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第二次世界大戦中、フィリピンのマニラ市街戦での死者は日本軍1万6555人、米軍1010人、マニラ市民10万人だそうです。
どうして一般市民がこんなに多く犠牲になったのでしょうか?
普通市街戦が始れば、戦闘地域から逃げると思います。
この場合、アメリカ側に逃げればよいわけで、逃げ遅れたにしても10万人は多すぎます。(東京大空襲と同じ)
逃げることのできない理由があったのでしょうか?
スターリングラードの戦いの場合は、ソ連軍が市民が逃げることを禁じていたと記憶しています。

よろしくお願いします。

A 回答 (6件)

>フィリピンのマニラ市街戦で~どうして一般市民がこんなに多く犠牲になったのでしょうか?


 
 まず、マニラ市民の死者は、1945年2月の市街戦だけで発生したのではありません。それ以前の44年9月21日から始まったアメリカ軍の空襲からすでに生じていました。

>普通市街戦が始れば、戦闘地域から逃げると思います。

 つぎに、さかのぼって42年の日本軍進攻の時にマッカーサーがオープンシティ宣言をしたため、日本軍は平和進駐を行いました。そのマッカーサーが今度はマニラを徹底的に破壊するなどとよもや市民たちは思いもよらなかったので、疎開しなかったのでした。
 
 さらに、マニラ防衛の日本軍は、陸海軍とも寄せ集めの兵と歩兵火器中心の武装でしたから、よもや頑強に抵抗するようにもみえなかったでしょう。当初日本軍も、一定の抵抗をしたのちに東部の山中へ退却する予定でしたから、一方から歯磨きのチューブのように押し出せばどちらの側にも多くの犠牲者が出なかった可能性があります。しかし、実際には米軍は包囲作戦を採ったため、日本軍の退路は限られてしまい、また、日本軍自ら橋梁を破壊してしまったため孤立化したので多くの市民を巻き込んでしまった、というのが実情でした。

 大岡昇平は『レイテ戦記・下』(中公文庫版)にこう記しています。

 彼(註・マッカーサー)はフィリピン解放を十分に果たした。~軍事的拠点の徹底的砲爆撃という戦闘方式の結果、フィリピン人は家を焼かれ、多くの非戦闘員が死傷した。~マニラは徹底的に破壊された。~ニミッツによれば、彼は自分の赴くところ、常に激戦地にならなければ気がすまなかった男だ。この処置には、日本軍に強要された形式的なものであるとはいえ、対米戦争状態宣言をしたラウレル政権に対する懲戒の意味が含まれていよう。~そのためにマッカーサーは破壊的攻撃をしなければならなかった。破壊と放火はこれらの日本の部隊が行なったものだ、ということになっている。そのため実際には責任がなかった山下大将が、不法な手続きによって絞首刑になったのだが、これは実際は米軍の行なったマニラ破壊を日本軍に転嫁するするためであった。(同書308・309頁

 昨年8月、NHKBSで『ハイビジョン特集 証言記録 マニラ市街戦』という長編ドキュメンタリーが放映されましたが、この中で赤十字のマークを掲げた病院を米軍が爆撃して多くの市民が殺されたとか、米軍がガソリンを流し込んだため地下に潜んだ市民が焼き殺されたという生存者の証言でも明らかです。

 日本軍によるマニラ市民殺害について。基本的に軍事基地の所在をシビリアンが敵軍に通報するのはスパイ行為に当たり、これは処刑の対象となります。米軍のフィリピン攻略は、殆どのフィリピン人の協力があったので、マッカーサーは「これほど楽な戦いはない」といったそうですが、マニラにおいても、住民が日本兵の潜むのを見付けるとすぐに米軍に知らせ、すぐに猛烈な砲撃が始まり、日本兵は逃げ場もなく物陰に隠れるだけだった、と当時の日本陸戦隊将校が回想しています。(峰尾静彦「マニラ海軍防衛部隊の悲劇」による)

