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月曜日に日本史のテストがあるんですが、わからないところがあるので、
力をおかりしたいです><

鎌倉時代の中央組織に侍所、政所、問注所がありますよね。
北条氏一族の執権政治って執権が侍所と政所の長官を兼ねる。
執権3代目泰時のとき執権の補佐役として連署をおき、評定衆を任命し、
5代目時頼のとき評定衆の会議で引付をおき引付衆を任命した。
蒙古襲来後、得宗の勢力が強大となり得宗専制政治を行った。
得宗家の家臣である御家人の代表、内管領が力を持つ。
こんな感じに学びました。

ここで質問があります。
・問注所という機関があるのに引付というものを作る必要があったのでしょうか。
・侍所別当と内管領の違いはなんでしょう。侍所別当も御家人代表と学んだので・・・
・侍所、政所、問注所はちゃんと機能していたんでしょうか。

わかる方、教えてください。
お願いします。

A 回答 (2件)

権力の主体はだんだんと移動していきます。


すでにあるものを否定することによって権力は移動します。完璧に否定することは革命になりますが、抵抗がキツイので、別組織を作ってそっちに実権を移していくことよくやります。
鎌倉幕府も、京都の朝廷を潰して作ったわけではなく、相変わらず朝廷はありつづけて、じわじわ権力を強めていきました。
という、歴史の流れがありまして。

・問注所という機関があるのに引付というものを作る必要があったのでしょうか。
→ 簡単に言えば仕事が増えたから。

・侍所別当と内管領の違いはなんでしょう。侍所別当も御家人代表と学んだので・・・
内管領は、御内人(北条家徳宗の家来)を統括です。

・侍所、政所、問注所はちゃんと機能していたんでしょうか。
徳宗で決めたことを事後追認みたいになったらしい。

現代で考えれば
国の組織=鎌倉幕府
自民党=北条家徳宗
みたいな感じで、本来は各御家人が合議で鎌倉幕府を運営しましょうということだったのですが、徳宗家が強くなり徳宗家の家内組織で決めたことが幕府の決定になった。
自民党がずっと政権を握ったので、自民党幹事長がいろいろ調整して一番偉くなっちゃいました。という感じです。
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理解が中途半端です。


得宗専制が蒙古襲来後というのは間違い。
北条義時の法名が得宗であったことから北条総領家を得宗というようになり、最初から得宗の力は圧倒的でした。

御家人は農地の開発者であり、その所有権を幕府から認められることで幕府に従っていました。
農地は御家人の死活問題でしたから、その所有問題は訴訟の中心であり、数も増えるし迅速処理も必要だ、ということで、引付衆制度が作られました。後年には、訴訟というより、北条氏のエリートコースとなっていきます。

内管領は、御家人代表ではありません。
得宗家の執事です・・御内人の筆頭。
得宗家につながる北条氏が守護の多くを占めるようになると、虎の威を借る何某ではありませんが、実質的に力を持つようになり、有力御家人であった、安達泰盛を倒したあと、御家人合議の体制(この時は形だけ)を得宗およびその被官であった御内人特に内管領で事を決するようになっていきました。

侍所等、定義は変わらなかったでしょうが、実質的には時代の変遷につれ、力はなくなっていきました。
これはどの時代でも同じです。
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