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今朝NHKで玉虫厨子を復元する作業についてのニュースを見ました。日本史の資料集で見た時はどこが玉虫?って感じでしたが今朝のニュースでは6600枚もの玉虫の羽を貼ってあってとても神秘的な輝きをしていました。その玉虫厨子の本体に描かれた絵について教えてください。

日本史の参考書でその絵が捨身飼虎図だということは分かりましたのでググって見ました。お釈迦さまの前世の王子が飢えた虎の親子をかわいそうに思って自分の体を食べさせたという話でした。
ここで疑問なのですが…王子なんだからお城で飼えば良いんじゃないでしょうか?その日王子の体を食べた虎の親子は何日かは生き延びるけど数日後同じように飢えたらどうなるんでしょう。それに王様が自分の子供を食べた虎を生かしておくとも思えません。国中で虎狩がされるかもしれませんよね?そう考えると王子の行動は意味があったのでしょうか…というのが今回の質問なのです。

もちろん、深い意味があるのだろうとは思いますので、お釈迦さまの前世での行動について意義を解説してくださると助かります。

皆さんどうぞよろしくお願いします。

A 回答 (10件)

#5です。

忘れてました。捨身飼虎の話は日本の古典でも読むことができます。お勧めなのが、「三宝絵詞」、現代思潮社の版には現代語訳もついています。この上11の説話です。金光明経に基づいたもののようです。みごとな和文で書かれています。
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/01561704
 話の要約ならネットで読むこともできますが、要約ではもうひとつ王子の気持ちが伝わってきません。たとえば、次のブログにも要約が掲載されています。参考までに。
 http://blogs.yahoo.co.jp/kyomutekisonzairon/1682 …
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この回答へのお礼

この質問に最後までお付き合いしてくれて本当にありがとうございました。

和訳の部分読みました。こういった前後関係があるのなら王子の行動も納得です。おかげで大変スッキリしました。

また質問をしたときに是非ご教授ください。

お礼日時:2008/03/14 20:24

 ANo.6でご紹介した私の読書は、必ずしも輪廻転生に敷衍しているものではなく、ブラフマンと創造界のことが主題になっております。


 不顕現、超越なるブラフマンは創造の意識の側面、半月の方に輝くブラフマという存在(意識)になり、一切を自己としてリフレクト、見つめ、シミュクラ形象形成します。ですから創造界とその内容はブラフマの姿、意識、観念の投影、形象となっている。
 互いに異なる存在として、個別意識の人間と雀も一なるブラフマの観念でしかなく、同じ一なるひとり子、普遍者でしかない。
 それはオーという創造vibration、ウーという継続維持のvibration、そしてムーという自己への溶かし込みのvibrationの連鎖の中の各一形態たちでしかない。
 一なる創造者の個別的見方でしかない。だから雀はブラフマであり、ブラフマは雀であり、全てはブラフマであり、ブラフマは全てである。それは全く全部一でしかない。ということ、その連鎖、生々流転と帰着を象徴しようとする、比喩なのだそうですよ。
 
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この回答へのお礼

回答&追加情報ありがとうございます。お礼が遅くなって失礼しました。

すぐにはkrya1998さんの言っている意味が理解できないと思います。自分の中でじっくりと考えてみたいと思います。

お礼日時:2008/03/14 20:20

#5です。


>死んでしまっては終わりなのではないでしょうか?
 死んで終わりというのは無宗教の現代人の考えで、当時の人は輪廻を信じていました。この世ですべてが終わるわけでありません。サッタ王子にとって大事なことは涅槃の境地だったのでしょうね。
 参照した「漢訳仏典」に収められている捨身飼虎の話ですが、金光明経ではなく、「菩薩本生鬘論」です。この経はJataka Malaから訳出したとされてはいるものの、手に入るこの刊行本はこの漢訳本の直接依拠した原典ではないと書かれています。もとはパーリ語、もしくはサンスクリットの原典があったと思われますが、現在確実に原典とされるものはわからないようです。
 
