No.7ベストアンサー
- 回答日時:
信長が最も信頼した忠臣が明智光秀で、信長がいわば丸腰でいられたのも、何かあったら明智軍団に身辺を守らせればよいという目論見で、今でいえば身辺警護のSPが裏切ったのですから、ビックリでしょうね。
江戸幕府も関東には石高の大きな大名を置かなかったように、権力者が身近に大勢力の者を置くのは、よほど信頼しないとできないことで、だからこそ不思議な事件です。
動機は当人以外わからないと思います、光秀も戦国を生き抜いたつわものですから、もともと野心もあり、今が信長に代わり天下人になるチャンスと考えたのかもしれません。
また、昨今人間的にも立派な大人が、些細なことで切れて、家族を皆殺しにするという事件もありますから、ストレスが溜まって切れたのかも知れません。
朝廷も保険のつもりで、光秀に甘言を言って、裏切りを勧めたかも知れませんし、中国道で戦っている秀吉と毛利が足利義昭を仲介に結託して、信長を殺したら味方するといったのかも知れない。
珍説としては、織田信忠が黒幕で、津田信澄を連絡役に光秀と組んでおり、口封じに殺されたという考えもできる。
このあたりの事情は、光秀が敗者になった時点で、勝者によって書き換えられますから、後世には推測以外伝わりませんが、私は計画的な犯行で、一番利益を得た人間が怪しいという原則に従えば、秀吉黒幕説ではないかな。
回答ありがとうございます。
確かに、中国大返しなど、秀吉は怪しいです。
光秀には、信長に対する、大恩があります。
譜代の家来より、よそものの新参者を取り立てるなど、戦国大名多しといえども、信長しか、やっていません。
秀吉も、光秀も、信長がいなければ、世に出られなかった人物です。
光秀には、信長殺しの大義があったはずで、光秀にとっての大義とは、すなわち、朝廷だったのではないか、と推測するわけです。
比叡山焼き討ちは、朝廷にとって、真っ青になるような事件で、「次は、うちらかも」と思ったとしても、しかたないわけです。
信長が、15代将軍足利義昭を、追い詰めても、決して殺さなかったことから、朝廷にも、弓矢を向けることはない、ということは、わかりそうなものですが、朝廷にとって、足利将軍家は、新参の成り上がりで、比叡山のほうが、心理的に近かったとも考えられます。
No.9
- 回答日時:
ひとりの人間の心の内の問題ですから、自分を明智光秀の立場に置き換えて、推測するしか、ないと、思います。
ドラマの「明智光秀」の、「自身が、次世代のための捨石になる」は、無いな~と、思いました。
私の中の光秀は、反乱を成功させる・・・プライド奪回のため。
その先は、あまり、考えていなかった・・・です。
周囲への人望は、自信が、あったが、コンタクトの不徹底、内応者のなさで、己を悟った。
一切をかなぐり捨てて、這い上がるハングリーさは、自分には、ないし、そんなのは、耐えられないと思った・・・あきらめた・・・です。
No.8
- 回答日時:
これは佐久間、林の追放が引き金になっていると思います。
光秀は非常に家臣思いで、家中の結束が固く、領民にも愛された領主だったとのことです。
何をおいても一族や家臣を守ることに彼の価値観はあったはずで、そのために信長に忠節をつくしてもいたのでしょう。
しかし、だからこそ、長年の忠臣であってもいきなり首を斬ってしまう信長そのものが、逆に彼の中で問題化していったのだと思います。
そのプレッシャーの中で、信長がまったく無防備に首を差し出してしまったわけです。
そのまたとない機会に面して、魔が差してしまったのでしょう。
陰謀説が語られますが、陰謀があったにしては、他家との連携が全く取れていません。
朝廷からなにがしかの接触があったのなら、少なくとも舅の細川などは巻き込んでいるはずです。
なので、「プレッシャーの中で魔が差した」が正しいのではないか、と自分は考えます。
回答ありがとうございます。
「本能寺の変」の変わったところは、謀反人の光秀が、悪く言われず、殺された主君の信長の非ばかりが、取りざたされることです。
「親に孝、主に忠」をモットーとする江戸時代を経てもなお、そうなんです。
No.6
- 回答日時:
いろいろな見解はあるでしょうけれども、明智光秀が「単なる裏切り者」扱いにされたのは、山崎合戦に敗北したことが全てではないかと思います。
山崎合戦に敗れて「敗軍の将」になったのでみんな(きなくさい人たちは)口をつぐんだのでしょう。それをあまり深く突っ込まなかった秀吉にも腹にイチモツあったと勘ぐられても仕方ないでしょう。ちなみに加藤の乱ってあの国会議員のアレですかね。彼が演台にしがみついて泣いていたシーンがありましたが、あの真相は「加藤さん、ここまで来たんだから国会に行きましょうよ」「イヤだよ、イヤだ。僕、怖いよ」って演台にしがみいていたと思われるので、彼と一緒くたにするのは光秀公に失礼かと思われます。
