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アンラージュはサン・キュロットなんでしょうか?
ジャコバン派との関係が崩れたのは、何かきっかけがあるのでしょうか?

A 回答 (2件)

ルーは議員になったことは一度もありません。


地区のコミューン代表になった程度です。
彼のようなのは選挙では選挙人の段階で弾かれるタイプで、
ようやく93年1月の国民公会議員選挙に出馬できましたが
制限選挙だったんで彼の支持者の貧困層が投票できずに
惨敗で落選しました。
(6月にできたジャコバン憲法(93年憲法)は普通選挙制だったが、
結局、施行されなかった)
このためにルーはますます反議会活動を強めます。
6月の段階でかなり険悪な関係ですね。
そもそも”怒れる人々(アンラージュ)”という渾名は、そういう意味です。

投機取締法云々というのは、
憲法に買い占め人の死刑規定を挿入するように請願文を議会に出したということで、
取り締まるというより”殺せ”という主張なわけで、
実際、多くが商人やブルジョワあるいは、そういう知人の援助で生活していた
議員たちにすれば、とんでもない提案だったわけです。
(ジャコバン派議員の大半も中流以上の家庭の出身で、貧困者ほぼ皆無。
また議会多数派は平原(プレーヌ)派で彼らは穏健共和主義者の富裕層だった)


Provisionは文脈のなかでいろんな解釈ができるのであれですが、
世界の配給制度の多くは無料ではありません。
ソ連なんかや、戦中の日本でもそうでしたが、配給分を買う権利が与えられたり、
労働代価にクーポンのようなものが与えられるなどで、お金をつかわなくても、
実質買っているのと同じになります。
ロベスピエール派などが末期に貧民への無料配布などを主張しますが、
実現してません。
配給を行うには物資輸送をコントロールする必要がありますが、
現実には市場を介して任意で行われていたので、
安定的にそれを行うその術はもともとなかったのです。
またほとんどの政治家は自由経済思想をもっていたので、
統制することにも難色を示していました。

パリの政治家達は、穀物のパリへの流入量を確保して
なんとかパンの価格が下げ止まるように苦労していたわけで、
この主食の価格に悩まされたという点は、
日本の江戸時代とか中国の明朝とかの時代に似てます。

ルーは購入者による価格設定なる暴論を披露していたりして、
基本的には分配面だけを見て、生産や輸送についてに着目しない点が
初期の空想社会主義者的ですが、
93年はアッシニアの暴落の年で、国全体が疲弊していました。
大都市パリは食糧供給不足を起こし、
アンラージュやエベール派などは、パリ近隣の略奪で解決しようとしたという点で
刹那的で、常軌を逸していました。
粛清対象になったゆえんです。

ちなみに議会では許されれば、議員以外の発言もできましたし、
ジャコバンクラブと公会議場(旧室内馬術練習場)は通りを挟んで
向かい合う建物にあるので、書物を読んでいると、たまに議場がどっちか
わからなくなるので注意してください。
特に93年前後だと、クラブと公会の力関係はあんまり変わらなかったんで
クラブでの発言も公のものと見なされました。
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この回答へのお礼

とても分かり易い回答、重ねてありがとうございます。
不透明だった部分がはっきりしてきて、事の流れが掴めました。

ありがとうございました!

お礼日時:2007/12/17 17:19

サン・キュロットとは、手工業者・職人・小店主・賃金労働者の総称で、


低賃金あるいは貧困市民層をさしています。
主に左派系の議会外革命勢力を意味し、暴力的な直接行動の実行者で
様々な党派の扇動をうけてしばしば過激な行動をとりました。
パリのサン・キュロットはセクション(地区)あるいはコミューン毎に
自治組織としてまとまって行動し、それぞれの地区の主張にあう党派を支持していて、
総体として特定の派閥を支持しているわけでありません。
穏健派を支持するセクションもあれば、過激派を支持するセクションもあるわけで
革命に対する態度も温度差があり、支持する政策も違います。
セクションにはサブリーダーなるマイナーな指導者(マイヤールや、アンリオ、サンテールなどが代表的)がいて、
統率していました。

