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 質問としましては 題名とは少しちがって 次です。
 ○ ひとは なぜ すくわれているのに すくわれているとは言わないか?
 
 へりくだり・遠慮・はにかみなどの事由は 別としてください。
 民主主義の世界が 理論上 出来あがりました。
 人びとは 世界宗教のいくつかや世界の哲学思想のあれそれに 造詣を深くして来ています。
 それぞれ 人間と社会とについて 一家言を持つに到っています。
 これだけ おのおのが 共生のちからの素を培って来ています。
 ▲ (コリント前書4:7) ~~~~~~~~~~~~~~~
 あなたの持っているもので、もらっていないものがあるか。
 もしもらっているなら、なぜもらっていないもののように誇るのか。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ でもありますから なぜ 救いを得たと言うのをためらうのでしょうか?
 この世間に生きるときには 何か そういうふつうの生活の確立を阻み また その確立を明らかに述べることが憚られるといった要素が 亡霊のごとく 飛び交っているのでしょうか?
 なぜ すなおでないのでしょう?

A 回答 (69件中1~10件)

No.55、59です。


> でも サルトルも
>  ○ アンガージュマン
>  ☆ を言っていますね。道具存在ではない自己投企のあり方を言っていますね。
> だから 誰が上だとか下だとかを言えるほど 通史的に見ることは出来ませんが
> サルトルの実存主義が それほど 蓮っ葉なものだとも思えません。

どうでしょうか?現代の日本でも世界でも、サルトルを評価する声は、もはや無いと思います。
「理想」No.665「特集サルトル・今」では、
「1970年代に入ると、日本においてもサルトルの影響力は急速に後退する」「弁証法的理性批判の企てそのものに、何か根本的な問題があったからだと考えざるを獲ない」「実践的にも、五月革命後のサルトルの活動は専ら極左小集団へと傾斜して行く」(池上明哉)
サルトルの投企そのものは、無動機の暗闇での飛躍にすぎない(伊吹浩一)
フランスで「サルトルなど流行おくれという反応には慣れていて」(生方淳子)
「サルトルの現象学的存在論は現在あまり評判がよくない」「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介)

第一線の研究者による、冒頭からの4論文がこの論調です。

> ★ だから「生活の苦難がない=救われている」のだが、『魂・精神の価値が見つからず、生きる意味が無い』ので、救われていると言わない。 / と考えたのです。
> ☆ このとき すなわち
> ★ 『実存=魂=精神  の価値』を人々は追求する。
> ☆ わけですから 
> ○ ひとは すでに かつての《すくわれている》という表明に匹敵する内容としての《価値》を じつは 知っているというふうに捉えたのです。

この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。
ハイデガー哲学そのものです。

> このとき あらかじめとしてでも
> ○ 《われは 実存している》と 闡明するところから 踏み出していくとよいのはないでしょうか?
> ☆ という問いなのです。そうすれば 人びとは 互いに 自由な批判をし合って 向上していくことができる。こう 思うわけです。
> そうしないと つまりは その程度までの公共的な表明をしていないと いつまでも 自己の内面に終始するようにおそれたものですから> 問いました。
> そういう意味では 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう

この<実存><アンガージュマン>は、サルトルそのままで、
片山氏の「無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」との批判に耐えられない、と考えます。

この回答への補足

 easy_allさん ご回答をありがとうございます。

 あぁ そうですか。そうなんですか。サルトルのことですが。
 実存主義も サルトルも 間接的にハイデガーも 論じようと思って触れたわけではありませんし そこまでの定まった評価を わたしは 持っているわけでもないのです。弱りましたね。
 専門の方に 飛び入りでもしていただいて さらに第三者からの判定を加えられれば よいかとも思いますが どうしましょう。