回答ありがとうございます。
加藤の乱は、定まった定義がないので、なんとも言えませんが、頭もよく、常識もあり、派閥の領袖だった、総裁候補ナンバーワンの加藤紘一が、ほんの少し、流れを読み間違えただけで、一転、奈落に落ち込んだ事件でした。
加藤紘一自身には、悪い点はなかったと思います。
少し甘かったんですね。
No.5
- 回答日時:
領地召し上げの話は元禄時代の「明智軍記」に初めて出てくる話で、信じないほうがよろしいでしょう。
光秀の信長への怨恨の理由として、まことしやかに語られる話のほとんどが、江戸時代にこしらえられたお話にすぎません。例えば、丹波八上城を開城させる際に母親を人質に出す話などは、状況的にありえません。光秀が兵糧攻めで食い物のない城へ、大事な人質を送るほど馬鹿だったとは思えないわけで。
動機については、まったく不明です。
回答ありがとうございます。
素直な回答で、ありがとうございます。
今となっては、推測するしか、ないわけです。
加藤の乱を経験(見た)した私たちからすると、政治とは、本音と建前が乖離していて、まともな人間が、ほぞをかむことがよくある、ということがわかるわけです。
No.4
- 回答日時:
明智光秀は本来保守的なの性向の持ち主でした。
これに対し織田信長は進歩的というか革新的思考の人であり、性格的に相容れない同士という関係でした。
さらに信長は重臣といえど役に立たないと判断すればどんどん更迭し追放していました。
光秀は対朝廷工作に秀てて重用されてきましたが、信長が自身を神として朝廷を蔑ろにする意思を示したことからすでに彼の役目が終わり、いつかは追放の憂き目をみるかもしれぬと恐怖を感じていました。
さらに中国攻めで苦戦している秀吉への援軍を命じられ、合わせて長年苦労して経営してきた丹波や近江の領地を返還させられ、代わりに当時まだ毛利の領地であった因幡などを与えられたのです。
しかも当年の年貢を徴収することを許されず、即刻援軍に出発せよと命じられました。
光秀としては裸同然の状態で出陣することになり、信長からいよいよ冷遇されることになったかと誤解したわけです。
過去の信長に対する奉公が無に帰したと考えたわけでそれくらいならいっそ反乱して信長を倒すほかはないと決意したわけです。
まさに窮鼠猫を咬む行動でした。 急な決定であったので組下の武将や縁戚の武将にも連絡をとるひまもありませんでした。
反乱に同心してくれると考えた武将たちに裏切られ、結局山崎の戦いに敗北しました。
朝廷が信長に恐怖を覚えていたのは事実で最初は光秀を支援する動きを見せましたが天下の趨勢に従わざるをえなかったのです。
回答ありがとうございます。
信長に冷遇され、追放された武将は大勢います。
織田家譜代で、信長と次弟との争いで、信長に味方した者(名前は忘れました)まで、追放されています。
私は、光秀の教養や人格から考えて、彼自身と、周りをも、納得させられるだけの大義がなければ、光秀は、信長殺しを、しなかったんじゃないか、と思ったからです。
No.3
- 回答日時:
こんにちは。
意外とこういうとかも知れませんよ↓。
http://www.geocities.jp/sou_nihonshi/honnnoujino …
参考URL:http://www.geocities.jp/sou_nihonshi/honnnoujino …
No.2
- 回答日時:
主家を倒すことは、あの当時ではよくあること。
光秀に関して、特別にその理由を求めるのは、光秀を倒した秀吉の後継である家康が徳川300年を築いたからです。
信長自体も、織田家本家と尾張守護家である斯波家を倒して尾張を統一しています。
二君に仕える
1568年 信長上洛段階では、幕臣は織田家と合体中というか、今の感覚で言えば、「天下ホールディングカンパニー」という持ち株会社の名誉会長が足利義昭で、社長が織田信長。その下に織田株式会社と、幕臣株式会社、浅井株式会社があったというような感じ。
細川昭元とか一色義道とかが幕臣グループといえば幕臣グループです。
足利将軍家旗本軍団ともいえる諸家が、近畿から濃尾にかけて存在し、明智光秀もその一人ではなかったかという説もあります。他の例で言えば和田惟政も同様です。
回答ありがとうございます。
確かに、主家殺しは、よくあった時代です。
光秀の謀反だけは、ことさらに、有名です。
時代の流れを変えたからです。
また、光秀本人が、教養人であり、秀でた武将だったからです。
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