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『貫高制』についてお聞きします。

教科書によれば、
戦国大名が家臣として支配していた国人、地侍の収入額を銭に換算した貫高と言う基準で統一的に把握し、その地位・収入を保証するかわりに、彼らに貫高に見合った軍役を負担させたこと。
と書いてあります。


収入額を銭に換算する。という部分が具体的にどういうものなのか分かりません。
また、貫高の量によって軍役は具体的にどのように変わったのでしょうか?


量が多ければ多いほど、
大役を任せられたということなのでしょうか?

A 回答 (5件)

現在の「収入」というものとは違うので、戸惑っておられるようですね。


江戸時代ぐらいまでの、武士・侍の「収入」というものは、主にコメの量で決まっていました。三十石二人扶持(ぶち)というと、収入が三十石のコメで、二人の部下を与える、といったものです。
しかし、コメの取れ高は年によって違うので、毎年の収入額をお金に置き換えて管理していた、ということですね。
貫高に見合った軍役、とは、給料に応じた役職というのと同じです。平社員より、社長の方が給料は高い。
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一応、銭ごとに負担が決められていて、それを負担するというのが貫高制です。

しかし、実情はすでにいわれているように作物納入が普通なので、石高制と本質的な内容は変わりません。石高制はその土地の収入を石高という価値で換算しますが、貫高はその土地の収入を貫、つまりお金で決めます。米1石につきいくら、といった感じです。
ただ、少々古い制度にあたるものでして、戦国後期には石高制に切り替えが進んでいきました。
また、土地によって貫の換算方法がまちまちでした。そのため石高への計算はかなり面倒です。平均としては水田1反につき500文くらいだそうですが・・・

採用していた国は東国が多く、後北条家がもっとも有名です。
ほかには真田家も貫高制をとっていました(ただ、こちらはとんでもなく税が高かったという実態があったとされます)。しかも幕末まで貫高制をとっていたという珍しい藩です。
たとえば真田家ならば大体10貫あたり1人の動員力を持っていたようです。かなり高い動員力とされていますが、多く収入を持っている場合、多くの兵や物資を負担することになるわけです。
真田家では、貫高で600文の税を受けていた人が170文をさらに加税されたという例があります。この人の場合、増税してもその人の土地でその人の収入になっているので、主家に金銭的な増加はないのです。しかし何が増えたかというと、この人の軍役です。つまり軍役の負担が増えたのですね。
つまり、収入を多く持っている人は、当然出すものも多い、ということですね。
どの程度かは国や勢力によって違うので一概には言えません。ただ、真田家の動員力である貫高10貫につき1人というのは相当高い割合だったことが指摘されていますね。
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貫高制というのは与えられた土地(所領)からの収入を金額(貫)で表した制度です。


しかし実際は通貨が不足していましたから米や産物、労役などの形で税が納められていました。

従って制度上は金納制でも実際は後世の石高制に似た制度でした。
主君に対する対する反対給付としての軍役は石高制の場合と同様に決められていました。

馬上の武士数、弓鉄砲の数、旗、指物の数、徒歩武者、など戦場に引率すべき武器、兵数や食料などが細かく定められていました。
勿論これらは最低限度で財力によりそれ以上を引率して戦場におもむきました。
例えば鉄砲は貫100貫につき1丁というように決められていたのです。  従って貫高の多い武士は率いる兵の数も多く大任を命じられる事になります。
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簡単に言うと、米や収穫物でなく、お金で税金を納めなさい、というのが貫高制ですね。



貫高に見合った軍役・・・というのは、戦いの時に供出する兵士の数です。

ちなみに当時は国内で流通している銭の量が不足していたため、じっさいは米で収めるケースが多かったそうです。
どうせそれなら、ということで、太閤検地以降は米で税を納める「石高制」に変わっていきます。
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貫高制の研究は北条氏で最も進んでいます


http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Forest/1669/ …
こんな感じ。
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