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いじめというものは、結局「人を不幸にしたい」という欲求からくるものと捕らえています。その源泉は何かと考えていくと、結局自分が不幸であったかあるいはあることに突き当たる。そこで突き詰めていくと、なぜ人間というのは「不幸感」を味わう羽目になるのだろうか、あるいは味わう羽目になる人がいるのだろうかということになる。

これは何でなんでしょうね。

社会学的生物学的人類学的いろいろ考えられると思うのですが、どうも漠としています。なにかすっきりとした考え方はないのでしょうか。

A 回答 (18件中1~10件)

僭越ながらご意見させていただきます。



「いじめ」に根本原因などありません。
自分がされて嫌なことを誰が好んでするのでしょう?
誰しも人を不幸になどしたいとは思いません。
それは人の願いです。
私はいじめた経験がありますし、いじめられた経験もあります。
それは私の「淋しさ」です。
それは人の「哀しさ」でもあり、
また心の「貧しさ」でもあります。

人は競い合う生き物ですし、同じ社会で優位に立てば優越感に浸ります。
不幸はそう感じるから不幸であって、
貧しくても厳しくても強く志をもって生きている人もいます。
集団を持って仲間外れにする村八分も昔からありました。
これも場合によっては「いじめ」と呼ぶこともできるでしょう。
「セクハラ」といった心理も似たようなところにあると考えています。

こうしたことは実際、「心理学」の分野でかなり詳細にされているように思います。
「かまいたい」「気になる」といった好奇心が実らなかった場合、
「意思疎通」「意思拒絶」といった態度に出ると考えられます。
お互いのコミュニケーションによるもので、
よく「ウマが合う」とか「不釣り合いな関係」とかいった具合に、
少しずつ進展してゆく中で具体化してきます。

ちなみに社会という中で人が生きている以上、
どのような理由があっても「いじめ」自体、許してはなりません。
「嫌だ」と思っていても、それを「力」で封じるような活動、
集団の在り方はあってはいけない。
これは社会行動として豊かな社会活動に反しています。
どんな屈辱でも、「いじめ」にひとりで立ち向かってはいけないし、
必ず誰かに頼るべきです。
「いじめ」は社会問題です。社会の問題には社会で立ち向かうべきです。
また本気で「いじめ」に立ち向かいたい時、
必ず本当の「大人」というものは、当事者を親身に守ります。

学問では分析を多用する為、
物事を真正面から分析しようとすると見えてこないこともあります。
相手がどうだからとか、自分がそうだからとか関係なく、
これは飽くまで当人同士、人と人の関係で起こるものです。
気に入らなければ、排除すればよいというのも良くないし、
また合わない相手とは何年掛っても合わないものです。
その辺り相手と自分を割り切って行かれる方が良いでしょう。
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この回答へのお礼

人間の「業」のようなものから逃れられないという事なんだと思います。それがギャクに人類を発展させているという事もあります。それはどういう理屈で起こっているのかいまいちはっきりしませんが、生存本能とか、人間本来が持つ性質とか、生活形態とかからかもしれません。
しかし、人類は持つ根本的な欠点をなくしていくことも可能なんじゃないかと。天然痘とかを克服したように、絶対善みたいな勝利を収める事もできるのではという気もします。
学問的アプローチというのは、しばしば網が荒すぎて、ロクなものが引っかからないように感じます。おっしるように、人間的な考察こそ大切です。

お礼日時:2007/10/29 23:05

少々 生意気で勝手な文章形式ですが 随想のかたちで ごめんください。



そう言えば いじめについて 直接には考えて来なかった。

わたしは 関心を抑えてきたわけでもなければ 逸らしてきたわけでも 後回しにするといった考えで来たのでもない。
基本的に言って 欠陥を取り除くのではなく その人が自分自身に還ることを促し これを通じて たとえば いじめも しなくなるという筋道を描いていた。自己回復によって 欠陥を克服するという基本の考えを 対処の方針にして来たわけだ。自己到来 自己還帰については いやというほど 考えて来たし 覚え書きをとっても来た。

