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昔はグループで討議するとか、発表するとか、そういう形式の授業は少なかったのですが、今は多くなっているのでしょうか?もしそうだとしたら、その狙いはどういうところでしょうか。

というのも、私はこの形式では学力は低下すると思われるからです。

A 回答 (14件中1~10件)

質問に対する回答を先に書きますと、


・グループでの討議、発表をさせる狙いは何か。
→察するに、実践を通じて討議、発表に必要な技術(例えば狡猾さでしょうか)を養いたい。
 発表のためという目的をもたせた学習を行いたい。
 (指導要領に書いてあるそうですから、調べれば出てきますね)

・討議、発表のためのグループ形式での学習では学力が低下するのでは。
→学力という言葉の定義によります。暗記している歴史の年号等々が減り、
その結果として、平均点が下がることはあるでしょう。
ただし、歴史博士と呼ばれるような子どもの学力が高いかと問われれば、
素直にうなずくことはできません。
>ベースを付ける過程からそれをやるのはナンセンス
と仰っていることと関係付けて考えますと、
どの時点をもってして基礎学力が身についたと判断するかが大事になってきます。
例えば、学者であれば修士号や博士号をもってして、何々学的には云々という発言に価値があると見做されます。
そうしますと、義務教育を終えた時点で発表や討議の授業を解禁するのか、
それとも、(入試については合格最低点をとれば、入学が許可されますが)
学力優先で平均点を一点でも高くするために、大学に入学するまでは禁止とするのか、
といったことが考えられます。

学校での教育は全て科学ですから、2年生の学習内容の基礎は1年生の学習内容ですし、
その後もその様に続いていきます。
ともかく、高専や商業高校等といった制度もありますが、小学校から大学まで単線なのが日本の教育制度で、
全ては大学(もしくは専門学校)での学習のための基礎と位置づけることができます。

その上で基礎学力が身につかない内から…という問題意識をもつと、
今まで学習したことを差し当たりの基礎として討議や発表の授業を導入するか、
(学習は大学での学習の基礎ではあるが)何がしかの根拠をもってきてこの時点で基礎学力が身についたんだ!と線引きしなければなりません。

大学が高等教育機関であることは間違いありませんが、
果たして大学へ進学するのか高校を出て就職をするのか、
目的が明確でないうちから学習をするのが学校教育の特徴だと思います。
というのも、学校の外において何か目的をもって行動する際には、
例え小さな目的であれ目的が学習に先立つからです。
基礎学力が伴っていない人間が目的をもって行動できないかと言えばそうではないでしょう。
基礎学力を広く定義するならば、目的をもって行動できれば基礎は身に付いているようにも考えられます。
ただし、このことは授業において討議、発表といった目的をもたせた学習をさせるべきかとは異なる問題です。

明治において受験競争が熾烈を極めたのは読んだことがあります。
その中から偉人が現れたのは事実ですが、
もともと才能をもっている人間を見逃すことがないように、基礎学力という種を手当たり次第、可能な限りたくさん蒔いていくという考えに立たなければ、
受験競争の激化や平均点の向上が偉人を生み出すとは考えられません。

グループでの討議、発表という授業は良い教育のための手段として導入されているのでしょうが、
問題はやはり受験競争が大衆化していることにある気がしています。
また、受験競争を激化させる以外に学校教育にできることがあるのか、
「迷いながらも自分自身でたどった道」と仰っていますが、
そこに学校教育が関わるべきか、そもそも関わることができないのか、
学校教育をどう位置づけるのかが課題でしょうかね。


参考になりそうな本
「大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史」

参考URL:http://www.amazon.co.jp/大衆教育社会のゆくえ―学歴主義と平等神話の戦後史-中公新書-苅谷-剛彦/dp/4121012496
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この回答へのお礼

ありがとうございます。大変参考になり、納得し、安堵し、うれしく思いました。問題を言いえていると思います。このテーマを折々考えて生きます。本当な考えないほうが幸せなのかもしれません。

結局はつじつまあわせの感が多々あります。

お礼日時:2008/07/05 01:16

“この形式では学力は低下すると思われる”とは、何を基準になさっているのですか?


