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第二次世界大戦後の中東の三大言語圏の関係についてと中東以外の(アメリカやソ連)などの政策について教えていただけませんか?

今勉強しているのですが、難しく理解することが出来ません。

A 回答 (2件)

1945年から60年の歴史を一括して説明するのは大変だ。


前に書いた中東トライアングル(トルコ=イラン=サウジアラビア)この三角形の国と友好関係を築くことで、その三角形の中を間接的に影響下に置こうというのがアメリカのグランド戦略。
で、最初にその戦略上の相手だったのが、イギリスとフランスです。
そりゃそうだ、英仏の信託統治領あるいは、保護下にあったのでうから、現在のイラクからパレスティナ、そしてエジプトまで。
なので、第一次中東戦争(1948年)では、アメリカとソ連が策定した分割案に反対したアラブとイスラエルの戦い。第二次中東戦争(1956年)は、英仏+イスラエルVSエジプトで、アメリカは英仏に圧力をかけて終戦させています。
かといって1953年には、イランの石油国有化を英米で失敗させています。
けっこう、その場その場で最適な(と、信じている)政策をとっています。そのために、いろんな政策がとられます。
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言語とはつまり民族である。


●●語を話すのが●●民族。
これが非常に簡単な定義。無論多言語の民族もいるが。
19世紀の西欧社会は民族国家 ネーションステートがデファクトスタンダード、当たり前ジャンとされた。
20世紀前半は、この当たり前が東欧に広がった時代と、大まかに理解できます。オーストリア=ハンガリーとロシアの両帝国の崩壊によって生まれました。まぁこの辺は曲がりなりに過去に民族国家だった時代もあったので、なんとかつじつま合わせした。
で、20世紀後半は、この原則が世界に広がった、広げられた時代。
中東でも、トルコ語を話す人はトルコ人としてトルコ国家に、ペルシャ語を話す人はペルシャ人としてイランに、アラブ語を話す人はアラブ人としてアラブ・・・って、ここがチャウヤン。
※ 中東も第一次世界大戦後の東欧も、きれいに民族分けができるわけではありませんが、まぁ「仮説」として民族ごとに国家になったと理解してください。
アラブがどうも変ジャン?ということで、ここで民族を考える上で、宗教も考える必要が出てくる。
宗教を否定して世俗国家となったトルコ
シーア派のイラン
そして、ワッハーブ派のサウジアラビア
この三つが、中東での大きな三角形をつくり、その間の中間地帯にモザイク上の宗教分布に、人為的な国境が聞かれた。これが中間地帯。イラクでシーア派とスンナ派が争ったり、レバノンがマロン派だ、なんだと複雑です。
ぴたっと!三角形の中で、柔らかな中間地帯があるというのが、大づかみな中東の構造です。

ここに、「近隣国は仲が悪い」というのと「俺がここでも警察官、一番だ!アメリカ」という二つの状況が入り込みます。
トルコとソ連(ロシア)は、百年以上戦い続けた仇敵。
イランとソ連も似た関係。
そのソ連(ロシア)嫌いの国に援助をして強化させるというのがアメリカの基本行動パターン。
これがざっくりした理解の軸になります。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。
大変分かりやすく説明していただきすごく嬉しいです。
流れは分かったので、具体的なソ連とアメリカの行動を教えていただければ幸いです。

お礼日時:2009/01/22 04:53

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