直接に なにか 表現できれば もっとよいかも知れない。



と言っても わたしに いじめの経験が 全然ないというわけでもない。
小学校のときに明らかに その事態に直面していた。その後も しょっちゅうと言ってよいほど受けていたが けっきょく ほとんどは 間接的なものだった。陰湿だが たいした内容をともなうものではなく どういうわけか 尾を引かないものだった。だから 直面するという事態は 言ってみれば つねなるものでありつつ 私が意に介さないという情況だったようではある。
(もっと言えば たしかに私が鈍感で 大抵は その事件なり問題点なりが一段落ついたあと そのことに気づいたのだった)。


この後者の点を いま振り返って――いまの考えにおいて――述べておくなら こうである。
それは 問題は 相手にあり 相手が欠陥を持っているという問題であり それに対して わたしは あわれむことはあっても 同情などいっさいしないし(同情など されることを もっとも嫌うわけであるし――なぜなら それは ただの気休めにすぎない――) あとは その相手が やはり自己還帰・自己到来するのをささやかながら手助けするということである。この自己回復を 側面から援助するという仕事にかかりっきりであって いじめの問題は へのかっぱにしたままである。(へのかっぱにしたという意識も なかったわけである)。

方針は こうであるが けっきょく たいしたことが出来るものでもない。
言わば敵にささやかな塩を贈るわけだが たいして贈れるものでないし 目に見えて効を奏した事例があるというものでもない。
まあ この点については 相手によって そのいじめのような態度を引っ込めた場合と そしてもう一つは 一向に効き目がないという場合とがある。ただし 後者のばあいも 態度は変わっていないが 攻撃的でありつづけるということはなくなったわけである。

さて 何から考えていけばよいものか。


いじめについて 思い出そうとしてみると どうも わたしは わたしを何らかのかたちでいじめようとした人びとを 言ってみれば 《殺してきた》ようだ。

物騒な言い方をしたが どうもわたしは かれらを意に介さないでいたようで 何ら相手になってやらなかったらしい。
だから かれらは 自分の仕掛けが 一切効を奏さなかったわけで そうだとしたら かれらは その仕掛けの意志(?)に関する限り そのまま死んでしまったかも知れない。だから 殺してきてしまったかも知れない。


けっきょく いじめをするというのは みづからの欠陥やらコンプレックスやらを 他者の中に見て これをいじくりたくなるのだろうか。

だとすれば かれらは 自分のその恥づかしい部分を見るな 見られるくらいなら《殺してくれ》と言っていたとさえ考えられる。

ちょっと結論を急ぎすぎたようだが 我が体験からは 妙な方向へと話と分析が進むようである。

関心は広く大きい。その中味は ぴんと来ていない。困ったものだ。

* 一つ思ったことですが いじめに対しては 物理的な力による被害の問題を別にすれば いっさい意に介さないというのは どうでしょうか。言いかえると その原因・実態は 加害者の幻想・妄想であるにすぎないという見方です。

*生徒のあいだのいじめについては かれらの共同自治にまかせるというのは いかがですか。いじめの中味は 何でもないものだという実態を 自分たちのあいだで 徹底して 追究していくということです。

*大人になってからは 出世競争などを理由とした何らかの意図があるものです。事情と情況は違うでしょうが やはり 好きにさせるよりないかも知れません。欠陥を取り除こうとすることによってではなく 自己回復の方向へ持っていくことによって・・・。
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この回答へのお礼

どうもありがとうございます。
性善説的に考えるといいですね。コンプレックスでひん曲がった行動がいじめであって、それは常態に復する力がある。あるいは実態がそうでないとしても、その考えにはほとんどの人が線税的に賛同していて、そうなれるように努力していく、そういうことは風習として根付くのではないでしょうか。

