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過去、この歴史カテゴリーで何度も繰り返された質問に、日本はなぜ列強の植民地にならなかったのか、というのがあります。
私見ですが、植民地化される条件としては揃い過ぎている気がします。それは下記の通りです。ですのでならなかった方が不思議なくらいです。ここまで条件が揃っていながら植民地にならなかった史実を一体どう考えたらよいのでしょうか、教えて下さい。
(1)英国はロシアの南下政策を食い止めるために極東に橋頭堡を築く必要があったのではないか。英国は香港を得たがそれより北の日本の港の方が地政学的にはより有利なのではないか。事実クリミア戦争はトルコでの不凍港を求めるロシアとそれを阻止する英国等との衝突だった。この戦争にかまけていたので極東には進出しなかったという説には疑問を感ずる。むしろ敵の背後を突く作戦もあったのでは。
(2)アヘン戦争やアロー号戦争で鉄製蒸気機関船やアームストロング砲等圧倒的な火力を有していた英国東洋艦隊をもってすれば、清よりも当時の日本を相手とする方が簡単だったのでは。薩英戦争や下関戦争では列強側の勝利に終っているし、薩英戦争ではもしフランスの仲介がなければ日本は間違いなく英国の植民地になっていた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1% …
(3)異国船打払令を出していた幕府は、アヘン戦争での清の敗戦の結果、天保13年には薪水給与令を出し、コロッと方針転換した。さらにその11年後の黒船来航により翌年には開国した。鎖国などあってなきに等しい。またこれが捕鯨基地目的の米国船でなく、英国東洋艦隊だったらどうだっただろうか。
(4)当時、日本は主に金を産出する資源国であり、英国が清の銀を狙ったのと同様、列強が日本の金を狙っていたとしても不思議はない。
(5)薩長を英国が、幕府を仏がバックアップしていたが、幕府倒壊と明治維新が早く片付いてしまったから列強が付け入る隙がなかったという説には疑問を感ずる。むしろ自分達の援助のおかげなのだから領土や港をよこせ、といいがかりを付けてきても不思議でない。アヘン戦争は、自国の密貿易という犯罪を相手国が認めないといいがかりをつけ、挙句の果てに起した戦争なのだから、列強にしてみればどんな口実でもよかったのでは。

A 回答 (13件中1~10件)

まだ回答を受け付けている様子ですので、コメントさせていただきます。



(1)日本が極東の一番東に位置したことが幸いしたのではないでしょうか?つまり、英国にとってロシアの南下政策を食い止める必要があったとはいえ、バルカン半島、黒海、イラン、インド亜大陸、中国、沿海州と並べた場合、ロシアにとっては首都に近い西側に不凍港を持ちたく、また英国の自国の利権を守る観点でも、西側に持たれることの方が悪影響が大きかったので、極東はお互いに優先順位が低かったはずです。日本にとっては、地理的な要因で近代国家に生まれ変わる時間的猶予が与えられた格好になったのではないでしょうか。

(2)火力・戦力について言えば、経済的な観点から言って割に合わなかったということではないでしょうか。1回の戦闘に圧勝しても、その後放置していれば相手は反撃のための準備をしますから、それができないよう、一定の兵力を現地か近くに常駐させる必要があります。兵力はその食事・給与、武器や戦艦はそのメンテナンスやメンテナンスを行う港の整備など、兵力維持のために必要な経費は馬鹿になりません。イギリスにとっては、アヘンの密貿易で確たる収益を上げていた中国はその経費をかけてでも維持すべき地域だったのでしょうが、日本からはそれだけの収益を上げておらず、兵力を常駐させる経済的価値がないと判断されたので、懲らしめ程度の戦闘で済んだのではないでしょうか?

(3)については、仮定の話なので答えにくいですが、(1)の地理的要因と(2)の経済的要因でイギリスにとっては艦隊を派遣して脅迫することはできても、植民地化するほど優先順位の高い地域ではなかったということなのだと思います。艦砲射撃で一方的な戦いは出来ても、それだけでは幕府および諸藩の占領はできません。(4)についても同様です。金の魅力と、その権益を得て維持し続ける(対日本と、対他欧米列強という2点において)ためにかかる兵力維持費用を天秤にかけて、割に合わないという判断だったのでしょう。

(5)については質問者様と意見が相違します。僕としては、「日本の国力(人材・技術力・経済力・情報収集&分析力)が(意外にも)強かったために、欧米の理不尽な要求に対して不平等条約下でも植民地化されなかった」と思っていますが、戊辰戦争における幕府と新政府における消耗が少なくすんだことも、国力維持に大きく貢献したと思います。

