アプリ版:「スタンプのみでお礼する」機能のリリースについて

ラ・ロシュフコーという人の言葉です。

この言葉に、「なんと機微に通じた言葉だろう」と感嘆できる人は現代では皆無なのでしょうか?


寺田寅彦『丸善と三越』 http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2437_ …

田舎(いなか)から出て来た自分の母は「東京の人に物を贈ると、まるで狐(きつね)を打つように返して来るよ」といって驚いた。これに関する例のP君の説はやはり変わっている。「切手[商品券]は好意の代表物である。しかしその好意というのは、かなり多くの場合に、自己の虚栄心を満足するために相手の虚栄心を傷つけるという事になる。それで敵から砲弾を見舞われて黙っていられないと同様に、侮辱に対して侮辱を贈り返すのである。速射砲や機関銃が必要であると同様に、切手は最も必要な利器である。」いかにもP君の言いそうな事ではあるが、もしやこれがいくぶんでも真実だとしたら、それはなんという情けない事実だろう。

A 回答 (8件)

えーと、これは質問?意見?

    • good
    • 0

関係が無いかも知れませんが、


入院時の病気見舞いを頂いた人に返す快気祝いは、
退院後一ヶ月くらいの間にすべきとマナー本に書かれています。

しかし母は退院後半年乃至一年後つまり相手が見舞いをしたことを
すっかり忘れているころにするものだと常々言ってます。

この件に関してはマナー本より母の考えが正しいようですね。
    • good
    • 0

遅いか早いかは相手によりますね。

恩を忘れないというのは同じですが初めての人は「忘れては大変なので」すぐ送りますし、兄弟や身内、特に親しい間柄では遅くなることもありますね。いつでも恩を返せるという安心感ですね。田舎では返しは盆正月でいいという考え方もありますね。いつでも同じとこにいますからね。つまり、環境や状況によるのでしょうね。都会人はそういう意味ではせっかちな部分がありますね。引越しをしょっちゅうしている人もいますしね。
つまり、
「あまりに急いで恩返しをしようとするのは、一種の忘恩である。」
には人間不信が感じられるということですかね。
    • good
    • 0

もののやりとりには、大きく分けて「贈与」と「交換」の二種類があります。



仮に、大昔、質問者さんが山に住む人で、リンゴがたくさん採れた。そこで海辺の村へ行って、魚と交換してもらいます。リンゴ30個だと、魚10匹が適当だな。海辺の住人と質問者さんのあいだで相談はまとまり、交換は成立します。

そんな取引を、リンゴの収穫の季節のたびに、何年も繰りかえしてきました。質問者さんと海辺の人も、最初は単なる交換相手だったのに、徐々に顔見知りになり、交換を重ねるにつれ、少しずつ関係のない言葉を交わすようになっていく。山の生活、海の生活、それぞれの生活の苦しさを互いに知り、相手に対して友情が生まれていくとします。

ある年のこと、いつもどおりリンゴの季節に質問者さんは海辺の村へ行く。いつもの交換相手が重い病気を患っていて、漁に出られなかった。だから交換できない、というのを、質問者さんは気の毒に思って、持ってきたリンゴを「これはお見舞いだよ、早く元気になってくれ」と言ってあげるとします。これは「交換」ではなく、「贈与」です。

つまり、「贈与」が「交換」とちがうのは、「相手から等価の見返りを求めない」ということです。

時代はぐっとくだって現代です。
質問者さんが恋人にクリスマスプレゼントとして、2,8000円のカシミヤのマフラーを買いました。これ、プレゼントだよ、と差し出した瞬間、相手が財布を出して2,8000円をくれたとします。質問者さんは大変侮辱されたように感じる、もしくは、ああ、この相手は自分のことが嫌いなんだ、というふうに思いませんか?
これは贈り物の否定というより、相手は「贈与」と受け取らず、「交換」にしてしまったのです。

わたしたちは嫌いな人間に何かをしてもらったとき、どうも落ち着かず、一刻も早く「借り」を返そうとする。
逆に、好きな人に対しては、何か贈り物をしたいと思う。自分を好きになってほしい、自分の趣味を認めてほしい、みたいな下心がないわけじゃない、でも、それ以上に、好きな人に何かを贈るのがうれしい。
上司は「おれの酒が飲めないのか」と言って、部下に酒を強要します。
おばちゃんは知らない人でも「これ、食べな」と言って、アメを差し出します。

このように、わたしたちは物のやりとりをしながら、一緒に気持ちのやりとりをしているわけです。贈る側は自分の精神的な満足や、相手からの敬意や、自分の地位を確保しようとして、物を贈っている。

このとき、与えられた方は、受け取ることによって一種の負い目を感じます。受け取ってくれるというのは、その負い目の感覚を引き受けてくれるということと考えてもいい。だから、「すぐに返さない」ということが重要になってくるのです。時間をできるだけ短縮しようとするのは、「負い目」を長い間感じていたくない、ということでもあります。

そうして、この相手との関係を継続させようと考えた場合、一定期間「負い目」を引き受けたのち、相手に「お返し」をします。そこから「贈与」は再生産されていく。「贈与」の再生産というのは、関係の継続でもあります。

逆に、こうした「負い目」を感じたくないときは、「贈与」ではなく「交換」にしてしまえばいいのです。
上のマフラーの例のように「等価」のものを「即時」に返すことによって。

ラ・ロシュフコーは「恩」という言葉でこの「負い目」の感情を表現していますが、「あまりに急いで恩返しをし」ない、というのは、贈与を成り立たせる基本的な条件なんです。

> 現代では皆無なのでしょうか?

