準・究極の選択

いつもお世話になっております。

依然こちらでオススメの参考書を教えて戴いてから、細々ですが毎日お勉強頑張っております(^-^*)

そこで質問なのですが、自動詞と他動詞、きちんと頭で整理して記憶しなきゃな~なんて思って、辞書をひくと両方だったりする場合があります。
 
最近までは自動詞や他動詞とか全く意識していなかったのですが、とても大切な事だとやっと判り始めたところです(*^_^*)

皆さんはどうのようにして記憶されましたか?

宜しく御願い致します!!

A 回答 (2件)

Gです。

 こんにちは!! こちらも私なりに書かせてくださいね。 しかし、私なりと言う表現の中にはまったくの個人主張ときつい言葉も含むことになります。

>自動詞と他動詞、きちんと頭で整理して記憶しなきゃな~なんて思って、辞書をひくと両方だったりする場合があります。

なぜ私が試験文法が役に立たないと断言しているのがお分かりでしょうか。

その一つに「分類してそれを覚えようとする」と言う理由があるのです。 単語は、それが動詞であろうと、そして動詞はそれが自動詞であろうと他動詞であろうと、分類分けして体系付けて覚えようとしてたとえ覚えたところで、その知識が頭に残るだけでとても「英語が使える」「英語で表現できる」と感じることはないのです。

「おっぱじめる」と言う表現をご存知ですか? 「ダブる」はどうですか? 古くからあるものと最近とも言えるものを書いてみました。

これらの単語のフィーリングを知らないで、これらが単独の動詞として使えるのか、何か後に持ってくるために使うのかわからないですね。 英語単語も同じなのです。

これは自動詞です、だから云々、と言うのは実はその単語が動詞でありまた自動詞として使われているのを「知っている」からなのです。 それを知らない人にこれは自動詞です、だから云々、はとんでもない説明の仕方なのです。 なぜなら、誰かが決めた名称を選んで当てはめただけのことなんですから。

#1さんがお使いになったaimと言う動詞をaim atで他動詞として使っていると考えるか、aimが自動詞として使われそれにatと言う前置詞が使わてその目的語が来る、と考えるか、どっちでもいいことなのです。 そしてこの、どっちでもいい、と言う言い方をして、そんなの気にするなよ、と言うフィーリングのときもありますし、どっちの解釈をしてもいい(正しい)と言う事もあるし、それは熟語ですと言う人もいるし、片方しか認めない人もいるのです。

つまり、そんなあいまいな区別をしているこの二つの動詞をその区別によって覚えるのではなく、一つの表現の中で使われているその動詞の役割を感じその意味合いと使い方とその文章で表そうとしている事をイメージしながら覚えていくのです。

そうする事で分析をする必要があるときにはちゃんと自動詞なのか他動詞なのかは自然にわかっていくわけです。 だから、意味合いがわかっている人たちはその区別がつくわけです。

さて、冒頭の「おっぱじめる」は「始める」と言う表現のいわゆる俗語と言われる表現方法です。 知っていたら「ダブる」まで読み流してください。

おっぱじめる、と言う表現じゃ、「じゃ、おっぱじめるか」と言う表現で「じゃ、はじめようか」と言うフィーリングで使います。 イメージがわきましたか? どんなときにそのような思いを相手に伝えようとしているか。 何を始めるのかは書いていませんね。 はじめる、だけで何を始めるのかは分かっているわけです。 分かっているから言わないのですね。

aim atで他動詞としてこの次に書いてある名詞「を狙う」わけですね。 atがなくては「~を」のフィーリングが出せないわけです。 出せない動詞を便宜上自動詞と言うわけです。

「またあいつ喧嘩おっぱじめたな」と言うように使えば「喧嘩を始めた」と言う表現になり、この喧嘩と言う単語がなかったらこの文章の意味がなくなるわけですね。 こういう風にに使われたときは他動詞、と呼んでいるわけです。

つまり、喧嘩という事を表現の中に入れているわけですね。 入れているから他動詞と呼び喧嘩を目的語と呼んでいるわけです。

ここでちょっと待って、をかけましたか?