また、日本対イギリスという1対1の関係だけでは厳しかったでしょうが、欧米同士で牽制し合っていた状況も無視できません。薩長に肩入れしたイギリスがもし領土割譲などの理不尽な要求をした場合、新政府はフランスやアメリカやロシアに、「武器調達などのイギリスとの取引を止めてあなたと取引してあげるから、イギリスの横暴に対抗してくれ。」と持ちかけることもできたでしょう。アヘン戦争について詳しくは分かりませんが、あんな言いがかりをつけても他の欧米列強が直接介入をしてこないという裏を取った上での行動だったと思います。

この回答への補足

この様な状況下では、仮に正確な情報が存在していたとしても的確な情報分析が行えたかどうかは疑問ですし、少なくとも組織の末端に至るまで、外交上の重要な意思決定とそのプロセスが正確に伝達されていたとは言い難い状況にあったのではないでしょうか。

補足日時:2008/01/19 23:43
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。非常に理路整然としたご説明で、お蔭様でだんだん分かってきました。

疑問点が2つあります。まず、(2)で、回答者様のおっしゃる「懲らしめ程度の戦闘で済んだ」との点です。回答者様は私が質問文に掲げておいた、Wikipediaの薩英戦争のページはお読みになられましたでしょうか?確かに現実には薩英戦争は回答者様のおっしゃる通り「懲らしめ程度の戦闘」で終結したわけですが、そこに記されている英国側の軍事戦略(但し実行は断念)を読む限りにおいて、英国はまさに「本気で」戦闘をすることも考えていたようです。すなわち、関門海峡、大坂湾、江戸湾の封鎖による日本の海上封鎖と、京都、大坂、江戸占領計画があったということです。もっとも最後にある、天皇や将軍を別の場所に移してゲリラ戦になることを想定して断念したという記述は、私にはあまり説得力がないように感じますが、それはさて置き、懲らしめ程度の戦闘で終結したのはあくまでも結果論であって、薩英戦争や、さらに詳しく言うならばその契機となった生麦事件や東禅寺襲撃事件を契機として本格的な日英戦争の勃発とその結果としての植民地支配という可能性はゼロとは言い難かったのではないでしょうか。

次に、(5)で「日本の国力……が…強かった」と回答者様はおっしゃっていますが、果たしてそうであったかは疑問です。ご存知の様に当時は尊皇攘夷派と開国派で国論が二分されていました。もし日本国民全員が、あるいは少なくとも政治支配階層である武士・貴族の全員が海外の情勢に精通していたならば、例えば全員が勝海舟並の知識を有していたならば、少なくとも攘夷などという無茶な考え方は出なかったのでは、というのが私の考えです。井伊直弼も桜田門外の変で暗殺されることなどなかったでしょう。例えば孝明天皇は攘夷派でしたが、それは異国人とはどのような人種かというご下問に対し、側近が、娘の生き血を飲む(実際はワインを飲むことなのですが)人間でございますと答えたのを真に受けていたためだと言われています。当時は一握りの人間に情報が偏在していていたとしか考えられません。

(字数制限の関係でこの欄に書ききれませんでしたので、補足欄に続きを書きました。)

お礼日時:2008/01/19 23:43

No.12です。


コメントありがとうございました。

疑問点についてですが、まず最初の疑問点について言えば、確かに質問者様の仰るとおり、あくまで結果として「懲らしめ程度の戦闘」で済んだことは事実だと思います。

そもそも、軍隊を動かして軍事行動を起こすことは、(1)補給(2)武器弾薬燃料などの消耗(3)武器や艦船のメンテナンスなど、実際にはかなりの経費がかかる上に、他国を刺激することにより政治的な負担も増すので、そんなに簡単にはできません。結果としては「懲らしめ程度」で済みましたが、軍隊を動かすという重大な意思決定をした時点でイギリスが「本格的な占領」も検討していたことはある意味当然だったと思います。

ところが、結果的に「懲らしめ程度の戦闘」で済んでしまったことは、僕にとっては必然だと思っています。一つには、Wikipediaにもあるとおり、フランスの介入があったこと。やはり極東の小さな島国とは言え、ここをイギリスが独占的に植民地支配することは、フランス初め他の欧米列強にとっては歓迎せざることでしたので、実際に占領作戦に発展していれば他国からイギリスへの妨害はあったかもしれませんし、幕府や後の新政府となる雄藩が史実では後に買い揃えた軍艦をこのタイミングで他国から買い漁ったかも知れません。(もちろん、十分な資金がなくて領土割譲を条件に軍艦の引渡しなどが取引されれば、それこそ植民地化への第一歩だったかもしれませんが。)

実際にイギリスは陸軍を動員しての占領作戦は難しいと判断しているようですが、戦争を仕掛けるにはあらゆるケースを想定しないといけませんから、極東までの兵士・物資の補給にかかる経費(特に長期戦になった場合)、他国の干渉の可能性まで考えれば判断は妥当だったと思います。


