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日本では建前では三権分立の原則の下に統治が行われることになっています。
憲法上でも、三権分立という明確な文言こそないものの、三権各々を担う機関が規定されています。
しかし実情をみれば現代の複雑化、高度化した社会機構では行政権を担う内閣や省庁の
裁量の幅が極めて大きく明らかに立法や司法よりも国民への影響力は多大です。
しかも立法の分野においても、提出される法案の大多数は政府提出のものであり、
なおかつ議院内閣制のもと与党の賛成多数で可決される場合がほとんどです。
国会は能動的に立法権を行使しているというより、政府の法案の審議を行っているという部分が多大です。
また司法である裁判所にしても、統治行為論等の論理によって、重大な政治的問題に対して、
違憲立法審査権を行使することには消極的ですし行政訴訟でも政府に不利な判決はめったに出ません。
日本における三権分立というのは、三権が全く対等で独立しているというものではなく、
基本的に行政権が主導的立場にあることを前提とした上で、他の二権に行政権に対しての
ある程度の監視と抑制を期待するという様態なのでしょうか?

A 回答 (3件)

質問者様がおっしゃる問題はあくまで政治的な問題なのです。


三権分立は法的概念ですので、憲法が三権分立を採用している以上(41条・65条・76条)、わが国も三権分立を採用していることが明らかです。

ただ、政治的な問題として三権分立が厳密な形では保てなくなっているという点はおっしゃるとおりです。
質問にもありますように、行政権の役割が非常に大きくなっているのが現代国家の特徴です。
これはわが国だけではなく、先進国ではわりと普遍的に見られるものです(行政国家現象と呼ばれます)。
この現象は、高度に複雑化した現代社会においては、慎重な討議を行った上で法律を制定するという形での問題解決よりも、専門的・個別的な行政権の行使で問題を解決することが望ましい場面が増えることから生じるといわれています。
行政国家現象にも一長一短がありますので、三権分立の立場から単純に否定できるものではありません。
外国の憲法学者の中には、これからは三権分立(正確には権力分立)による国家権力抑制は時代遅れなのではないか、と主張している人もいます。

なお、質問者様のように行政権主導型の三権分立を構想する立場も存在します。
ただ、これも政治的に解決されるべき論点ですので、法的に日本の三権分立が行政主導型を採用しているというものではありません。

ちなみに、違憲審査権の行使について触れていらっしゃいますが、違憲審査権を積極的に行使するということは、司法権が立法権・行政権に介入する機会が増えるということですので、これは逆に三権分立を侵すおそれが大きいです。
必ず侵すわけではありませんが。
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制度としてどのような形態を用いているのか、ということと、


その制度をどのように運用しているのか、ということは別の問題です。

立法権、行政権、司法権を別の組織に分けて帰属させている以上三権分立です。
もっとも、アメリカの大統領制と比べると行政府が立法府を母体として成立している点で、行政府と立法府の切り分けがあいまいではありますが。

そして、議院内閣制は行政府の存続が立法府に依存している以上、立法府が望むことを行政府がやることを期待している制度でもあります。
ですから、制度上立法府が行政府より優位にあると評価することも出来ますよ。
アメリカでは執行府と行政府の間には関係がありませんから、両者の存在の関係を見てみれば対等になります。

もっとも、存在として立法府が先行するとしても、作られる政策が誰のイニシアチブによるのか、は別の問題です。

日本の場合政策の立案についてはプロである官僚が強いイニシアチブ発揮しています。
一般的に政策形成に関与する主体は行政官、議員、利益集団の3者だとされます(ローウィのいう、いわゆる鉄の三角形)。
これら3者を見た場合政策形成の能力に長けているのは通常官僚ではないでしょうか。
その結果政策を作る段階では能力の優れている官僚が主導的な役割を果たしてしまうことになるのではないでしょうか。

日本の場合、内閣だったか、総理大臣だったかにも法案提出権があり、その点でも行政府を支える官僚の影響が及びやすい制度であること、
議員が政策立案能力の点で有能なスタッフを抱えているわけではないこと、なども、官僚主導を許す原因でしょう。

司法権は確かに統治行為論等を持ち出して判断をしないようにしていますし、そもそも、国家の政策を真っ向から否定することは多くないですよね。

司法権のあり方については微妙な問題ですよね。
もともと民主的な基盤があるわけではないのに、民主的な判断を覆すのは例外的であるべきでしょうし、とはいっても政治部門の判断を尊重するだけは裁判所の存在意義が疑われますからね。
その意味で質問者さんの抱いている疑問には共感できる部分もありますよね。

ただ、司法権が積極的に権限を行使した結果間違ったことをしてしまうのは怖いですよね。
アメリカではリンカーンの奴隷解放に真っ向から反対する最高裁判決が出ましたし(もっとも、当時の世論は奴隷制度存続と廃止については五分五分の割合だったらしいですが)、
20世紀初頭には労働基準法も契約の締結の自由を侵害するという理由で無効にしてきている(こっちは当時においても最高裁に反対の人が多かったらしい)し、
フランクリンルーズベルトのニューディール政策のうち主要な政策である産業復興法と農業調整法を無効にするということもしています(委任立法の行きすぎによる執行権の肥大)。

最高裁によるこれらの判断が「正しいか」と聞かれたら、判断に困りますよね。
ちなみにフランクリンルーズベルトは最高裁により政策が否定された後に行われた選挙でも圧倒的に支持されてました。
それと、ルーズベルトの所属政党である民主党は当時議会においても圧倒的に強かったです。
このことや、最高裁の構成員が変更したこと、等もあり最高裁はルーズベルトの政策を否定しなくなりました。

このようなことを考えると、制度としては立法府が行政府に優位する制度ではあるが、
政策の立案という現実の運用の場面では行政府が優位である。
そして、行政府主導の政策を司法府が許す傾向がある、ということではないでしょうか。
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制度としては、日本国憲法は三権分立を採用しています。



ただ、議院内閣制を採用している点、アメリカなどの大統領制よりは、厳格に分立しているとはいえません。

また、行政国家現象により、行政の役割が肥大化しています。

この点、ご質問や、他の回答者の方がご指摘のとおりです。


ただ、ぜひ、補足したいことが一点あります。

司法権とは、違憲立法審査権に限られたものではありません。
中学などの教科書の記述の仕方が誤解を招いてると思います。

司法権とは、判例・通説では「具体的な争訟事件について、法を適用し、宣言することによって、これを解決する国家作用」です。
もう少し、わかりやすく言えば、裁判所に訴えられた事件に、法をあてはめて、解決するわけです。
ただ、今、「法を宣言する」という部分を省きました。
法律を単純にあてはめるのではなく、法律などの法源を解釈して、これが法だというものを宣言する、最終的な権力が、司法権なのです。
ですから、裁判所の判断次第では、ある法律の規定が無に等しいものになったり、拡大して適用されたりします。
そういった意味では、司法権の権力は非常に強大です。
また、だからこそ、司法権の独立はきわめて重要であり、三権分立を主張したことで有名なモンテスキューが、一番主張したのも、司法権の恐ろしさと、司法権の行政権からの分立でした。

憲法裁判所が行政権力により行われている国と比較しますと、日本は、戦後、アメリカ式の司法権を採用し、厳格に独立しているということができます。
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