さっき、何が始まるのか分かっているから使わない、そしてその使い方をしたときに自動詞だ、というのですね。

でも、分かっているのは、なぜなら目の前で喧嘩が始まったからですね。 表現としては自動詞だけど、相手が受けたときにはその人にとっては、喧嘩が始まった、と言うフィーリングで受け取りましたね。 つまりフィーリング英語では、目的語がなくても他動詞として受け取られた、と理解するわけです。

こんがらがってしまいましたね。

わざとそうさせてもらいました。 失礼なことですね。 でも失礼ではないと言うことを分かってもらいたいのです。

自動詞でも前置詞と一緒になって他動詞として使われて目的語が来るけど、その目的語がなくても受け取るのは他動詞だ、、、、、きゃぁ!!ですね。

なぜこんな言葉でして自動詞だ他動詞だと分けるのですか?

もっと素直に目的語があればその目的語を訳の中に入れ、なければ自動詞としての訳を使えばいいのです。 それだけのことなのです。

ダブる、は留年すると言う意味で使われます。 同じことが言えるのです。

日本ではこちらよりものすごいスピードで新語が作り上げられ、使われていますね。 新語大賞なんていう賞なんかもあるくらいですね。

しかし不思議なことにそれらのほとんどを理解することが出来ますね。 わざわざ辞書を引き、まだ載っていないのを知って一度は失望しながら、友達にわざわざ聞くこともたまにはするかもしれませんが、ほとんどは使われている状況特徴・顔つきなんかで意味合いを感じ取ってしまいますね。

たいくのひ、ってなんだか分かりますか? ちょっと昔だったら昨日でしたね。 ヒントになりましたか? 今年はこの月曜でした。 もうお分かりですね。 たいいくのひ、つまり、体育の日です。

たいくのひ、ってなんだか分かりますか? への回答はもう終わりましたね。 これを言う人は自分では体育の日と言っているつもりなのです。 そして、これを受ける人もちゃんと体育の日と分かるのです。 でも外国人が聞いてこれをローマ字で表現するとTaikunohiとしか聞こえないのですね。

この表現に関してこれ以上の説明が必要ですか? たいくのひ、と「書いたから」???となるけど発音されたらちゃんと意味が分かる、のですね。

この説明で自分ならどういっているだろうか、と気になりますよね。 ここまで読んで来て何回この表現を反復しましたか? 5回はくだらないのではないでしょうか。 (くだらないけれどくだらなくない、親父ギャグでした。<g>)

かなり誘導回答だということにそろそろ気がつかれたのではないでしょうか。 (気が疲れたともおもいますが<g>)

おっぱじめようか、といわれたときに、もう自動詞なのか他動詞なのか全然問題ないですね。 気にならないですね。 何をおっぱじめたらいいのか分からないときには???となるのも感じましたか? そして何をはじめたらいいのかわからないと「何、ぐずぐずしているんだよ」と言うせりふも聞こえますか? この「何」って「何でしょうか?」と国語カテに聞きたくなりました? <g>

英語を使えるようになるには、徐々に身につければいいのですよ、と言うアドバイスを前にも聞いたことがあると思いますが、これは、一週間休んで一日やってまた一週間休むから「徐々に」ではないですね。 確実に身につけるにはそれなりの反復作業をしその時にイメージと重ねてその表現方法を身につけるのですね。 覚えるのではなく、身につけるわけです。 その表現に慣れるわけですね。 習うのではなく慣れる、今では多くの人がこの考えを使ってくれるようになりました。

慣れる事を「おっぱじめてください」。 そして、それが、beginと言う単語で表現できると言う事をしり、Let's beginという表現でおっぱじめようよ、と言うフィーリングを出せる表現なのだと言うことを知り、何かを始めるということは実は結果を求めている、成功させる・するある状況に立ち向かう、進歩を遂げる、仕事に取り掛かる、と言うフィーリングを込めて始める時に、Let's get on!と言う表現が使われているのも身につくようになるわけです。 Get on!で早くしろ、急げ、ぐずぐずするな、と言う今までの状況とは違う状況を作りだす(事を始める)と言う表現も身についていくわけです。