 紹介されているサルトル評について できる範囲で 感想を述べておくべきでしょうね。
 ▲ 「サルトルの言う自由は、徹底的な価値否定の上に成立つだけに、いかにも無内容であり、責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい」(片山洋之介)
 ☆ これは 素人目にも おかしいと言ってよいのではないでしょうか。
 ▲ サルトルの言う自由は 徹底的な価値否定の上に成立つ
 ☆ でしたら なおさら 哲学の原点であるように思いますが。たしかに 原点というのは いわば無味乾燥であり
 ▲ 無内容であり
 ☆ と言われても 仕方がないところですが それを言って 批判したというのでは 《論評》という文字じたいが 泣きます。
 ▲ 責任と表裏だと言われても、何に対する責任なのかが見えにくい
 ☆ 《見えにくい》ことと 《自由と表裏となった責任がない》こととは 別です。こんな評論を いまどきの学者は しているのですか。これは おどろきです。むろん その後の追跡をわたしがしていなかったことの証明になるのですが それにしても 日本の哲学思想は いったい どこへ行ったのでしょう。
 と口をすっぱくして 愚痴りたくなりますね。(間接的に easy_allさんを 批判したことになってしまいましたが)。

 ★ この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。
 ☆ 《体感できないけれども この〈価値〉を問い求めている(――あるいは 〈すくい〉を求めている――)なら そこには すでに すくわれている姿がある》と わたしは 言っています。なぜなら 《問い求めている》のなら 《すでに――言ってみれば 知識や見識としてではなくても いわば魂においては――知っている》と言えるからです。人格の問題としては そこまでの境地を すでに 潜在的にでも 知っていると思われるからです。知っているからこそ そのさとりや すくいを問い求めると言うべきだからです。知らないものについて 《価値》とは言わないでしょう。
 もし どうしても求めても得られないということでしたら そのかたちのない希望において 求める者は すくわれている。と言うべきでしょう。そこから 新たな出発ができるでしょうし 新たな局面が開かれるかも知れません。そういうものです。

 ☆☆ 社会的なコミットメントを意味するアンガージュマンは 自己に 逃れる余地を もう 作らないわけですから 前向きの姿勢であるように考えます。どうでしょう
 ☆ 少々 しつこいですが このように 公共の場で 社会にかんする発言をおこなうならば とうぜん 文章責任が生じます。その答責性を果たすべく 努力するのは ふつうの姿です。――という受け取りが ふつうの批評なのではないですか。
 振り子が もう一方の極に振り切るかのような批判をするとは 初めっから 何も理解していなかったことの証明ですよ。
 けっきょくのところ easy_allさんのご回答にも けちをつけてしまったようですが これは ごくごくふつうの ごくごく率直な反応になるのだと思いますが どうでしょう。

補足日時:2009/02/14 18:04
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No.55,59,68です。


>サルトルのことですが。
> 実存主義も サルトルも 間接的にハイデガーも 論じようと思って触れたわけではありませんし 

そうですね。ハイデガーの実存哲学によって、当初の問いを解こうというのは、全く私の考え方です。

1.まずサルトルですが、
引用した「理想」誌は、哲学の季刊誌としての性格上、彼がレヴィ・ストロースに論破された事を前提として、編集されています。だから私が引用した部分だけで、論理を組み立てると、ちょっと苦しいか?と思います。
サルトルは「弁証法的理性批判」の主張を通そうと、『構造主義は、マルクスをせきとめるためのブルジョアジー最後の抵抗』と言ってしまいました。
こうした発想からアンガージュマンに出ても、根底が崩れてしまっており、(当時はともかく)現代での価値は、見出しがたいと考えます。

2.ハイデガーの『不安』、ヤスパースの『限界状況』
>★ この<価値>を、現実世界で体感できないのが、現代の課題だと私は考えています。
> ☆ 《体感できないけれども この〈価値〉を問い求めている(――あるいは 〈すくい〉を求めている――)なら そこには すでに すくわれている姿がある》と わたしは 言っています。
>なぜなら 《問い求めている》のなら 《すでに――言ってみれば 知識や見識としてではなくても いわば魂においては――知っている》と言えるからです。人格の問題としては そこまでの境地を すでに 潜在的にでも 知っていると思われるからです。
>知っているからこそ そのさとりや すくいを問い求めると言うべきだからです。知らないものについて 《価値》とは言わないでしょう。