次の疑問については、尊皇攘夷の時代だけというよりは、開国から明治維新、日清戦争までの比較的長い期間を想定してコメントをしておりました。

開国当時の世論は攘夷だったように、日本全体が常に正しい状況判断をしてミスを犯さずにやってこれたとは思いません。ただ、Wikipediaのとおり薩英戦争も薩摩藩と幕府の出方次第では本格的な戦争になりかねないところ、フランスの介入を受け入れて賠償に応じたりと、要所要所での致命的な判断ミスはしていません。

そもそも、欧米とつながりの薄かったインド以東のアジア諸国(清・朝鮮・アチェーなどの東南アジアしかり)は、欧米に接触された時にまず攘夷(排斥)の反応を示したので、長らく鎖国をしていた日本が最初に攘夷に沸き立ったのも自然な反応だったろうと思います。むしろ、事情を知らない大多数が感情的に外人を排斥したがるなか、そこから融和策に転じることが幕府・薩長ともできたあたりにリーダー層の資質の高さを感じますし、一部のリーダー層の決断でしかなかった開国策を結局は日本全体が受け入れた柔軟性に底力を感じます。(結局、清は政府のみ開国できたが、民衆は太平天国や後の義和団のようにそれを受け入れられず、朝鮮は政府から民衆に至るまで受け入れられませんでしたよね。)


もちろん、日本の優秀さをことさら主張するつもりもないので、(1)地理的に列強にとって優先順位が低かった、(2)日本が単体で列強に抵抗できるほどの力はなかったものの、列強間のパワーバランスを踏まえた国際政治のなかで、かろうじて独立を維持できるだけの力はもっていた。さらに、(幕府から薩長に至る)支配者層は内紛の最中にあってさえ独立の維持に心を砕いたことが大きかったのではないかと思います。


ここからは蛇足ですが、国力とくに経済力としては、会社と同じくヒト、モノ、カネ、情報の4要素の流通自由度によると考えています。幕末から明治維新の日本について言えば、産業革命を果たした欧米とは比較になりませんが、産業革命前後の社会としては相当高いレベルにあったと思います。

ヒト:幕末時は、身分制がありながらもお金があれば武士と同格になれたり、他藩との商売も比較的自由に行えた。おそらく当時の中国やインドなどよりははるかに身分と移動の自由があったと思われます。また、明治維新では完全に身分と行き来の自由が保障されました。

モノ:鎖国によって対外貿易が限定されていたため、当時世界最大の都市、江戸(しかも大半は武士・町人で自給自足ではない)の100万人を食わすための生産と流通が国内だけで行われていた。産業革命前の生産能力・流通能力としてはかなり高い水準にあったと思います。

カネ:質問者様も仰るとおり、日本は金銀の産出量が多く、しかもその海外流出を防ぐために鎖国をしていたので、国内には大量の金銀が溜め込まれていました。また、流通の面からも江戸100万人の毎日の食事や生活は自給自足ではなく、売買取引によって支えられていたり、米に至っては世界で初めて先物取引までされていたくらいなので、貨幣経済の浸透具合という点でも高水準であったと思います。

情報:当時の識字率の高さは恐らく世界でも1,2を争う水準だったことは良く知られています。情報の流通力は、識字率に比例して高かったと思います。


結論として、僕は幕末から明治維新の日本が、技術と政治制度において前近代的ではあっても、社会基盤としてはむしろ欧米と遜色ない(もしくは一部欧米を上回る)近代性を既に有していたため、あれだけ致命的な技術と生産力の差がありながら(しかも関税自主権や治外法権などの不平等な立場に置かれてなお)、国力としては植民地化されない程度に高かったのだと考えています。

この回答への補足

さて、冒頭に、疑問はほぼ解明された、と記しましたが、実はまだ解けないことがあります。回答者様の記述に、「幕府・薩長ともできたあたりにリーダー層の資質の高さを感じます」とありますが、それは具体的に誰であったか、ということです。

大政奉還した徳川慶喜か、江戸城無血開城の会談を行った勝海舟か、西郷隆盛か、それとも大久保利通か。あるいは明治の元勲と言われる伊藤博文、木戸孝允、山県有朋か。もしそうだとすれば、彼らを松下村塾で指導した吉田松陰か。

司馬遼太郎の『龍馬がゆく』に出てくるところで、勝海舟を切りに行こうとした坂本龍馬が勝海舟の教えを受け、逆に弟子にして下さいと頼み込む有名な箇所がありますが、坂本龍馬のことなのでしょうか。

少なくともその人物は、日本国内だけでなく海外の事情にも通じていたことは間違いありません。長期の内乱・消耗戦を避け、さらに列強の餌食(植民地化)となることを避けることが常に念頭にあり、しかもその信念に基づいてそのような政治的判断を下せた人物とは一体誰なのでしょうか。