 さきに回答のなかに「日本軍がマニラ市民を攻撃した」という表現がありますが、陸戦隊将校の回想を見る限り、市街戦で圧倒されるなか、個別の例はあっても組織的な余裕はなかったようです。こういう追い詰められた状況にあって、日本兵は市民の誰もが通敵者に見えたというのも無理がない部分があります。しかし、それで市民殺害が正当化されるわけではありませんが。

 日本兵の戦死が約1万6千に対して米兵はわずかに千名。市民が10万名。その数字を見ると米軍に協力して日本兵に殺され、米軍の無差別攻撃に殺され、また何の関係もない無辜のマニラ市民がさまざまな理不尽な理由で殺された、というのが事実に近い、と思います。
 


 
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「陸軍部隊戦史」 近現代史編纂会 編  新人物往来社   の中に


軍医としてマニラに居た、小島温氏が次ぎのように語っています。
「負け戦になってから、日本軍に協力しようというフィリィピン人はいなくなったから、みんな敵みたいだった。   マニラを戦場にした事が一番まずい。   死守といいながら、半分は撤退している。   有る時期になったら撤退する事をはっきり伝えておけば、こんな大きな惨劇にもならなかつただろう。」
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私もNo1のご回答と同意見です。


日本軍にはフイリッピン人は敵でこそあれ、味方ないし無害とは思えない存在でした。
事実フイリッピンゲリラに攻撃されていました。

従って接近を試みる現地人は全て敵と見なされたわけです。
既に重火器を失っていた日本軍は狙撃や銃剣で刺殺したでしょう。

一方米軍は遠距離から日本軍の立て籠もると思われる施設を砲撃、爆撃し現地人の被害を考慮しませんでした。
つまり現地人は日米両方からの攻撃に挟まれ逃げまどうだけでした。

10万人というのは過大かもしれませんが、この場合数字の大小は問題ではありません。
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そもそもマニラ市民の犠牲者とされる10万人は戦後のマニラ軍事裁判で示された数字です。


この裁判は1945年10月に始まったものであり、マニラは焼け野原と化し、また終戦までフィリピンでは戦闘が行われていたことを考えれば、正確な犠牲者数を算出できたとは思えません。
そもそも「10万人」という数字が怪しいと見るべきでしょう。
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http://www11.ocn.ne.jp/~mino0722/phillipin9.html
この文を見て、2つの理由があることがわかりました。
1.アメリカ時代を懐かしむフィリピン人がゲリラになって日本軍を攻撃したため、日本軍はフィリピン人誰もがゲリラではないかと疑心暗鬼になり、丸腰の市民に対しても殺害するよう命令があった。(このあたり、南京事件を連想します)
2.アメリカ軍がマニラを無差別に爆撃したこともあります。
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ちょっとスターリングラード状況が違いますね。


日本軍にとってマニラ市民どころかフィリピン国民全体が
防御の対象でないばかりか、抗日ゲリラの活発になったことから
完全に日本軍がマニラ市民を”敵”と判断していて、
攻撃したからこういうことになったのです。
アメリカ軍の方も、市街戦が始まると市民の犠牲を
余り考慮せずに日本軍関連施設を攻撃したので
市民の犠牲はさらに増えることになり、
要するにマニラ市民は日本軍とアメリカ軍の双方から攻撃を受け、
挟まれた多くが逃げる場も無く、
10万人近い犠牲者を出すという結果になったのです。

潜伏を続けた小野田少尉なども住民を敵として
しばしば殺害していたことでもわかるように、
フィリピンの住民が米軍に内通しているとか、直接ゲリラが紛れ込んでいて攻撃を受けるとか、
反乱が起きるとか、という被害妄想というか、一部は実際にあったんで
完全に妄想じゃないわけですが、ともかくそういう事情から
日本軍はかなりまともに住民を攻撃して虐殺しました。
これは生還した日本兵が広く証言しているところです。
要するに日本軍は敵地で死守しているという感覚だったのでしょうな。
ハーグ陸戦協定を遵守するという意識はあまりもともとなかった、
というか、多くは最後に陥落するときは自決してますから、
後先余り考えていなかったというのが実情かな。
死に物狂いとはこのことか。
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