このgetも自動詞でonがついても他動詞としては使われない、と言う事も「徐々に」わかっていくのです。 GET ONは自動詞で副詞のonが使われている、なんていう説明は何の役にも立たないのです。 例外として、文法研究者になりたい夢を持っているのであれば知る必要は在るでしょう。 しかし私はそのような机上の知識に対して、「じゃ、何でaim atを他動詞(的)と呼ぶにもかかわらず、このget onは自動詞(的)と呼ばないのだ」と突っ込みます。 

しかし、動詞は自動詞として使われるときと他動詞として使われるときに意味合いが変わってくるときもあるので、目的語・目的句・目的節が来るのかを知ることで自動詞なのか他動詞なのかを「区別できる」事で」辞書をよりうまく使えるようになりますね。

ということで、自動詞・他動詞と言う区別が分かるようにするだけでこの文法用語と文法が「使える文法」の一部として一生身につくための土台が作られていくわけです。

意味のある勉強を今日「おっぱじめませんか?」 私も毎日目が覚めると「生きていたな」と実感し「じゃ、今日もおっぱじめるとするか」と言うフィーリングでその日が始まります。(いや、その日がおっぱじまります<g>)

My day begins this way everyday and I start my day like this way every day. なのです。 (宿題です。 実は、このbeginが自動詞なのか、他動詞なのか、断言することは出来ないのですがなぜでしょう)

試験文法に突っ込みをかけ、暴れん坊将軍の最後の一言を言うことになるのです。 <g>

参考になりましたでしょうか。 理解しにくいところがあったり追加質問がありましたら締め切る前にまた書いてくださいね。 (わざと誘導回答を書いてしまいごめんなさい、でも私の本心を知ってくださいね。)

この回答への補足

こんにちは!(^0^)/
個人的にこの質問の回答を御願いしておきながら、お返事が大変遅くなった事をお詫びいたします。。。

すごく、すごぉくご丁寧で、しかも読んでいてGさんのお人柄がよく伝わる面白いご回答で本当に嬉しいデス(^-^)b

>慣れる事を「おっぱじめてください」
そうですね(^-^)
日本語の文法なんて勉強しなくても、普通に生活に困ってないのだから英語も慣れるのが一番なんですよね。
英文法を勉強してると、「なんで??」と思い、勉強が一時中断→挫折・・・みたいな(-_-;)

最近は英文法も何回も反復して勉強したせいか、問題は依然より解けるようになったんですが、実際Gさんがおっしゃるように「使える英語」なのか?と自分に問いかけると疑問が残ります。
 
いずれは英検を受ける予定なので、その努力が無駄になるとも思わないのですが、最近は英語のラジオを聴いても内容が半分も理解出来てないし、英会話も経済的に通えなくなってからはスピーキングも全然出来そうな気もしません(>_<)
でも絶対このままで終わりたくないです。

じつは今回宿題が出されてて嬉しいけど解けなくて困っております。
この後、ゆっくりこのご回答を熟読して、日を改めて答えを出させて戴いても宜しいでしょうか(^-^;)?

あぁ、「暴れん坊将軍の最後の一言」というのが思い出せないです。
おばあちゃんが好きで一緒に観ていた記憶はあるのですが(/_<)

それでは今日は簡単ですが、この辺で失礼致します。
本当に毎回ご丁寧で極め細かいご説明に感謝致します!!
では。。。

補足日時:2007/10/14 10:14
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こんにちは。

taked4700 です。

以前、他動詞自動詞について投降したものがありますので、それをコピーしておきます。ご参考になれば。
以下は http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3094481.html
からのコピーです。