ただ、これは別の質問となってしまいますので、一旦、本質問は締め切らせて頂きます。別の質問を立てますので、もし宜しければ、またコメントして頂けますと幸甚です。

補足日時:2008/01/20 23:52
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。ロジックがとてもしっかりいるご説明のお蔭で、ようやく疑問はほぼ解明されました。改めてお礼を申し上げます。些少ですが、感謝の意を込めてポイントを差し上げますので、ご査収下さいませ。

また、前回の私の2つ目の疑問点に関しては、時系列としては10~15年位のズレがあり、明治維新直後の時点のことを質問しておきながら、幕末の史実を持ち出してしまい、正確性に欠ける記述になっていましたが、それもきちんとフォローして頂き、改めて感謝致します。あそこは本当は頭の中では明治維新直後のことを想定していたのですが、その資料がなく、むしろ幕末の方が詳細な資料がありましたので、それを持ち出し、その後で、明治維新直後に幕末の世論というか国論というか、そういうものがそんなにドラスティックに変化した筈はない、という説明を書き加えるべきでしたが、いつの間にか書いているうちに失念してしまいました。

ドラスティックに変化した筈はない、と考える理由ですが、それは明治維新直後の日本と太平洋戦争での敗北直後の日本とを比較してみれば容易にお分かり頂けるものと思われます。後者では完膚なきまでに旧勢力・体制が叩きのめされてしまったのに対し、戊辰戦争では、もちろん局地的には北越戦争や東北戦争など激しい戦いはあっても、日本全土が焦土となるようなことはありませんでした。回答者様の言葉を拝借すれば、まさに「戊辰戦争における幕府と新政府における消耗が少なくすんだ」ということになりましょう。ですから、明治維新直後においては旧勢力・体制がまだまだ息づいていたのではないか、と考えられるわけです。

それが現実のものとなったのが西南戦争であると考えています。これは一般には不平士族の反乱と解釈されていますが、例えば薩摩にいじめられた元会津藩士が新政府側につき、会津抜刀隊として田原坂の戦いで壮絶な戦いを行った一方、西郷から寛大な処分を受けた元庄内藩士の多くが西郷に付き従ったのが一例です。これはまだまだ旧来の武士階級が残存し、クーデターを引き起こしたことを物語るものと言えなくはないでしょうか。しかし、太平洋戦争後、確かに一部の陸軍将校がクーデターを引き起こそうとした動きはあっても結局未遂に終りました。

(この欄に書ききれませんでしたので、続きは補足欄に書いておきました。)

お礼日時:2008/01/20 23:52

>それだけ魅力的な国ならぜひわがものとしたい、と思う所有欲は働かなかったのでしょうか。

例えばかつてマルコ・ポーロが黄金の国ジパングとして紹介したことは、既に列強の中で知らぬ者はいなかったと思います

訪れた外国人達に日本人に対する警戒と敬意とが混じった感情を起こさせる何かを日本人が持っていたことが植民地化しようとする心を萎えさせたに違いないと思います。ここにペリーが書送った手紙を引用しておきます。

『日本人の手工業者達は世界のどこの手工業者達にも劣らず熟練している。政府の方針が弛められるとすれば、この国をたちまち世界の最も恵まれた国々と並ぶ水準までに押し上げることであろう。ひとたび、文明世界の過去および現在の技術等を有したならば、日本人は将来における機械工業の成功を目指す競争に、強力な競争相手として登場するであろう』

 早坂隆 世界の日本人ジョーク集 中公新書 pp91
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/01/18 23:26

出来れば、Wikipediaで部分的な勉強だけはやめてほしい。



ボストン茶事件や、茶にまつわる事件。
清の鎖国の状態、お茶の輸入、権利の歴史
アジアの独占貿易権の喪失など。

どう見ても、10年前後の目先の状態としか見てはいない。

イフと局地的な現状と情報。

これを言えば、
関ヶ原は西軍が勝つのは常識です。
太平洋戦争はミッドウエー以前なら日本が勝ちます。

問題は勝ち負けではありません。
そうなった理由と負けた理由が最も大切です。

※何故、日本は独立を守れたか?
これが最も重要です。

もしこうだったら日本は勝っていた戦争ヲタと、
植民地ヲタはほぼ同格に思えますよ。

イフは歴史に不要な物です。
真実(歴史)はひとつです。5個も6個もありません。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/01/18 23:25

No.2です。


 「国土のでかい」と短絡的に書いてしまったのもいけなかったのですが、明らかに清の方が大国で利権的な魅力が清の方が強かったということです。列強も日本も、日清戦争の頃まで「眠れる獅子」だと思ってたわけですよね。少なくとも私はそう教わりましたが。。。オーストラリアやニュージーランドとは植民地になったときの背景(両国が植民地化された時点での民度など)が、この時のアジアの状況とあまりに違いすぎるので比べてもしょうがないですよね。
 