お礼日時:2007/11/06 08:54

#15です。


何回もお邪魔してすみません。
>全体として「低質」なものというものは、常にマジョリティを閉めるのではないでしょうか。つまり、社会の総体の質は、平均点といってもいいかもしれませんが、それは変動しない。社会的質は変化して、それが質の向上に思えるかもしれないのが、実はそうではなく、ただの変質なのではないか
:このへんも良くわかるのですが、客観的視点に偏りすぎている印象を受けます。
ある側面として確かに事実でしょうし、そういった視点も面白くはあるのですが、しかし、(超自我性による)「高質」を求めていればこそ「低質」という相対的価値観が惹起されるのであって、必ずしも「ただの変質」と断定することはできないように思います。(無論、そうであるのかもしれませんが)
つまり、お言葉を拝借すれば、平均点自体は一定しているように見えるが、課題自体の質は次第に挙がっていく可能性も捨てきれないのではないか、といったところでしょうか。
 
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この回答へのお礼

自浄努力ということはあるんでしょうね。ただ、やはり「高質」を求めてはいても、しゃかいの総体として低質な方向に戻されざるを得ないのではないかと感じています。

お礼日時:2007/11/06 08:56

 いじめは、人間存在の生物的・社会的・経済的差異にもとづきます。

人間がかりにまったく同じで、身なりもかたちも境遇も生き方も同じであるとするならば、いじめは不可能です。いじめる要因が見あたらない、いじめることは同等に自分へとかえってくることになってしまいます。

 ブサイク、陰気、貧乏など、ともかく人間のいじめは自分とは違う他者の高度な認識に基づいています。そこに好奇心や優越心、プライド、占有欲など、いろんなものがからみ、いじめを発動していると思われます。
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この回答へのお礼

まったくそう思います。人間が等しく同質だとしたら、いじめは消滅するのでしょう。その代わり、電位差のようなものがなく、社会はちっとも動かないかも知れず、いまだに世界文明の時代からずっと不変かもしれません。
自分より劣っているものを作り出すというか、優越感を満たすという欲望というものは、実は健康な形で発動すれば有意義でありまた必要なのかもしれません。

お礼日時:2007/11/02 08:38

#10です。



>「明」といものは、マジョリティにはなりません。
:なるほど。
俄かには否定しがたい事実であるのかもしれません。
しかし、蟻の一歩づつでも変革はされていくだろうと私は思います。

適切な例かどうかはわかりませんが、例えば黒人に対する差別意識。
あるいは中国の方や韓国の方に対する差別意識。
garcon2000さんはお持ちでしょうか?
確かに未だに偏見を持つ人はいるでしょうがかなりの少数派になっているでしょうし、私の小さかった頃の風潮に比べると言葉通りまさに隔世の感があります。
今、彼らに対する差別を口にする者がいれば顰蹙を買うことになるのはまず間違いないのではないでしょうか。
これは良い意味でのグローバリズム効果でもあるのでしょうが、様々な人々の勇気ある先駆的言動・思想の集積がもたらした結果であろうと感じています。
マイノリテイがマジョリティになり、またその逆もある。
自分の認識する世界の内部に他者が存在する以上、他者の幸福なくして自己のみの幸福というものはあり得ない、ということが現実的対処を伴なって理解される日がいずれは来るものと私は考えます。
 
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この回答へのお礼

黒人とかアジア人種に対する偏見というのは、だんだんグローバル化して改善されてますよね。それは、彼らの実績なども認められてきたし、それを包む意識も変わってきたということだと思います。

しかし、どうもその世の中世の中で、歴史的推移はあったとしても、全体として「低質」なものというものは、常にマジョリティを閉めるのではないでしょうか。つまり、社会の総体の質は、平均点といってもいいかもしれませんが、それは変動しない。社会的質は変化して、それが質の向上に思えるかもしれないのが、実はそうではなく、ただの変質なのではないかと。

たとえば、そういう差別意識は改善されうとしても、低質インターネットの氾濫とか、無益なゲーム、空虚なマネーゲームそういうものが大勢を占めていく文化。文学の大衆化?無責任の社会風潮など、どうしても質全体が向上するわけには行かないんじゃないですか。また、その法則こそが、人間社会を駆動していく動力なのかもしれないです。

