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私は、都市近郊(そんなに新興ではないところ)に住んでます。町の中での人々の、他人に対する動きを考えると、一般人というのがどうも信用できません。

以下はもちろん、確率論的な議論で、万人に当てはまるものではありませんが、多数派を対象にできると思います。

エレヴェーターを待つとき、私はどうしても扉の真ん中に立たない。端っこで人が出てくるのを避けます。それなのに、私が降りるときたいてい真ん中に居座っている人(老若男序問わず)がいる。この例が象徴的に思います。

どうしてこういう社会なんでしょうか?他人に対して、なるべく気持ちよく振舞いたいなぁ、という感覚の方が異常でしょうか?

A 回答 (8件)

私も感じます。


私は「お客様は神様です」という時代になってから世の中はおかしいんだと思っています。
店員に対してどんなわがままも通ってしまう、
それが日常化すればどんな時でも自分勝手なわがまま放題になります。そしてそれを受け入れなくてはいけない店員、ストレス溜まりまくりで仕事以外では自分がストレス発散の為横柄な態度をとります。その結果人のことなど考えず自分さえよければいいという行動を取る人が多くなっているんじゃないでしょうか。
ちなみに私が一番気になるのは、前から人が歩いてきたらよけるのに今の人は、こちらが1人向こうから3列になって歩いてきたって
まったくよけようとしないことです。
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この回答へのお礼

やはり、拝金主義というものが「誇り」とか「人間性」より上になってしまいましたからね。それがいつ起こったのか?はなはだ疑問ではありますが、巷で言われるように、高度経済成長時代、あるいはバブル崩壊以前は確かに何か違った。そんな感覚があります。何で、人間が弱いんでしょうかね。この国は(それも妄想の面もあるんでしょうけどもね)

お礼日時:2008/03/02 22:05

確かに近年日本人のモラルが低下してきていると思います。



それにしても信用は言いすぎだと思います。
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この回答へのお礼

信用は言いすぎでしたね。なにか「殺伐感」です。

お礼日時:2008/03/11 13:01

そのようにまん中に立っているような人たちも、


降りる人がいたら軽く端に避けていませんでしたか?
別に自分だけ速く乗りたいからではなく、
降りる人がいるか分からないからとりあえずまん中に立っているのだと思いますよ。
現に、乗り降りの多い駅ではみんな端に避けます。
エレベーターだって、
乗り降りする人が多ければ、誰とはなしに「開く」のボタンを押していてくれる人がいるし、
道で物を落としたら声をかけてくれます。
知らない人でも親切にしてくれます。
きっと、「信用」という重い言葉を引用されているので私には違和感があるのですが、
都会の人も、信用できないほど悪くはないですよ。
周りに気を遣えない人はいますが、
多数の人がそうという訳ではないと思いますので、
そこまで悲観的にならなくても大丈夫だと思いますよ。
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この回答へのお礼

降りる人がいるから分からないでも、端で待つ習慣というものが結構大事なのではないかと?もちろん必要性はないのですが、赤信号でも車が来ないからわたろうとか、うそ「合理性」の表れじゃないかと。つまり、だーれもいないところで一種の戒律を守る気があるだろうか?それも怖いですけど、考えようでは大事だと思う。

たしかに、小さな親切は多いですね。そこは十分納得できます。でも、やや底が浅いのじゃないかと思っています。私も、エレヴェーターのボタンは押しますけど、どうもそれ以上の親切とか何かしたいと思いませんから。その「これぐらいしかしないよ」という心構えが何か違うのじゃないかなぁというきがします。

お礼日時:2008/03/11 13:01

中央で待っている者は気がつかないでいるだけだと思いますよ


中央で待つと出てくる者にさえぎられかえって入りにくい事もあるので端で待ってるだけでしょう そのくらいで人が信用できないのなら
年金や税金を盗み食いしている国家はいったい?
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この回答へのお礼

小さなことから始まってますね。

お礼日時:2008/03/11 12:57

質問者さんのお考えが普通だと思います。


現代の社会に、自己中心の人が多くなっているように思います。教育の問題だと思います。特に家庭の躾がなっていないと思います。
昔は親が「いろはカルタ」や「諺」で戒めや、道徳を、子供が生きていくために良いように教育をしていました。履物の揃え、箸や筆の持ち方をはじめ、他人の迷惑にならないこと、自分に疑いを持たれないようにする事など、度々躾けられました。
時代が進み躾がだんだん手抜きがされて、躾をされない子が親となり、その親は子の躾ができなくなっています。順番並びに横入り、降りるより先に乗り込む、座席に荷物を置くなど目に余るものがあります。
私はそのような人は身なりが良くても、「気の毒な人」だと思います。注意もしません。反感を買い逆襲を受けては詰まりません。「気の毒のまま生きなさい、いつかは臍を噛むぞ」という思いです。
親は子供が可愛いのならば、躾をすること、給食費などを払い、道徳、社会規範を守ることだと思います。
そうすれば、世の中少しは殺伐感が減るのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

やっぱり、しつけはおおきいですよね。しつけといか、押し付けでなく、自然と子供がそういう感性とか義務感を感じられるようになること。もちろん、時には折檻も必要でしょうが、飴と鞭で正常な人間感覚が養われるんでしょうね。そういう大きな親が少なくなったのでしょう。
怖いのは、もしかするとそういう道徳がしんでしまっても、まったく批判されなくなるのではないかということです。「気の毒な」人が本当に気づくこともなくなってしまうのではと。

お礼日時:2008/03/11 12:56

昔も今もそんなものという感じはしますが、


私も質問者さんと同じようにしますし、同じように感じることはあります。
考え方自体も別に異常ではありませんが、

正直者がバカをみる。といった感はないではありません。
が、それでも、世のため人のためにマナーよくしている、という
人が増えればそれでよいと思います。

自分さえよければいい。という人は結局どこかで
貧乏くじをひいているのです。本人はそれに気付いていないだけです。
可哀想ですが、それを指摘してあげる義務も義理もありません。
本人にその気がないのですから、他人の知ったことじゃないです。
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この回答へのお礼

なにか、マナーが悪いことをして「気まずい、気持ち悪い」という感覚が残るかどうかが酒井だと思います。それが、もしかすると消失しつつあるのか?壊れつつあるのかという怖さがありますね。

お礼日時:2008/03/11 12:54

昔はね、道徳という教科科目が有ったんですよ。


基本は差別についてのお話が主でしたが、人としての徳を積む上で重要だったと思います。
無くなってからはひどい世の中だと思いますね。
元に戻すまでに50年じゃ効かないでしょうね。

http://www.moralogy.jp/top/top.html
私が時々目にする小冊子ニュー・モラルです。
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この回答へのお礼

精神よりも物的なものに行くというのが、どうやら人間の宿命(特にこの国のように宗教が死んでいると)なんでしょうね。

お礼日時:2008/03/11 12:53

こだわり方がちょっと度を超え気味だと思います。

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