 アヘン戦争を片付けてその足で日本にやってくることが可能か云々ですが、イギリス人はそこまで日本人をなめていなかったってことじゃないですか?例えば、日本が未開の地であるならいざしらず、弱体化してるとは言え単一の国家があるわけで、遠い異国の地で二つの国を相手に戦いを続けるとは思えませんが。。。

 天皇制については、私はイギリス側の主観で言ったつもりは毛頭なくて、、、。質問者様のおっしゃるようイギリスからすれば、中国の皇帝も天皇もさほど変わらないでしょうが、日本人的な視点からすれば、中国の皇帝と日本の天皇制は大きく違いますよ。中国の皇帝は皇帝が変わると王朝が変わりますが、日本においてそういうことはないですよね。時に天皇が権力闘争をしたり権力の道具でしか過ぎない時代があったにせよ、長い間、日本においては天皇制の下で覇権を争ってきたという歴史がありませんか?「大政奉還」なんて概念は日本独自のものだと思っていたのですが、世界には多々ある事例なんでしょうか?仮に大政奉還なんて考えず朝廷の権威などまるでないのであれば、そんなに話はこじれなかったかもしれませんが、こういう概念があったからこそ植民地にはならずにすんだと思っています。
 質問者様のご質問の内容の答えは、やはり考え方や捉え方のような気がしてなりません。いずれにせよ、ご質問に対する私のアドバイスであり私の意見です。それをどうとらえるかは質問者次第です。議論をするつもりは毛頭ありませんので、気に入らなければ無視してください。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

お礼日時:2008/01/18 23:24

 No.5です。

ご質問に答えて。

 薩摩・長州は、無償でイギリスの武器援助を受けたわけではありません。ライフル銃の代金をきちんと払っています。借金などで武器援助を受けた場合でも、事前に交渉して条件を決めます。

 インドの場合、そうした武器の売却の条件として、徴税権などを奪われ(17世紀のインドは、藩王国と言って、日本の江戸時代と同じように、ムガール帝国の下に多くの王様が居て、各地方・都市などを支配していました。その各王国の内乱や隣接する領主との争いに、イギリスから武器を借金で買い、その借金の見返りに領地での徴税権を担保に取られたのです。)、植民地化されました。

 日本も、幕府と薩摩・長州との戦いが長引けば、武器・弾薬はどんどん消費していきますから、代金を払えなくなり、借金と言うことになります。そうすると、質問者さんの言うように、日本の土地の割譲・租借・徴税権などを担保にしなければならなくなります。

 しかし、日本の場合、15代将軍徳川慶喜が大政奉還をし、幕府軍が江戸に迫ると水戸に移って、交戦を回避します。
 残った幕臣の大多数も、勝海舟と西郷隆盛の会談の合意に従って、江戸城を明け渡します。(江戸城無血開城)
 
 結局、幕府根拠地は、上野の彰義隊との交戦のみで、1日で終わっています。

 幕府の主戦派、小栗上野介は「幕府海軍(ペリー来航以後、幕府は財政を傾けてヨーロッパ列強から軍艦を購入、イギリス・フランスも一目置くほどの戦力を持っていました。)によって、東海道の海上を封鎖し、江戸に入った薩摩・長州軍の補給を断てば、負けはない。」と断言しています。
 数千の軍が毎日消費する物資は相当量にのぼり、関東に拠点を持つ幕府側が、決戦を回避して消耗戦に移れば、関東に入った薩摩・長州軍の戦闘力は長期間維持できないことは明らかで(関西から関東への侵攻費用は大阪商人からの借金でまかなっていて、維新政府にはほとんどお金がありませんでした。)、軍事戦略の観点のみから見れば、正しい判断と言えます。

 ただ、この案は長期の内乱・消耗戦になることを意味し、日本国内の経済が疲弊し、幕府が勝っても、薩摩長州が勝っても、事実上ヨーロッパの支配下にはいることを意味しました。
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

疑問点が2つあります。まず、回答者様のおっしゃる「日本も、幕府と薩摩・長州との戦いが長引けば」の内戦とは、いつから開始された戦いのことでしょうか?私が考えるものとしては、下記の4つの事件あるいは戦争とするものです。それぞれの開始年を記しておきました。

(1)八月十八日の政変(文久の政変) 1863年(文久3年)
(2)禁門の変(蛤御門の変) 1864年(元治元年)
(3)長州征討 同年
(4)戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い~甲府・勝沼の戦い~江戸開城~市川・船橋戦争~宇都宮城の戦い~上野戦争~東北戦争~北越戦争~会津戦争~箱館戦争) 1868年(慶応4年/明治元年)

仮に戊辰戦争のみを内戦であるとすれば、これは1869年(明治2年)に終結していますから、確かに2年と内戦期間としては圧倒的に短くなります。しかし、(1)の八月十八日の政変とすれば(但しこの時はまだ薩摩と長州は反目していた)、終結まで7年を要したことになり、それほど短いとは言い難いと思われます。もっともこれはさほど大きな問題ではなく、細かいことではあるのですが。