お礼日時:2007/11/01 09:47

異質なものや苦悩を排除しようとするのは本能だと思いますが、人間は本能(遺伝情報)と未知数の脳があります。



回避と接近の狭間で葛藤することがあり感情が逆像になることもありますし(ショックで笑う等)

親しみを抱きたいが為に、不安を安心に転化して接近するのに意のままになる相手を欲したり。

加害者は被害者より先行して被害者意識を持つことは確かです。
加害者を演じ救われる自分は寛大になりたくて、無理をしてでも被害者を抱えるのではないかと思います。

人間関係を求めている=疎外感から逃亡するという意志が不幸に安心するようなことになるのではないでしょうか。

過去が不幸であっても今幸せなら懐かしいで済め、語るのも苦痛ではないものになるのですが、
輝かしい過去があり今不幸となると、苦悩ないような人の存在は辛いものになります。

ずっとどん底人生という人の方がささやかな幸せを積み重ねて噛みしめて育つので、大きな不幸に対しても「喜びの深さ」ほど不幸の味を占めないものだと思いますけれども。
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この回答へのお礼

人間の心は一筋縄でいかないですから、いろいろな雑多なものが混ぜ合わさって形作られているものですから、理屈で説明しようというところにそもそも無理があります。今の幸せというものが一番大事なんでしょうけども。

お礼日時:2007/10/29 22:55

NO.7です


基本的にいじめというのは主観流動性によって起こると考えていいと
思います。
例えばビニールのプチプチありますよね?あれなんか潰して見たい
と思ったことありませんか?
じゃあもし法律でプチプチを潰してはいけないとなっているならば
きっと潰さないでしょう。
よく日本人は他人に気を使うといいますが僕は違うと思います
結局日本人はその場(空気)の対応で動いているのではないかと思います。
それが昔ははたから見たら相手を尊重するいい人ですねとなっているのでは
ないかと思います。
話を戻しますがいじめをする人というのは一つはプチプチを潰したいと
いう衝動を抑えられないことにあるのではないかと思います。
もちろん普通なら法律で違反されているのだからそれを破ること自体
不快であり時間的変化でプチプチなんか見たくもないという精神変化を
すると思うのですがその精神変化の部分がおかしくなった状態だという
ことです。
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この回答へのお礼

心が一種の崩壊状態にあるというか、正常範囲の?狂気状態に走っているというのはありえそうですね。ホラー映画とかそういうものをわざわざ観るわけですから。私も、理性より空気で動いているのが日本人によく当てはまると感じます。多かれ少なかれ人類そうでしょうがその傾向大ということです。

お礼日時:2007/10/29 22:59

No.3です。

お礼欄の文章:
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
加害者はおそらく不幸感を内在しているであろうから、それをどうにかする必要があるとも〔思〕いますが、そのとき、ご回答のように考えることも可能です。それが実際問題として正しいかもしれない。おそらく家畜以下の存在に成り下がっているのだが、もし、その人たちの人生をリセットして、幸福感を植えつけることができれば、まず精神異常者でもない限り、攻撃性や非人間性、心の荒れというもんは消滅するものと考えています。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
おっしゃるとおりです。(確認のみです)。
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この回答へのお礼

ありがとうございます。

お礼日時:2007/10/29 23:00

哲学的でもなんでもない#6です。



排斥的ないじめの要因たる恐れというのは、本質的、すなわち無意識的(あるいは前意識的)なものと思います。
いじめる側は表面上は圧倒的な強者ですから、怖れと直接的な関連はないように見えますが、異質と感じることが排斥の始まりだと私は思うのです。
なぜ異質を排斥しようとするのかといえば、怖れしかないだろうと考えます。
「>自己の生存を何か脅かしそうな相手に対しては、警戒あるいは敵対ということに」なるのはおっしゃるとおりですが、いじめの属性は陰湿さでしょう。
なぜ陰湿になるかというと、明確で確かな理由がいじめる本人にも特定できないからだと思います。
警戒や敵対は堂々と論理に基づいて実行できる類のものでしょう。
特定できないがとりあえず遠ざけよう、あわよくば抹殺しよう、というのが(排斥タイプの)いじめの構図だろうと思われます。
社会的な(このタイプの)あらゆるいじめも含め、本質はそこにつながってくると私は考えます。
「弱い犬ほどよく吼える」と言いますが、むしろ「頭の悪い犬ほどよく吼える」いうことで、理解できない(想像力の欠如)ということがいじめにつながると述べたのは、そういった意味です。
【理由が明確ではないので「>不幸を願っている」としか思えないような形態を取る、ということではないでしょうか。】
このあたりが明瞭になることによって、いじめの心理(あるいはいじめられる側の対応)というものは変化できるものだと思います。
それには知性が要求されるでしょうが、普遍的に不可能なことでもないだろうという気はします。