怒れる人々を意味する、アンラージュ(激昂派/過激派)という名称は
極左分子のなかの小さな一グループ名で、
主にジャック・ルーが活動したセクション(グラヴィリエ区)の市民を指しています。
グラヴィリエ地区は家内工業の盛んな町だったんで、
アンラージュの支持層は主に手工業者といわれます。
ルーはサブリーダーで、マラーの後継者を自認した人物ですが、
極左思想を広め、食料略奪の奨励(食糧挑発隊あるいは革命軍などと呼ばれた行動で農村から出荷される農産物を奪ってパリで分配した)、
最高価格の強制、アッシニヤ紙幣の不換紙幣化、直接民主制、
買占め人処刑(卸売商人の処刑)などを主張して、
公安委員会政府のやり方に反対し、議会に頼らず、直接的にこれらの政策の
実現を目指したので、秩序を重んじるロベスピエールに睨まれ、
他の左派・右派弾圧に先立って、いの一番にルーとアンラージュは粛清されました。
公安委員会はアンラージュの意見の一部をその後採用して、民意を取りれますが、
議会外行動を危険視し、権力の一本化を目指したわけです。
これは八月十日の革命前後から暴走に近い状態だったサン・キュロットの引き締め策の一環ともいえますが、
エベール派の粛清もあとでするので、サン・キュロット勢力全体として弱体化し、
ロベスピエール派は支持基盤を失って、後にテルミドールのクーデタで敵対勢力を
抑える軍事力を維持できなかったという結末をえます。

ジャコバン派ということばは、ひじょうに広い意味があるのですが、
ま、革命中期以後では、単に左派勢力を意味しています。
アンラージュもジャコバンという大きなカテゴリーのなかの一つに過ぎません。
一般に左派系のジャコバンは二派にわかれ、
会議場の名からコルドリエ派とモンターニュ派があります。
コルドリエ派のなかにアンラージュ(過激派)と矯激派(エベール派)があり、
モンターニュ派のなかに寛容派(ダントン派)とロベスピエール派があります。
ダントン派はマラーが生きていたことはコルドリエ派の主体でしたが、
だんだん右よりの政策に転換したので、同派から脱退しました。
コルドリエ派が一般に議会外勢力で、複数の勢力にまたがるマラー派もこれに含まれます。

アンラージュの代表的人物は、ジャック・ルー、 ヴァルレ、ルクレール
そして女性活動家のレオンとラコンブなどです。


さて、
アンラージュはサン・キュロット云々ではなく、アンラージュの支持者はサン・キュロットですが、
アンラージュ自体は派閥ですから、イコールになりません。
日本で例えて置き換えるなら、アンラージュが政党(ま、実際に政党じゃないですがここでは例え)、
サンキュロットは保守農家(これもあくまでもたとえ、特定の政治思想を支持する人々という意味で)にあたりますね。
アンラージュはジャコバン内派閥なんで、関係が崩れたとかそういうんじゃないです。
アンラージュの粛清以後は、いわゆる”内ゲバ”が始まりますが、
きっかけとなるのは、食糧危機・女性の参政権問題(アンラージュは唯一支持した)、暴動の賛否などです。
基本的には、暴動や略奪をなどを押さえようとした政府側と、それを扇動していると見なされた過激分子という構造です。

この回答への補足

分かりやすい回答、ありがとうございます。

更に質問させて頂きたいのですが、ジャック・ルーは国民公会の議員だったのでしょうか?
1793年憲法制定の際、「6月25日、ジャック・ルー議会は議会に現れスピーチを行い、投機取締法の制定を要求するなどして、その結果議会から放逐された」と言うがテキストや資料に出てくるのですが、この時点での議会(ジロンド派を一掃した後なのでジャコバン主体?)とルーの関係はどういうものだったんでしょう?

あと、彼のスピーチの中で、「Provision」という言葉が何度か登場するのですが、「市民の4分の3がその値段を支払うのに困難している」と出てくるのですが、買わなければいけないのなら、いわゆる配給ではないと考えていいのでしょうか?

質問が多くなってしまいましたが、よろしくお願いします!

補足日時:2007/12/14 17:09
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