次に、長期の内乱・消耗戦を避け、さらに列強の餌食(植民地化)となることを避けるという政治的判断を下したのは一体誰か、ということがあります。大政奉還した徳川慶喜か、あるいは江戸城無血開城の会談を行った勝海舟か、それとも西郷隆盛か、はたまた別の人物か。少なくともその人物は、日本国内だけでなく海外の事情にも通じていたことは間違いありません。そこが明確には分かりませんので、ぜひ教えて頂きたいのです。

お礼日時:2008/01/18 23:23

そうだね。


イギリス議会での承認が得られなければ戦争は出来ません。
もう少し「歴史」を勉強すべきでしょう。

オランダはフランスの属国状態からようやく独立したばかりです。
つまり、間接的に幕府は対フランス貿易をしていたのです。

オランダ→フランスのパイプ、または最貿易の利権など、
理由は強いです。

また、アロー戦争(アヘン戦争)のイギリス、フランスの1ヶ国を味方に付けたと言う事は、外交上の勝利とも言えます。

ここで、
フランスと友好的なアメリカも味方に付ける事が可能となります。

また、幕府軍艦も、オランダ製から、
アメリカ製、プロシア製でイギリス改修するなど
諸外国の利益の見通しは明るい物でした。

いきなり戦争を起こした訳ではありません。

インドの場合、紅茶による大幅な貿易赤字が問題になった。
やむを得ない事情があったのです。

アヘン戦争も貿易赤字が引き金です。
実質、清はイギリスが買ってほしい工業製品は
何も買わなかったのです。

こんな恥さらしの戦争は無い。(後の首相の言葉)
9票差で戦争に突入します。

はっきり言ってしまえば、
生き残るにはイギリスの蒸気機関、戦艦をどんどん買えば良いのです。
相談すれば外国に対して交渉もしてくれます。

この回答への補足

>インドの場合、紅茶による大幅な貿易赤字が問題
>アヘン戦争も貿易赤字が引き金
>こんな恥さらしの戦争は無い。(後の首相の言葉)

これは私も知っています。後の首相がグラッドストンであることも。ただ、現代の様に外国為替市場があるわけでも、国連やサミットやG8があるわけでもないこの時代、貿易赤字がいかなる意味を持っていたのでしょうか。これは英国にとっての借金だったわけで、借金は返済するもの、というのが現代から見ればまともな人間の感覚の持ち主なら、それを戦争で帳消しにしようとした、グラッドストンに恥さらしと罵られた戦争賛成者達も、現代から見れば変人でも当時の英国内ではまともな人間だったのではないでしょうか。

回答者様は言及されていませんが、対日貿易では貿易赤字がなかった、だから戦争ひいては植民地化には至らなかった、という結論なのでしょうか。ただ、戦争や植民地化を全て貿易赤字という経済問題に帰するお考えに対してはいささか疑念を抱かざるを得ません。

前にも述べましたが、この時代における貿易赤字(経済問題)の持つ重要性が現代ほど感じられないからです。確かに引き金の1つにはなり得ても、他にも重要な要素があったのではないでしょうか。地政学的リスクもその1つで、別にクリミア戦争は英国(とフランス等)とロシアとの間に貿易赤字があったわけではありません。

補足日時:2008/01/17 18:25
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

Wikipediaの「オランダの歴史」のページから、フランス(一部英国)のオランダ支配の歴史を抜粋してみました。
1793年~1806年、バタヴィア共和国
1806年~1810年、ホラント王国(国王ルイ・ボナパルト)
1810年~1813年、フランス帝国直轄領
1813年 ネーデルラント連合王国成立(現在のネーデルラント王国に至る)
確かにこうして見てみますと、1793年のバタヴィア共和国成立から1813年のネーデルラント連合王国成立までの20年間、フランスの支配下にあったことが分かります。このことから、回答者様の「間接的に幕府は対フランス貿易をしていた」というご指摘は当を得ていると思われます。ただ、独立からアヘン戦争までは30年弱、黒船来航までは実に40年間あるわけです。ですから「オランダはフランスの属国状態からようやく独立したばかり」という回答者様のコメントに対しては少々疑念を抱かざるを得ません。

では、仏蘭関係はどうだったかというと、これに関する記述がないので、あくまでも推測の域を出ませんが、結論から言えば必ずしも良好とは言い難かったのではと思われます。と言いますのも、まずバタヴィア共和国成立の経緯が、フランスの啓蒙思想がオランダに入ったことによって、それまで代々ネーデルラント連邦共和国の統領職を務めていたオラニエ=ナッサウ家に対する反感が生まれ、フランス革命軍の侵入と地元革命派によって成立したものだからです。このオラニエ=ナッサウ家が1813年のナポレオン帝国崩壊と共に成立したネーデルラント連合王国で返り咲いたわけですから、少なくともオラニエ=ナッサウ家にとってフランスは自分達をオランダから追い出した、いわば敵のような存在だったと想像するに難くありません。