そうですね。問題は、『不安』の中にある人は、『実存』の価値を体感していないのに、
なぜ『実存』を希求して、『脱自して企投し、時間性に超越するのか?』という点ですね。
ハイデガーは『自らの生が有限だと自覚し、死に先駆して決意する』と言い、
ヤスパースは、『他の実存、または超越者と交わって、実存する』と言いました。

私なりの乱暴な解釈ですが、精神・魂の価値に覚醒した先達の生き方を見て、または神に祈って、実存する。と思っています。


> もし どうしても求めても得られないということでしたら そのかたちのない希望において 求める者は すくわれている。と言うべきでしょう。
>そこから 新たな出発ができるでしょうし 新たな局面が開かれるかも知れません。そういうものです。

そうですね。先達・神を出会わなければ、現存在としての欲望だけで、すくわれている、と彼は感じて、不安・限界状況を忘却して生きるでしょうね

この回答への補足

 easy_allさん めでたし めでたし!!!!!!! ご回答をありがとうございます。

 ★ そうですね。先達・神を出会わなければ、現存在としての欲望だけで、すくわれている、と彼は感じて、不安・限界状況を忘却して生きるでしょうね
 ★ すくわれている、と感じる
 ☆ から さらに一歩 踏み出していただいて
 ○ 《すくわれている》と――つまりは 現代人は なかなか みづからの魂の希求する現実存在のすがたを実現し得ないのだけれど しかも われわれには 大いなる希望がある 祈りがある ゆえに このかたちのない希望においてでも じつは じつに すくわれているのだと――宣言する
 ☆ にまで 進んでいただきたいとは思いましたが 何はともあれ めでたし めでたし!!!!!!! 互いに 人間ですものね。

 もう サルトルの弁護をするものではありません。ありませんが いいことも言っているという一つの事例を――ちょうど この質疑応答をとおして―― 知りましたので そのようなことがあること自体は 確認しておきたいと思います。ほかの方からおそわったものですし 掲げるだけですが。――
 ● 翠川 博之:《対話化されたモラル――サルトルの演劇作品における「対話」を巡る考察――》
 http://www.sal.tohoku.ac.jp/French/document/doct …
 → ● 《Q:未来は、存在していると証明できますか》 
  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4409643.html
 ・そのNo.64に わたしの寸評があります。

 もう一点 どうしても添えておきたいものがあります。
 ● 《Q:ソシュール: 「もの」が先か「言語」が先か?》
  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3187871.html
 ・ ここでは 全編にわたって 言語学のかかわる範囲での《構造主義》を取り上げ 吟味し 批判を展開しています。質問者も 回答者の一人であるわたしも どちらも ソシュールもしくは丸山圭三郎の《言語記号の恣意性》説に対して 異論を持つものです。
 ・ 簡単にいえば 丸山は 《自然と文化》の対比において 後者の文化の抱える《錯乱》状態を あまりにも特出させて それだけにおいて 世界を見ている。すなわち 自由意志の恣意性が 宇宙いっぱいに ひろがって もはや《不安・限界状況》は 極度に達している。しかも それこそが 人間の《文化》というものの あり方なのだと説く。《社会構造》の前には 人間存在は 《無主体》であるしかないのだと。
 したがって わたしは 自然ないし 人間の自然本性 これにも 期待することができるのではないかと主張しています。しかも 加えるに 《超越者》の存在も 人間存在のあり方に かかわっていると言うべきでしょう。
 サルトルの批判とは別に 構造主義じたいの問題として 吟味すべき事柄があると考えるものです。

 きわめて 中途半端になりますが 覚え書きとしてでも 確認の糸口を添えておきたいと思いました。

 現代人にとっての問題として hakobuluさんは 精神分析の方面を 提出して来られましたし easy_allさんは 現象学ないし実存主義の思想的ないとなみを出して来られました。まだまだ この緑野たる世界には 課題が多いようです。

補足日時:2009/02/17 18:53
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ん~僕の理解能力をはるかに超えた補足だったのでこれで失礼します


正直ぜんぜん分からなくて申し訳けないというか自分がご自身を理解していなかったようで、それではまともな回答が来ることを祈っています、それではさようなら

この回答への補足

 お礼欄をおぎないます。

 ☆☆ わたし自身が 無遠慮人ですから。
 ☆ これについては 《真理の探究にかけては》という条件文をそえて読んでください。
 お詫びして この訂正をおぎないます。