また、garcon2000様のおっしゃる学力って何ですか?

基準は、“そういう形式の授業は少なかった”時代についておっしゃりたいのは理解できます。
そして文脈から、garcon2000様も“そういう形式の授業は少なかった”時代を過ごしてこられたのだと想像できます。
ところがそのgarcon2000様の書き込みを拝見すると、かなり誤字が多いのです。

少なくとも私は、学力が高くなればなる程、誤字は少なくなると思います。
“そういう形式の授業は少なかった”時代を過ごしてきたであろうgarcon2000様がこれだけ誤字だらけでは、
いったい、「何が基準?」「何が学力?」という疑問が湧いてきます。

揚げ足取りと思っていただいて一向に構いませんが、
こちらは真剣に聞いております。
恐れ入りますが補足をお願いいたします。

この回答への補足

誤字が多いのは、めがねをはずして、しかも短時間で書き込んでいるからです。失礼しました。

補足日時:2008/07/03 10:59
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明治の勉強は確かに暗記量も多かったでしょうが、暗記だけでなく自分で考え、自分の意見がいえなければいけませんでした。


暗記量だけでなくすべての勉強の量が多かったんです。
明治~戦前と戦後~今の大きな違いは外交を見れば一目瞭然だと思います。
明治~戦前はちゃんとした自己主張が出来ました。
そのおかげで日本はいち早く不平等条約を破棄させ、平等条約を結び、日英同盟などを結べるような国家になれています。
自己主張が出来たためにアメリカとの対立に陥り太平洋戦争が始まったという考えも出来ますが・・・
戦前戦中の教育を受けたお父さんは頑固親父が多かったです。
これはちゃんと自己主張が出来たからです。
戦後の暗記偏重の教育になればなるほど、自己主張が出来なくなっていきます。
明治~の時代が十分に成長できたのは暗記偏重でなく、他の勉強にも力を入れていたためにちゃんと自己主張ができたからだと思いますよ。

また今の時代はインターネットと携帯電話が広まったおかげで、昔ほど暗記力が必要でなくなっている部分も有ります。
昔は外に出れば手帳に書いてあること以外は頭の中に入れておかなければいけませんでした。
しかし今はちょっとした情報なら携帯電話で調べることが出来ます。
ノートパソコンをつなぐことが出来ればもっと詳しいこともわかります。
昔よりも暗記の重要性が落ちています。
その分、その情報をいかに生かすか、自分の考えをいかに主張するかなどの方が重要になっています。

そして暗記というものは家で一人でも覚えることはできるものです。
グループ討論とかディペートなどのようなものは複数の人間が居ないとできなく、また指導者が居ないと、最初っから自己主張の強い子が一方的に意見を言うだけに終わる可能性もあるために指導者が居た方が効率よくなります。
暗記偏重より、暗記も自分で考えることも集団の中で発言することもまたは他のこともさまざまなことを勉強させた方がよいと思いますよ。
そういう中で自分は暗記が得意、発言することが得意、発想が柔軟だ、頭の回転が速い、じっくり物を考えるといい考えが浮かぶ・・・など色々な自分の特徴が見えてきて、高校、大学と自分の得意なものを伸ばすような勉強をしていくようになれればなお良いと思います。

人には色んな個性も有り、得意分野も有ります。
頭のよさも人それぞれ違います。
暗記力だけに特化した子供を重要視してもそれは片手落ちなことになると思いませんか?
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この回答へのお礼

やはり、教育がスパルタだったから、優秀な人間が多数出ましたし、国民の程度も高かったんですね。創意もテストで盛られているとは思いませんでした。
暗記力だけでない、総合力が求められるでしょうね。しかし、やはり、大本になるには、その創意を創出する知識の蓄えなくして何事も生まれえません。これは、便利さと裏腹ですね。なにか法則めいたものもある気がします。