(この欄に書ききれませんでしたので、続きは補足欄に書きました。)

お礼日時:2008/01/17 18:23

もっと勉強しましょう。

また時系列がぐちゃぐちゃすぎです

1・香港は中国植民地化の足がかりであってロシアとは関係ありません
2・アームストロング砲のデビューは薩英戦争ですが、結果は全て直ぐに壊れて使い物にならなかったです。薩英戦争は英国の記録では輝かしい大英帝国海軍の汚点と記録されています。クーパー提督は英国本土に召喚されて査問されたほどです。また生麦事件に関する賠償金は幕府も薩摩(幕府から250年ローンで借りたのですが)も現金払いをしています。幕府の払ったお金が薩英戦争で英軍敗北の要因の一つだったりするのですが
3・英国だったとしても同じ結果というよりも日本の近代化が早かったでしょうね。英国の新型銃が直ぐに入ってきますので。あなたはペリーの遠征記その他は読まれましたか?日本は半年前にペリーが来ることを知っていましたし、オランダから外国との窓口は広げるべきという助言を受けています。一方ペリーは日本に来てみたら自分の軍艦の数よりも多い大砲を突きつけられ、自分の持ってきた海兵隊よりもレベルの高い洋式軍隊を浦賀奉行が持っていてびっくりしたそうです。1852年頃の英国海軍は列強でもっとも旧式な海軍といわれるほどの状態ですが。
4・狙いましたけど。日本のメキシコドル→小判→メキシコドルと為替交換すると何故かお金が貯まります。これで流出した小判は6トンです。
5・明治初頭に日本にあった大砲と洋式銃の数はご存知ですか?当時の米国は2万人ほどの軍隊しかないのに20万の鉄砲と1000門以上の大砲です。それもオランダ・フランス・英国の教科書をベースに作った最新鋭の軍隊がこの数です。英国にこれだけの軍隊があるのですか?当時の英軍は100個連隊10万人時代ですよ。

この回答への補足

>日本の近代化が早かったでしょうね。英国の新型銃が直ぐに入ってきますので。…1852年頃の英国海軍は列強でもっとも旧式な海軍

ここがよく分からないのですが。結局、英国海軍は旧式な武装でしかない→その英国から新型銃が直ぐに輸入されてくる→英国海軍に対し、英国製の銃で応戦すれば勝てる?ということでしょうか。何か昔の中国の「矛盾」という言葉の語源になった「矛」と「盾」みたいで、よく理解できません。それと日本の近代化とがどう結び付くのかということも分かりませんので、お手数ですがご説明をお願いします。

>あなたはペリーの遠征記その他は読まれましたか?……自分の持ってきた海兵隊よりもレベルの高い洋式軍隊を浦賀奉行が持っていてびっくりしたそうです。

これも私の知らない知識でした。Wikipediaの黒船来航のページにもここまでの記述はありません。ただ、仮にそこまで幕府の武装が強力なものであれば、今度は何故に不平等条約を結んでしまったのかという疑問が湧きます。が、今回の質問からは外れることですので、これはいずれ別の形で質問させて頂くことにします。

>明治初頭に日本にあった大砲と洋式銃の数はご存知ですか?

存じません。一体どれほどだったのですか?それと気になるのは性能面です。Wikipediaの下関戦争の記述によれば、四カ国連合艦隊は長州藩の大砲の射程距離の及ばないところを航行した、とあります。もちろん当時の長州藩はまだ英国の軍事技術を導入する前ですから、その後の明治新政府における長州の軍隊と比較するのはナンセンスでしょうが、大砲の射程距離は列強の軍艦に届いて撃沈させるほど伸びたのでしょうか。また、その洋式銃はどこから輸入していたのでしょうか(おそらくまだ国産のものはないと思われますので)。回答者様のご説明では、当時の英国軍は最も旧式とありましたから、もし仮に下関戦争の延長でまだ英国から軍事技術を導入していたとしたら、数だけ揃えても性能は非常に劣るものだった、ということになりはしないでしょうか。もっとも英国製の銃で英国軍に立ち向かうことになれば、少なくとも英国の植民地になることはなかったでしょうけれど。

補足日時:2008/01/17 15:54
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この回答へのお礼

ご回答及びご指摘ありがとうございます。

>時系列がぐちゃぐちゃすぎ

はい、ご指摘の通りです。が、歴史の教科書を書くわけでなく、疑問点を箇条書きにするために論旨の展開を重視したため、結果として時代が前後してしまいました。その点はご容赦下さい。