補足日時:2009/02/14 18:20
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この回答へのお礼

 分かりました。
 いづれ 自由に 話せるときが来れば いいですね。

 * 逆に いい方法としては 《失礼を承知で 徹底的に 疑問を提出します》と言って 質問攻めにすれば よいわけです。わたしに関しては 遠慮が要りません。わたし自身が 無遠慮人ですから。

お礼日時:2009/02/14 11:19

#60です。



>とんちんかんがあると思います。
:ご謙遜でしょうが、私の場合は頓珍漢と言われて否定するだけの学問的背景は持っていません。
素人というのは謙遜ではありません。(んなこと自慢してどうする)
いつも「>ぶっつけ本番」です。
もっとも、この方面におけるいわゆる専門家という人々の言説に、あまり重きはおいてもいませんけれども。
参考にはさせてもらっていますが、結論はおそらく出ていないことでしょうしね。
閑話休題。

>人間という現実存在は そういう条件のもとに 生きているのだと考えます。
:この箇所に惹かれましたね。
単に、私が、「超自我による本能の抑圧」に関して、いつもそのように感じているからなのですが。
なぜ動物とは違うのか、という点においてです。
本能の壊れた生き物と表した学者もいたように思いますが、いわゆる素直さが失われてしまったわけです。
良きにつけ悪しきにつけ。

>《超自我による本能の抑圧》≦《わたし》≦《信仰》
:生まれたばかりの動物の赤ちゃんは最初に目にした動くものを母親と認識するようですが、それも信仰と呼べることになるのでしょうか?

【このご質問に関しては】これ以上あまり多くを煩わせるつもりはないのですが、この点だけ最後に教えていただければ有難いと思います。
 

この回答への補足

 hakobuluさん どうも ひょっとすると――まづは ご回答 ありがとうございます―― 
 《Q:情欲は罪だと言おうとしたのは なぜか》 
  http://oshiete1.goo.ne.jp/qa4668146.html
のほうの問題であるようにも思えるのですが どうでしょうか。
 本能もしくは自然身体の欲求が 情欲だけに限るわけではないですし この《情欲》というもの自体が では 人間にとって 単純に本能と言ってよいのかという問題もあるように捉えているのですが どうも ここに来て 複雑になってまいりました。

 まづ
 ★ 生まれたばかりの動物の赤ちゃんは最初に目にした動くものを母親と認識するようですが、それも信仰と呼べることになるのでしょうか?
 ☆ に関しましては こう考えます。超経験たる絶対と 相対世界に生きるわたしとの関係としての信仰は そのきっかけには 世界のあらゆる歴史やものごとが 成り得ます。人それぞれでもあります。文学的には あらゆる自然および社会の現象が 神からの手紙であるというものです。どの手紙を どういうふうに読むかは その人それぞれです。赤ちゃんにとっても そのような伝言が 母親をとおして 届いたということがあるかも知れません。