お礼日時:2008/07/05 01:11

> みんなで考えて答えを出しやすいでしょうか?それは結局「できる子」が一方的に開示するだけじゃないでしょうか。


>確かに、グループで集団的に形作る、それはひとつの勉強でしょうが、それは「学力」とは関係ないいわば体育の授業でやるような「集団行動」の一種ではないかと。

これではグループでの討議にはなってないですよね。
当然グループ討論で誰かがこんなことをしたらその子は失格です。
テストで言えば赤点。
答えが出しやすいからグループで討論をするのでなく、
みんながいかに自分の意見を言い、それに対して押し付けでなく相手を説得させるかの勉強です。
そして、意見を言わない人の意見をいかに聞きだすかの勉強でもあります。
また自分の意見が採用されないことも有るということの勉強でもあります。

garcon2000さんは学力をテストで良い点数を取るための力と考えてないでしょうか。
学習とはその学力をつけるために暗記することと思ってないですか?

例えそうであったとしても、勉強とはそのような暗記で得た学力だけを向上させればいいものではありません。
いくら学力が有っても自分の考えを主張できなければ暗記で得た学力を生かせません。
主張するだけで押し付けてしまっては、相手は反発していくら良い意見を言っても採用されなくなります。
いかに自分の暗記で得た学力を効率よくいかせるかもかなり大事な勉強ですよ。

もう暗記が中心のテストや受験のための勉強ではいけないということがわかっています。
だからそういう勉強の時間は減り、今まであまり力を入れられることの無かった部分に力を入れられるようになってきています。

学校の勉強は暗記するだけじゃないです。
そこを勘違いしたために日本の学校の勉強は詰込教育になりそれを批判されても、単に暗記量を減らしただけの詰込教育をゆとり教育と称するようになりました。
実際に生きる知識をつけるためには詰込教育でなく、自分で自発的に考え、自分で学び、表現をする勉強にも力を入れていかないといけないんです。
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この回答へのお礼

暗記が中心であった時代、極端に言えば明治期です。あの時代の教育はすさまじく、及第できないとすぐ落第だった。しかも、その暗記量たるや子供にそんなこと覚えられるのか?というような、子供の世界にはない言葉考えを呪文のように唱えられるように教え、試験では入社面接のように複数の教師の前で暗記力を開示しなければならなかった。。。

これは極端です。しかし、こういう時代で日本が延びて言ったことも確かだし、優秀な人材が多数輩出しました。こういう教育がなければ、日本はろくな国にならなかったと思いもいますよ。

なので、グループ討議で生きる力や終弾力を養うのも意味があります。しかし、それでもって、本来の学力主義というものを犠牲にしているとすれば、おろかなことではないでしょうか。

お礼日時:2008/07/01 14:11

勉強は暗記とか自分ひとりで考えることだけでなく、


みんなでひとつのことを考える。
それに対してグループの意見をまとめる。
なども立派な勉強です。

暗記などの時間が減る分そういう学力は減るかもしれません。
その代わり、別の学力がつきます。

過ぎたるは及ばざるが如し。
今までの記憶させることに偏った勉強が良くないと考えられているから、他の部分の勉強にも力を入れるようになりました。
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この回答へのお礼

みんなで考えて答えを出しやすいでしょうか?それは結局「できる子」が一方的に開示するだけじゃないでしょうか。
確かに、グループで集団的に形作る、それはひとつの勉強でしょうが、それは「学力」とは関係ないいわば体育の授業でやるような「集団行動」の一種ではないかと。