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この回答へのお礼

補足に対しての回答ありがとうございます&お礼が遅くなってすいません。

確かに他の回答を読んで自分の考えは現代人の価値観なんだと気付かされました。輪廻転生を前提に考えれば王子の行動も意味があるのだとわかりました。

負け惜しみを言うわけではありませんが捨身飼虎の絵にこんなにも深い意味があるって大勢の人にもっと知ってもらいたいと思いました。

お礼日時:2008/03/14 20:15

漢文原典


ということは捨身飼虎は中国で書かれたのでしょうか。インドではなく>>>>>もとは、サンスクリット語(古代インドネパール語)です。

Suvarl aprabh sa(黄金の輝き)の成立は4世紀ぐらいと考えられているようだ。それの漢訳が数種あるが、最古のものが曇無讖[どんむせん]訳『金光明経』4巻(5世紀初め)である。義浄訳『金光明最勝王経』10巻(長安3年703)が、「最勝王経」という経典。
漢訳以外に、チベット訳、ウイグル語・満州語・蒙古語などに訳されて東アジアに広く普及したことが知られる。義浄訳の『金光明最勝王経』が日本に舶載されたのは、漢訳ができたわずか15年後だという。そして、国分寺の七重塔に納めて、仏教による律令国家の精神的支柱にしようと聖武が詔を発したのは、その後20余年後のことである。
ただ、日本の文献資料に最初に出る「金光明経」は、『日本書紀』の天武天皇5年(677)11月に甲申[きのえさる 20日]に、使ひを四方の国につかはして、金光明経・仁王経を説かしむ。
と述べられているものである。これは、曇無讖訳『金光明経』がすでに日本に入っていたことの証拠になる。

と、あります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。&お礼が遅くてすいません。

専門的な解説ありがとうございます。多分図書館にも無い経典ですので将来そちらの方面の研究をする場合には参考にさせていただきたいと思います。

日本人は仏教徒が多いと思いますがboobooxさまのようにお経に詳しい仏教徒は少ないと思いますので、こういった場所で知り合えた事を光栄に思います。

お礼日時:2008/03/14 20:10

 律儀にご対応ありがとう。


 もう一つ。ヒンドゥの本で、人間が空腹で歩いていたら、枝の雀が、可愛そうに、私を上げましょう。といって身を投げ出したそうです。
 まぁお話かな。事実でもありうる経験は私個人はないではないが。
 雀は創造の、維持のそして消滅の神であった。神は雀であった。
 神は全てであった。
 こうして創造し、維持し、自己の中に溶解させ、消滅させていく。
 というような話は、伺っております。
 下のURLはアメリカの本部です。日本には支部はありあせん。
 URLも当然ありません。でもあちらにたくさんの修道僧・尼さんがいっており、日本語のメールも大丈夫ではないでしょうか。
 インド発祥ですから、そこにも本部はありますが、私達はアメリカと繋がっています。
  
 

参考URL:http://www.yogananda-srf.org/
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この回答へのお礼

再度回答ありがとうございます。

インドの哲学は日常の中にも輪廻があるのですね。参考になります。参考URLは英語だったのでよく読んでからメールするかどうか考えたいと思います。
このサイトでは日本語で質問ができ回答も日本語でもらえるので本当にありがたいと思います。