>香港は中国植民地化の足がかりであってロシアとは関係ありません

これは字数制限の関係で質問文の表現が舌足らずなものになってしまったために、私の言わんとしたことが十分に伝わっていませんでした。申し訳ありません。香港が中国植民地化の足がかりであることを否定するつもりはありません。私が考えていたのは、その後の極東政策を英国はどう考えていたか、ということです。果たして中国を手中に収めるだけでよしとしたのか。それともロシアの南下政策に対し何らかの手立てを講じておくということは考えなかったのか。私は後者の考えに基づいています。クリミア戦争を持ち出したのもそのためです。7つの海を制覇していた英国が、極東でむざむざロシアに不凍港を渡してもよいと考えていたかどうか。もっともその後、沿海州を取られてしまいますが。

>アームストロング砲の…結果は全て直ぐに壊れて使い物にならなかった

それは初めて知りました。質問文に載せておいたWikipediaの薩英戦争の記述には、薩摩側の死傷者は少なかったが物的被害は甚大、とありましたから、威力は凄まじかったのだと思っていました。また、随分前にテレビ番組で、従来の大砲の弾は球形なのに対しアームストロング砲の弾は先端が尖っていて、従来の大砲より射程距離も長い、という説明を観たことがありましたので、アームストロング砲というのは当時の最新鋭の兵器だと思っていました。

>幕府の払ったお金が薩英戦争で英軍敗北の要因の一つだったりするのですが

ここの箇所が私には理解できませんので、もう少し詳しいご説明をお願いします。

(字数制限の関係上、この欄に書ききれませんでしたので、続きは補足欄に書きました。)

お礼日時:2008/01/17 15:20

 イギリスは、インドを植民地化するのに100年以上掛かっています。

その完成は、ほぼ明治維新の頃です。
1623年アンボイナ事件 
1877年イギリス領インド帝国(皇帝=英ビクトリア女王)成立 
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AE% …

 何故、100年以上も掛かったかと言うと、アジアのように人口の多い土地では、「軍隊で陸上を制圧する」ことが出来なかったからです。
(イギリス本土の人口は、2000万程度。これでは多くても総兵力は50万以下。当時ヨーロッパでは戦争続き。主力を本国に置いた上に、残りで世界中の拠点を守るのですから、アジアに居るイギリス軍人は、数万程度。)
 
 そのため、海軍によって制海権を確保し、貿易・金融による経済支配を行い、内乱などの際には、兵器・資金を供給する代わりに、税金徴収権を担保にとるなどして、徐々に実質的支配権を確立していきました。

 インドの完全支配は、1857年~1859年のセポイの乱の結果で、中国・日本はそれまでのアジア各地と同様、植民地化・権益確保の対象となっていました。
(日本とは不平等条約を締結。)
1860年以降は、イギリスも極東(日本・中国)に、軍事力を行使できる体制が出来ましたから、植民地にならなかったのは、江戸末期~明治の時代の日本人の和平努力の結果です。

 明治維新において、幕府が徹底抗戦していれば内乱が長引きます。幕府をフランスが援助し、イギリスが薩摩・長州を援助した結果、泥沼の長期に渡る戦いとなり、どちらが勝っても、その後借金の返済に追われて、国民教育・産業振興・軍艦の購入などは全く出来なくなり、インドのように植民地化(フランス・イギリスどちらかは分かりませんが)されたはずです。 
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

コメントに書かれている「江戸末期~明治の時代の日本人の和平努力」というのは具体的にどのようなものですか。

また、最後のパラグラフに書かれていることが私には理解できない、と質問文にも書きましたが、字数制限の関係で舌足らずなものになってしまいました、申し訳ありません。要するに、例えば英国であれば、「我が国の支援で幕府を倒せたのだ、その代償をよこせ」と明治新政府に対して要求できるわけですし、そこで見返りとして領土なり港を求めることも可能だったのでは、ということを書きたかったわけです。それをしなかったのはなぜでしょうか。それとも、そういう要求があったのを蹴ったのでしょうか。

彦島の割譲要求とそれを一蹴した、ということは、Wikipedeiaの下関戦争のところに出ていましたが、これについての真偽は怪しい、とありましたので、今回は触れませんでした。

お礼日時:2008/01/17 14:33

当時イギリスは世界中に多くの植民地を持っており、それだけに植民地政策の大変さも良くわかっていました。



そこで日本に対しては植民地化の方針をとらず、対等な通商の相手として育てる方針をとったのです。

それが結局イギリスにとって利益になるという判断からです。

         [マンガ教科書が教えない歴史(3)]より
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この回答へのお礼

ご回答ありがとうございます。

非常に興味深いコメントでしたが、もう少し具体的な史実も付けて解説して頂けますと勉強になります。例えば、英国の誰が、いつ、どんな場所でどういったことを言った、とか、それはどこそこの国の植民地政策に懲りて方針転換した、とか。

お礼日時:2008/01/17 14:37

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