お礼日時:2008/07/01 08:30

私は50代ですが、(昭和40年代初め)私の通っていた小学校(九州の県庁所在地にある普通の公立小学校)ではグループ学習(バズ学習)が盛んでした。

そのころのことを考えても、グループ学習自体がいいとか悪いとかいうものではなく、そのやり方がうまくいくかどうか(教師の指導力や児童の資質)によって学力が伸びたり伸びなかったりするのだと思います。私自身についていえば、グループ学習だから特に学力が伸びたとか、逆に学力が伸びなかったという記憶はありませんが、理科のモーター・ベルの工作など、自分の分は速攻で作ってしまい、友達の(特に女の子の)分をたくさん作ってあげた記憶はあります。

現在の職場の若い人を見ていると、メールや携帯電話など便利なツールが身近過ぎるせいか、人と直接向かい合って話をしたり、自分の考えを他の人にわかるように説明したりするのが苦手な傾向があるように感じます。たいていの職場では個人ではなくグループで協力して仕事をしていることもあり、そうした意味ではグループ学習を昔とは違った意味で大切にしたほうが良いのかもしれないと考えています。
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この回答へのお礼

理科のモーターベルで、回答者さんご自身は、足止めを食らったんですね。そこで、学習以外のコミュニケーションがあったのだが、それは学力とは関係ない話です。いわば、遊びコミュニケーションに近くないでしょうか。
なにか、「学習」の場と「討議」練習の場と、なぜ一緒にしなくてはならないのか、どうも結び付けられません。

お礼日時:2008/07/01 08:28

学力とは? 体力(体育)・徳力(徳育)・知力(知育)をバランスよく高めることでしょうか。



 「知力」についても、単に知識を得ることが重要なのではなく、知識を得る過程で、頭脳を働かせて鍛え、得た知識を活用・応用できるようになってこそ意味があるのです。
 もうひとつ、知識を得て教養(Culture)を高める=心を耕すとは、情緒を豊かにして人間性を養っていくことも大切です。これらは直接、知識そのものがもたらしてくれるのではなく、知識の活用・応用へと、もう一歩前進させてこそ得られるものです。
人間、知識の量では、百科事典や電子辞書にはとてもかなわないので、知識の量を競っても意味はありません。大切なのは得た知識を活用・応用すること、それも[社会人」として他人とのかかわりの中においてそれが実行出来ることにあります。
 質問の趣旨に戻りますが、私の経験と知る限りでは、日本人(子供)は知識をベースにペーパテストではそこそこの成績をとっても、人お前で話すことは決して上手とは言えず、国際社会で軽んじられることが多いようです。
 現代(過去も)日本人の弱点のひとつであった人前で自分の考えを話す能力の醸成こそ、知識教育以上に現在の学校教育で力を入れるべき課題と考えます。  同時に 体育・徳育 の重要性も忘れてはならないでしょう。
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この回答へのお礼

知力はもちろん知識を得る家庭で頭脳を働かせですが、それは普通の一人学習で十分に発揮させることです。そして、教養もまた叱りです。

確かに、そのベースがあって、それを共有しましょう発展させましょうという趣旨でグループが出てくる過程は分かります。しかし、そのベースを付ける過程からそれをやるのはナンセンスではないでしょうか。つまり、
「話す内容を自分に醸成させて始めて討議するに足ることになる」

お礼日時:2008/07/01 08:25

小学校に勤務しています。



>今は多くなっているのでしょうか?

私が子どもの頃(私は50代です)より確かに多くなっていると思います。

>もしそうだとしたら、その狙いはどういうところでしょうか。

活用能力を育てるためです。知識は答案用紙の空欄を埋めるためだけにあるのではありません。私たちの身の回りに活かせてこそ学ぶ喜びも感じ、学習意欲も増します。討議では「○○の答えは何ですか?」ということはなく、根本も含めて様々な展開が期待されます。

>この形式では学力は低下すると思われる

確かにそんな面も心配なのは教員も感じている、それは事実だと思います。効率よく知識を注入するよりは無駄も多いのです。私もやり方や条件によっては学習とは呼べない事態も経験しました。でも、一長一短なのです。こんな学習のねらいは課題に主体的にかかわること。「迷いながらでも自分自身で辿った道と他人に案内されてた行った道とでは、前者の方が我が身に付いていると感じる」のと似たものだと思います。