お礼日時:2008/03/10 18:11

是非とも原典を読んでください。

中国の古典シリーズ10「漢訳仏典」学習研究社の冒頭に原文の書き下し文と現代語訳が載っています。漢文原典ならネットで読むことはできるのですが、現代語訳はネットにはないでしょう。原典には身を捧げるまでのサッタ王子の苦悩が明確に書かれています。王子の言葉の現代語訳の一部だけ引用しましょう。
「わたしは、過去、百千の限りなく繰り返す生において空しく滅びてきたのみで、今まで世のため、人のために何の益ももたらしたことはなかった。・・・(中略)・・この身は糞尿のように不浄な身体を持っているだけだ。わたしはこの身を捨てて最上のニルヴァーナ(悟り)を求めよう」
欣求浄土、厭離穢土という言葉がありますが、王子ははげしい厭世観を持っていました。それ以上は是非図書館等で原文を読んでください。
 そもそも現代の倫理観を2000年前のインドの世界に持ち込んでも意味がありません。昔の人の価値観は現代とは違うのです。徒然草とか読んでも書いてありますが、野生動物を檻に入れて飼うなどということは仏教倫理に反することだったのです、動物はもと棲んでいた森に帰りたいもの、子供が殺されたからと言って狩りをしてその動物を殺したりすることも仏教倫理に反します。仏教では動物を殺してはいけないのです。人間は無数の輪廻を繰り返し、また動物に生まれ変わるかもしれないのです。動物に対しても人間に対するのと同様に同胞愛を持つべきなのです。

この回答への補足

すいません、お礼を書き損なっていました。改めて回答ありがとうございます&お礼が遅くなりすいません。

>>漢文原典
ということは捨身飼虎は中国で書かれたのでしょうか。インドではなく?学校の図書館には中国の古典シリーズがありませんでしたので別の図書館に行ってみたいと思います。

補足日時:2008/03/10 18:14
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この回答へのお礼

>>王子ははげしい厭世観を持っていました
この部分については納得できるのですが疑問もあります。死んでしまっては終わりなのではないでしょうか?

>>現代の倫理観を2000年前のインドの世界に持ち込んでも意味がありません
この部分については100%納得です。おかげでこの質問の疑問は解消しました。ありがとうございます。

お礼日時:2008/03/10 18:08

「捨身飼虎」は『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』の中にある「捨身品」に説かれるものです。



一見グロテスクな内容ですが、この説話は何を象徴しているのでしょうか?
私は「飢えた虎の親子」とは過去・現在・未来にわたって生き続けるもろもろの人々(衆生)を表すと。
そして王子は釈尊の前世の姿ですが、それと同時に大乗仏教を信じ、衆生の救済のためには身命を惜しまないその決意を表す、つまり菩薩の心を表す。
肉体を食わす(命を捨てる)というのは、世間的な名誉や営利、名声を求めないことを意味すると思います。肉体は死ねば消えてなくなりますね。つまりこれらの世間的価値観は時代、地域、環境によってコロコロと変わり不変ではない。
そしてこの話では、食われた王子の骨は光り輝いていたとあります。ここでの骨とは、大宇宙にある絶対不滅なる真理(悟り)を象徴していると思います。
すべての衆生はそれに気付いているか、気付いていないかの違いはあれでも真理を有している。だからこそ菩薩(自身の悟りを求めると同時に、衆生救済を実践する修行者)は、世間的な価値観を顧みずに衆生救済を行うということを表していると思います。
教典中は王子は「釈尊の前世」としていますが、同時に私たちもこのような心で生きていくことを説いている。決して表層的に見て「自殺をしろ」と言っているわけではないことは、誤解しないでください。

なお「金光明経」は自身が今まで重ねてきた(重ねたであろう)罪を懺悔(さんげ)することの重要さを説き、そしてこの教えを実践することで四天王や弁才天などの天神や鬼神が、国土の平和と安寧を守るという護国の思想が説かれます。
そして国の平和は、国王が正しい行いをすることにより、鬼神の守護を得るとありますので、その点でも“王子が飢えた虎に身を捧げる”という説話は、仏教的な護国思想とも関係あるかもしれません。

なお、聖武天皇が全国に建立した国分寺の正式名称は、「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」といいます。金光明経の教えによって国の安寧を祈願した寺です。
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この回答へのお礼

専門家の方の回答ありがとうございます。&お礼が遅くなりすいませんでした。

>>「自殺をしろ」と言っているわけではない
さすがに、そういった誤解はしませんでしたが^^;
他の部分の解釈はとても参考になりました。とても納得できました。

お礼日時:2008/03/10 18:05

 教えはご回答の通りです。


 絵そのものは宜しいのでしたか。
http://azby.search.nifty.com/cgi-bin/search.cgi? …
 雪山童子(せつざんどうじ)で検索しててみました。
 捨身飼虎でも別のがありました。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