英語文法について、普段からいろいろ考えてきましたが、他動詞とか自動詞の考え方について、一つの理論を以前から考えていました。
この考え方が正しいか、または、これと同じような考え方が、以前、誰かによって言われていたか、それを知りたいと思います。


aim は、「目指す」と言う意味です。ということは、「そこにない、今無いこと・まだ出来ないこと」を目指すということだと分かります。
ところが、doing は、すでにやっている、すでにわかっている、または、すでに出来ている、のような感覚があり、そのため、He aimed climbing the mountain. のようにすると、「すでに出来ていることを目指す」のような感覚になってしまい、おかしな文だと感じられてしまうのです。
また、aim at doing は、OKですが、これは、at と言う前置詞が入ることにより、「目指す」と言う動作が直接 doing に働きかけていず、at が入ることにより、「目指す対象が」doing なのだと感じられるからです。

一般に、他動詞は、目的語への直接的な働きかけを意味します。そして、「直接的」とは、目的語が「そこにある、今、目に見え、手で触れる」と言う意味なのです。つまり、aim の場合、その対象は、「遠くに離れている、まだ実現できていないもの」なので、aim at doing の形が一般的なのです。また、他動詞によりその目的語が何らかの変化を受けるという側面もあります。
このことが一番簡単に分かるのは、serch と言う単語の使い方です。「僕は公園を探した。」では、I serched the park. と言う形で、直接目的語としてthe park が来ます。これは、「公園」が実際にそこにあり、「探す」と言う動作の対象になるからです。
しかし、「僕はバックを探した。」は、I serched for the bag. となります。なぜ for the bag かというと、「バック」がその場に無いからです。「探す」と言う動作自体と「バック」というものが、直接かみ合っていないからです。
そのほかにも I go to the park. も「行く」と言う動作は、その出発時点も意味として含むので、出発時点では「公園」は遠くにあり、to が来るわけです。leave もそうで、I left the station. は、出発地点が「駅」です。I left for the station. は、目的地が「駅」なのです。
同様に、reach と言う単語は、他動詞として使われることが多いですが、arrive と比較して、目的語に影響を与えると言う意味合いがあります。だからこそ、「これらの言葉は彼の心に届いた。」は、These words reached his mind. と reach を使い、arrive は使わないのです。

しかし、これでは解決しない他動詞もあります。つまり、I know that he is a nice guy. のような場合です。ここではknowに目的語に対する働きかけのようなものは感じられません。そこで、他動詞概念を拡張して、視覚の問題にするのです。視覚と言っても実際に外界にあるものを見ると言うわけではなくて、心理的にあるものとあるものを視線を動かさずに、言い換えれば、意識の焦点が動くことなくある動作とその対象が一緒に捉えられれば、それは、他動詞的な直接性があるとするわけです。knowは、「知る」対象があってこそ「知る」と言えるわけで、そういった「動作との一体性」があります。また、最初に述べたaim,searchなどの使い方も説明できます。 つまり、他動詞は、視覚的な、または、意識的な「動作と目的語の一体性」がある動詞ということでまとめることが出来ます。

翻って、自動詞は、概念の混乱が見られます。つまり、I sleep. のように完全に主語だけの動作を示すものもありますが、I eat (something). のように、単に目的語が省略されて、自動詞化したものもあるからです。この区別をしないと、本来的な自動詞、他動詞の感覚が混乱すると思います。

以上のような、視覚の一体性ということは、一般的な前置修飾についても言えると思います。それについては、​http://oshiete1.goo.ne.jp/qa2119239.html​ の「補足」の部分に、以前、自分がyahooの掲示板にした回答の引用と言う形で述べてあります。

以上です。大変長くなり、申し訳ありません。
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この回答へのお礼

早速のご回答ありがとうございます!!
生徒さん想いの優しい先生でいらっしゃいますね(^-^)

>このことが一番簡単にわかるのは、serchという単語の使い方です。
この後の解説が本当にわかりやすかったです。

ご親切にありがとうございます。
これからも益々英語の勉強を頑張りたいと思います!!

お礼日時:2007/10/07 12:13

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