挙げていただいた例に関しては、
「外敵」という認識が明確になっている場合に作る「>環濠」は警戒の一形態でしょうが、敵かどうかはわからないが何か毛色の違った奴らがウロウロしているのでとりあえず「>環濠」を掘って地域に入れないようにしよう、という発想になると不安や怖れが基盤になっているはずで、いじめの萌芽ということになるのではないかと思われます。


>基本的に、人間は幸福感に包まれていじめをすることはできないのではないかと思っています。
:同感ですね。
ただ、厄介なのは、その時点では幸福感を得られると錯覚してしまうことなのでしょう。
イラショナルビリーフの典型と言っても良いと思いますが、かように不合理な思い込みは時代を超えて各所で常時散見できるようです。
その不合理性を実感として(たとえばいじめる側に)認識してもらうためには、そういった行為が何ものももたらさないのだということを知らしめる必要があり、『毅然とした無視』がいじめに対する基本的対処と私が考えるのは、そういった意味でもあります。
また、状況によって一概には言えませんが、反駁しようとすること自体が、新たないじめを知らぬ間に生み出す場合も往々にしてあるように思われます。


キャパシティについて少し補足してみます。
「>思いやり」は確かに意志ではあるのですが、その土壌が元々不毛であれば思いやりの育ちようがありません。
土壌が荒らされているとすれば、その個人が過去に本人のキャパシティを超えるような体験(環境からの刺激)を記憶として持ってしまったためでしょう。
その体験を彼に与えたのもまた人間であるとすれば、その人間は「>その限度を知らなかった」ということに結果的になるだろうということです。
こういった意味での負の連鎖としての要素が増大すると、限度を明確に意識しつつそれを行なってしまうというケースも現われることになり、(氷山の一角でしょうが)犯罪として認識されるようになるということでしょう。
 
 
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この回答へのお礼

おっしゃる事いちいちもっともと感じます。
理性で克服する事が可能でしょうね。結局は人間の不明というものが根本にあります。不明はあらゆる悪に結びつく。私は別に仏教徒じゃありませんが、この理屈は真理です。しかし、「明」といものは、マジョリティにはなりません。この世をあきらめるべきです。

お礼日時:2007/10/29 23:09

お礼有難うございます。



マイノリティを支持するときどうしても「すべき」であるというという事態が生まれてくるという点について言及されておられますが 
「自分自身」が実は不幸な人やマイノリティとの間に実なんの境界もないという事実に気付いている人にとっては 彼らを見捨てることは自分を見捨てることだと思います。事実どうしても境界がある場合には「すべき」と言う言葉に従えばいいと思います。
>ああ、性産業。いいじゃん別に。宇宙飛行士や弁護士と変わらんよ
性産業は好きでやっている人だけじゃないということがあるから 別に扱わざる得ないという現実的な事態があると思います。
しかし自分の仕事がなんたるかを理解している人にとっては、宇宙飛行士と同じように扱ってほしいとはあえて要求しようとも思わないだろうし、放っておいてくれと私なら思うと思います。
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この回答へのお礼

境界線など存在しないという事、まさにその通りですね。それがあるかのように錯覚する事こそ「不明」のもっともたるものでしょう。そして傲慢さと無反省がある。そこにいじめが付随してくる。公徳心とか優しさ?はマジョリティにならないという法則がどうやらあるのでしょうかね。

お礼日時:2007/10/29 23:12

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