ケニーロバーツ引退後のGPスポット参戦?
キング・ケニーことケニーロバーツ(シニア)についての逸話なのですが、GP引退後、監督として転戦していく中で、いくつかのレースにこっそりエントリーしており、気が向いたら予選だけアタックする。というようなことを最初の数シーズンはしていて、中でも地元ラグナ・セカでは予選一ケタ台のタイムをたたき出してやんやの喝采を浴びた…という内容の記事を当時どこかのバイク雑誌で読んだように思うのですが、これは事実でしょうか?
確か引退劇の裏には離婚調停がらみの事情があり、まだまだライダーとしての実力を残しながら泣く泣くの引退だったと記憶しているので、あながちありえない話でもない気がするのですが…
回答(5件)
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80年代のレース雑誌を調べたところ、
実際にロバーツ監督がGP500の予選で走行した事実がありました。
それは1987年のWGP第4戦、イタリア・モンツァサーキットでの事です。
この年、ラッキーストライク・ロバーツ・チームは、
R.マモラとM.ボールドウィンの2台体制でしたが、
第3戦西ドイツでM.ボールドウィンが負傷し第4戦は欠場となった為、
急遽、タイヤテストとマモラのマシンセッティングを助けるべく、
特例として、ロバーツ監督の予選への走行参加が認められたそうです。
当時は金曜土曜2日間の予選でしたが、ロバーツ監督が走行したのは
金曜午後の予選のみ、周回数は僅か10数ラップとの事でした。
なお、タイムアタックが目的では無い為、タイム的には
ポールタイム(W.ガードナー)の5秒落ち程度でしたが、
コース脇のマーシャルは仕事をほっぽらかして“キング”の走りに釘付けとなり、
観客は現役ライダーそっちのけで“キング”に歓声を浴びせていたそうです。
この回答へのお礼
おお!そんな事実があったんですね!
現地にいたなら私も熱狂したでしょうね。
規則ガチガチの昨今のレースに比べて、実におおらかなエピソードです。
本当にありがとうございました。
No.4ベストアンサー20pt
おそらくWGPへのスポット参戦ではなく、
GPマシンを借りてスポット参戦したレースの話ではないかと思います。
具体的には、ロバーツ引退後の1985年にラグナセカで開催された
AMA500(2ヒート制レース)に平のYZR500を借りて参戦しており、
この時の予選において、ランディ・マモラ(今回だけ特別にNSR500を貸与された)、
マイク・ボールドウィン(NS500)が10秒台であったのに対し、
ケニー・ロバーツは自己の持つラグナセカのコースレコードを上回る6秒48をマークしています。
ちなみに2ヒート制の決勝:ファーストレグはロバーツが優勝。(マモラが2位)
決勝:セカンドレグはマモラが優勝。(ロバーツにはミッショントラブルが発生して2位)
セカンドレグが優先される規定により、総合優勝はマモラ、ロバーツは総合2位という結果でした。
#このレースについては「バイカーズ・ビジュアル・エクスプレス 1990年5月号」
〈(株)世界文化社 発行〉のビデオに収録されており、
今回の書き込みにあたり内容を確認しました
またWGPでの走行についてですが、1984年からウエイン・レイニー、アラン・カーターを率いて
250ccクラスに監督として参戦していたときに、
「予選でマシンセッティングが進まない事に業を煮やし、ロバーツ監督が自ら走行して
セッティングを進めていた。」という話が、当時のレース記事に書かれていましたので、
これらの話が交錯しているのではないでしょうか。
この回答へのお礼
詳しい回答ありがとうございます!
>ロバーツ引退後の1985年にラグナセカで開催されたAMA500(2ヒート制レース)に平のYZR500を借りて参戦しており、
そういうレースがあったのですか…それでラグナセカが出てくるわけですね。
>予選でマシンセッティングが進まない事に業を煮やし、ロバーツ監督が自ら走行してセッティングを進めていた
これはこれで痛快ですね!確かにおっしゃるとおり、そういう断片的な逸話が交錯しているようですね。
前半で回答?くださった方々も、貴方の回答を見て喜んで下さっているかと思います。ありがとうございました。
No.3ベストアンサー10pt
私もうろ覚えの記憶だけですが、どのGPかは覚えておりませんが、確かに引退後もスポットで予選に出ていたのを覚えています。当時のGP500は意外と融通性が利き衰退期でもあった為、ファンサービス的意味合いがあったのではないでしょうか?アメリカのスポーツ界では半常識的ですがファンをすごく大事にしていますので、CARTなどのピットウォークなどとても友好的でとてもファンを大事にしており、ファンがサインをお願いすれば必ずしてくれたり、スポンサーのグッズ配布時も日本遠征の時、帽子を配っていた時残り少なくなった時私の後ろにいたスタッフが突然自分が被っていた帽子を被せてくれたりしてもらいました。
記憶と状況判断ですいません。
この回答へのお礼
回答ありがとうございます。
良かった。うろ覚えとは言え自信が無くなってきたところでした(笑)。
>当時のGP500は意外と融通性が利き衰退期でもあった為、ファンサービス的意味合いがあったのではないでしょうか?
確かにケニー&スペンサー両雄が引退した後は少し寂しかったですもんね。
E・ローソンは確かに名ライダーでしたが、「ヒーロー」という程派手ではなかったですしね。
当時を懐かしむあまり、私が無意識に捏造した妄想なんじゃないか?とか、
「バリ伝」にそういうエピソードがあってそれを実話と勘違いしてるんじゃないか?と不安になって押入れをひっくり返したりしてました(笑)。
ちなみにバリ伝にそういう話は無かったですね(笑)。
ありがとうございました。
83年の引退後、確か85年に平忠彦(翌年はマイク・ボールとウィン)と組んで鈴鹿8耐に出場したのは覚えていますが、GPに出たのは知りません。
また、当時はラグナセカでは世界GPは開催されていなかったと思います。
答えになっていませんが、当時のファンとしては非常に興味があります。他の方の答えを楽しみにしています。
この回答へのお礼
>当時はラグナセカでは世界GPは開催されていなかったと思います
…そうでしたか。かなりあやしくなってきましたね(汗)。
確か「ラッキーストライク・ロバーツ」の監督になってすぐの話だったと
思うのですが…。
>気が向いたら予選だけアタックする。
ええ!?
>引退劇の裏には離婚調停がらみの事情があり
ええ~!?
全然知りませんでした。
なんじゃそれー、って感じでした。
20年越しのびっくり。
全然答えになってませんね。すいません(笑)
この回答へのお礼
はは。私も正直うろ覚えなのでどなたかが知ってらっしゃるかなと思いまして…。
事実なら痛快なんですけどね。
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