>欧米かぶれの一端なのでしょう。

このごろは「学力の国際比較」により、国内の教育に対する要求もかわってきていますから、「欧米かぶれ」という感情的な表現はどうかと思いますが、「日本だけに通用する学力観」では社会に受け入れられなくなったというのはあると思いますね…。
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この回答へのお礼

一人で学習するという普通の勉強は、それこそ「迷いながらも自分自身でたどった道」ではないかと感じます。人から教えられようと読書で手に入れようと。むしろ、郷というか集団の中で埋もれてなにかやったつもりになるのが「案内されて」ということのニュアンスも多いのでは。

わたしの場合、聴覚に問題があり、集団討議(しかも同じ教室で何グループにも分かれて話し声の音響がすさまじい)状況で、コミュニケーションに支障をきたす事情もあり、こういう考えを助長するものなのですが、ほかにも、吃音とか弱視とか色々障害もあるかと思い、その考慮がなされないことに危険性を感じています。児童は、それこそ一律に扱えるのだという基盤でなっている話らしいので。

お礼日時:2008/07/01 08:22

#3です。



私の回答では、発表云々までは触れませんでしたが、グループで学習するということよりも、グループで「発表する」ことに問題を感じているのでしょうか?

>なぜ、学習する時間であるのに、発表する練習などしなくてはならないのか、そこからしておかしい話だと感じます。

学習指導要領に明記されています。(笑)
発表する、表現する、と言う要素も、大事な学習内容となっています。
昨今は、とりわけ、この発表・表現の能力の低下が叫ばれているようです。グループ討議と言うのも、自分の意見ばかり主張して、「ほかの人の言うことに耳を貸さない」ような人が増え、集団生活に支障をきたしている?からかと思われます。

教員採用試験の集団面接でも、グループ討議と発表は、面接科目に入っていますよ(笑)。

質問者さんの前にいる、その教師の授業のやり方がいまいちで、やる意味を感じていないだけでは?

>もっと違う機会に持てばいいのでは。
授業以外と言う意味でしょうか?授業以外でやらされるほうが、かえって迷惑な気もしますが・・・

#4での補足に質問者さんは、
「ない知恵を出し合うことになるからです。」
と答えていらっしゃいますが、ない知恵を出し合うと、学力が下がっていく理由がわかりません。また、ない知恵は出し合わないでいた方が、学力が上がるというのでしょうか。


ところで、グループ討議が増えただの減っただの、どこで仕入れた情報でしょうか?その辺りからして???なのですが。

この回答への補足

お例な後ほど書きます。
ない知恵を出し合うよりも、ひとつでも教科書に書いてあることを覚えたほうが、各人のためではないかと感じます。それが究極的に不要でも何か残ります。学んだことという意味で。しかし、ない知恵を出し合って時間をつぶしても何も残りません。

補足日時:2008/06/29 13:12
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この回答へのお礼

おっしゃるような意図を学習要領に盛り込んであると走りませんでした。昨今は自分の話しをするばかりで人のを聞かないという雰囲気が多いですからね。その点は評価できると思います。

で、もちろん発表するということにも意義があるでしょう。しかし、私の印象では、それはかなりあとでもいいのではないかと。自分では煮詰まるところまでに詰まって、あとなにか出口が見えない。みんなの中でそれを発散させたい。そういう動機があってこそ生きる気がしますね。

要は、今のグループ形式授業は、形式のための形式に過ぎないのではないか。

お礼日時:2008/06/29 13:18

 


 今70代の元中学教師が「昔、自分のクラスではグループ形式で授業をさせ・・・」といっていたので昔からやっていたのでしょう。
 
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この回答へのお礼

端緒でしょうかね。

お礼日時:2008/06/28 22:02

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