてしまうような日本人のアイデンティティの弱さを感じるのです。

日本の縦社会のありようは、哲学や考えの基盤が薄弱なためのスケープゴートなのかも知れないと思っています。

お礼日時:2007/10/13 02:28

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