この「贈与」という問題を考察したのは、文化人類学者のマリノフスキーや、社会学者のマルセル・モースなんですが、彼らはいわゆる「原始的」な共同体を考察して「贈与」という原理を見いだしています。もちろん、クリスマスやヴァレンタイン・デーやバースディ・プレゼント、お歳暮などに見られるように、わたしたちの社会も、この「贈与」の原理はさまざまなところで残っているのですが、市場経済が登場して以降、純粋な取引(フェア・トレード)が交易の中心となり、わたしたちの日常の人との交流もその影響を受けています。

特に、寺田のいう「切手[商品券]」というのは貨幣の代用品と考えていいと思うのですが、貨幣の登場によって、わたしたちの関係は引き離された、という考察がいくつもあります(ここらへんは貨幣論に関する本を見てください)。

それでも、わたしたちが「相手のうれしそうな顔が見たくて」贈り物をする。
何かをもらったら、「ありがとう」と言って、かならず一拍おいて(この一拍というのは、文字通りの一拍から、数日、数週間、数ヶ月と時間はさまざまですが)「実はわたしも……」と取り出す。このやりとりの根っこには、いまなお「交換」ではなく「贈与」の原理が残っていると思います。
    • good
    • 0

いくら恩返しをしたくても、自分の中に思いつくものがなかったら出せませんし、相手に満足してもらえなかったら自分としても失敗したと思うからですね。

何でも最適な時というものがあります。旬を待たなければなりません!?たった一つのきっかけで、言葉より数式よりもっと根源や延長拡大した何かを持てるものを人間は感じる能力あるじゃないですか。

私事ですが、この場をお借りして回答を下さった方へお詫びします。幾つものお礼が遅れているのは多忙だからではなく、不徳の致すところと、脳の回転速度の致すところと、私の運です!。急に失速したり、湧くときもあるのです。
    • good
    • 0

今 時間が無いので  寺田虎彦後の文についてははしょります。



URLも読む時間が無いのに、No5も踏まえ ふと回答したくなったんです。

そうですね。 ラ・ロシュフコーという人がどういう人か知りませんが、 私は感嘆します。

ほんとうは 恩返しとは 何もできなくても一生涯記憶があるかぎり、何かできれば、と思う心が大事なことと思いますからね。

そんな、忘恩の無い心にこそ、深く感謝したいです。

恩返しできたことが 感謝の印? できなくたっていいです。 まして 急いで済ます、なんてのが感謝?

>「あまり急いで恩返ししようとするのは、一種の忘恩である。」<

なるほど、すてきなアイロニー(ひにく)ですね^^。

No5みたいな人がいるというのに…。  感動でいっぱいです。
    • good
    • 0

昨晩は、「あまりに急いで」書きすぎました^^。



寺田寅彦の日曜日と違って ワーキングプアーの日曜日は現場があればゆっくりは休めなかったりします。

>『丸善と三越』< ざっとしか読めませんでしたが、今昼休みにいそいで読みました。

築地魚河岸の両側にあるらしい二つのデパートのことを、こんなに長々とこまかく観察し、心理描写し、それだけの事をこんなにゆったりと書いてしまう人がうらやましいです^^。

ともかく 昨晩の文には、急ぎすぎの誤りが含まれてたので訂正します。

これも急ぎです^^。

まず、通常 恩返しなんてそんなに気にする必要はないです。

いそがしい現代ならば、どんどん事はすぎていきます。

そこに人への理解と 人へのリスペクトがあればいいことです。

つまり恩返しとは 通常気楽でいいということです。

そこを決まりごとで 形だけの恩返しとかを これを「急いで」してしまうから、 この学者の文の中のP君のように、人間不信のかたまりみたいなアイロニー(ひにく)も生まれてくるのだろうけどれも、 じっさい現代人は忙しいのだから、そのへんもっと情状酌量の目で見たほうが バランスの在る捕らえ方と言えないだろうか(arayata虎彦より)

問題は 「友」を感じる心が 生涯その人の胸のうちにあればいいのではないか? それが急いで済まされてしまったら、 この世はおしまいだ^^。

時間です。 以上。
    • good
    • 0

寺田寅彦のURL読んでないですが


>「東京の人に物を贈ると、まるで狐(きつね)を打つように返して来るよ」といって驚いた。

こういう感覚、いまも残ってますよ。

「あまりに急いで恩返しをしようとするのは、一種の忘恩である。」
>「なんと機微に通じた言葉だろう」と感嘆できる人は現代では皆無なのでしょうか?

そんなことないと思います。

「施す側よりも、受ける側」とか。

急いでモノ化する、カタチ化する、そして、つき返す。それは
本来、はかり知れないものに満ちた「恩」、「いただいたもの」を軽んじることにもなるんでしょう。
    • good
    • 0

お探しのQ&Aが見つからない時は、教えて!gooで質問しましょう!