雪山童子という捨身羅刹という別の話があるのですね。勉強になります。

回答をいただいてそれ自体はとても勉強になるのですが、虎にこだわってはいけないのでしょうか。捨身羅刹も羅刹を生き延びさせてしまうのですから、この羅刹が別の人を襲ったらどうなるのでしょうか…って考えは次元が違うのでしょうかね?^^;

回答者の皆さんは悟りを得ているかのような明快なお答えですが、私のような未熟者には深い考えにいたる入り口で引っかかっている状態なのです。

お礼日時:2008/03/06 18:26

http://www.eonet.ne.jp/~kotonara/syakanyoraino.htm

釈迦前世物語で、調べてください。

天上天下唯我独尊はお釈迦さまだけが世界で唯一尊いという意味だと思ったのですが違うのでしょうか?我とは誰にとっても自分という意味なのですか?>>>>釈迦が1番偉いと言ったところで、カーストの時代に、貧乏人が、感動しますか?しませんよね。この場合、我とは、宇宙のすべてのもの(物質を含む)ですから、動物だけとは、限りません。無生物つまり、机とかを含みます。唯識論をお読みください。

仏教誕生当時のお釈迦さまの生の思想という意味ですね>>>釈迦の父親は、ヒンズー教でした。ヒンズーの神、シバ神の僕に、釈迦は、位置しますが、釈迦は、反対に、ヒンズーを邪教として、嫌いました。カーストが根本にあるヒンズーの否定、出家をしたとの話です。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

>>唯我独尊
確かにカースト制度の中でお釈迦さまが一番エライって宣言しても新しい身分制度のスタートですもんね…けどググったら幾つかは逆の意味で書いているページもありました。私と同じように誤解している人は多いようです。

>>唯識論
ウィキの唯識論を読みましたが、今回の捨身飼虎とどうつながるのかが今一つ理解できませんでした。しかし、これは別の質問にしたいと思います。

>>カーストが根本にあるヒンズーの否定
これについては理解できましたが、マンガのブッダではバラモンになるために出家していました…マンガですから手塚治虫のアイデアが入っているのでしょうが、出家→カーストの否定(仏教の創設)だと思っていたのですが、そうではなくて出家そのものがバラモンの家系でないブッダがバラモンになることでカーストの否定だったのですね?

お礼日時:2008/03/06 18:19

これらを、多分、ジャータカ思想と言って、釈尊が生まれる前の人間としての、夢思想を、絵にしたものと考えられます。



つまり、天上天下唯我独尊と同様に、虎の命も、釈尊の命も、農民の命も、どれも、命の重さに優劣がつけられないことを、示している。また、命あるもの、いつかは滅すとも、考えているものと、想像します。

ジャータカ物語で、調べてみてください。

カースト制度支配下での、釈迦の価値観について、述べているのであって、釈尊とか、虎とか、個々に、こだわっては、本質は見えないと思いますが。
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この回答へのお礼

早速の回答ありがとうございます。

ジャータカ思想を調べてみました…父が持っているマンガのブッダに出ていた鹿の王の話と月のウサギの話がこのジャータカが元だった事を知りましたが捨身飼虎は出ていませんでした。探し方が悪いのでしょうか?
http://www.j-theravada.net/jataka/index.html
にある物語を幾つか読んでいるところです。
>>天上天下唯我独尊と同様に、虎の命も、釈尊の命も、農民の命も、どれも、命の重さに優劣がつけられない
すいません、天上天下唯我独尊はお釈迦さまだけが世界で唯一尊いという意味だと思ったのですが違うのでしょうか?我とは誰にとっても自分という意味なのですか?初めて知りました。
>>カースト制度支配下での、釈迦の価値観について
それは仏教誕生当時のお釈迦さまの生の思想という意味ですね?仏教の源流だったのですか。質問してものすごく勉強になりました。

お礼日時:2008/03/05 19:33

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