 さて 情欲ですが つまりは この題材を取り上げて 超自我のことを考えようとするのですが 先のわたしの質問は 一たん 閉じましたが まだ 正解を得るには至っていません。いくつかの問題点がありますが ここでは 次のことを取り上げます。
 身体の生理は 女性の場合のように すでに身体が身体のほうで仕事をすることもあるでしょうし いくら我慢しても その欲求に いづれは 応じるという場合もあります。情欲は これら二つの事例を じつは さらに超えて (a)同じような身体の自然的欲求の部分と そして (b)これを むしろ理性によって〔――むろん 制御する部分も ありますが それでも 逆に――〕 自由に自分に都合のよいように 働かせるからこそ欲求として現われる部分とが あるように感じます。
 たとえば
 ▲ (パウロ:ガラテヤ書5:17) ~~~~~~~~~~~~~
 肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことができないのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ というとき 《霊》は 《絶対》のことですが したがって 《肉》とは 相対世界における経験存在であり つまりは 人間の《身体および精神》の両者を含みます。
 先に述べた話と絡み合わせれば 《理性が もし 情欲を おのれの望みと意志のおもむくままに みちびくならば この理性の欲するところと 霊とは 互いに 相い反する〔場合がある〕》というものです。おそらく 通俗的にも言わなければならないと思われることには 自然生理の情欲を 理性が 手当たり次第に 実行に移すというのであれば そこには 《おのれの心にとっての うそ》があり それは 《悪》であり たぶん 《霊=絶対=神》に対しては 《罪》になるであろうと考えられます。
 問題は このとき 《超自我》は どこに位置して どのように 働くかです。《本能を抑えるだけではなく 理性による本能の恣意的な〈活用〉 これをも 抑えようとする》でしょうか。そうだとしても それは 同じ理性あるいは精神〔の記憶という秩序作用やその知解作業そして意志=愛の判断行為〕のことだと言い得るのではないでしょうか。
 ここまで来ているのに さらに 第二幕とも言うべき課題が 持ち上がりました。以上は わたしの尋究であり hakobuluさんへの問いかけです。
 信仰の徒は パウロによれば
 ▲ (ガラテヤ書5:24) ~~~~~~~~~~~~~~~~
 キリスト・イエスのものとなった人たちは、肉(* 身体および精神)を欲情や欲望もろとも十字架につけてしまったのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ だそうです。なんとも いやはや。
 これは 将来すべきこととして 抱き 臨むことが ただしいと言われます。ただし その原点あるいは出発点は すでに 形成されていると言えるのではないでしょうか。あの《賭け》の時点から始まっています。

 * つねに そうですが 飽くまでも 対話ですよ。
 * どうも 一面としては 人びとは 《超自我》という概念ないし観念に 振りまわされているようにも見えてしまうのですが どうでしょう? 《本能》については 人間にあっては 壊れているという見方についても すでに 触れておられますし。

補足日時:2009/02/14 11:13
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言っても無駄かもしれませんが


>分析内容を 批評していただく場に 早く 戻って欲しかったのですが。一たん わたしが 譲歩してものを言っているのを そのまま そのとおりではないかと応じられれば もう 信頼関係は なくてもよいという態度に出られたと思わざるを得なくなってしまいます。>
↑これが偏見なんですよ

この回答への補足

 直前から続いてになります。

 直前(No.64補足欄)でのお応えの中に引用したわたしの文章は 次のあなたの文章に対応するものです。
 ★★ (No.30回答) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  勝手に分析して怒られるかもしれませんが、おそらくですよ失礼な書き方になると思いますが思い切って書きます
 おそらくご自身が自分が自由に振舞いたいとか待遇をよくしてもらいたいとかいう願望があるのかな?と勝手に思ったりしました、無論無関係なら別ですが関係があってそれで投稿しているとなるならばそうなのかな?と
おそらくお上のものに対する劣等感としてあらわれているような気もします、このようなのを投影とかいいますが、投影というのはおそらく90度位ずれているんだと思います、ずれているのでそのズレの部分を不当と感じるのがおそらく複雑投影ということになるのかな?と、おそらく「高慢な態度」「不当な権限」「不当な圧力」「悪行」などがズレの部分で、「待遇が良い」「自由に振舞える」「権利がある」などが投影の部分なのかな?と思ったりします
 もう一つに考えられるのは相当不当な圧力を掛けられたという経験か感化されたことがある、というのです、これはどう違うのかというと自己満足を四方八方から圧力を掛けられるということで憤りを感じるというのものです、これは投影ではなく単純に圧迫というものです、いじめられる子供と同じようなものです
 どちらかわかりませんがとにかくその反動なのかニアンスからお二階さんや統治者に対する憤慨とコントロールがうかがえます、それでコントロールの方がわずかに上回っているのでそのせいか分析がおそらく的を射ているのではないかという気がします
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ それは 《失礼》の問題を超えて――《失礼》の問題から自由になって―― 文章を著わす人の過去からの内面における社会生活の歴史は 哲学として 別にすることができる このことを言おうとしています。特に 内面と言っても その表層の心理のことがらに関しては 取るに足りません。
 内面における人生としての広い意味でのたたかいの歴史 これについては それとして 問題に出来て 話題にすることもあるでしょうが いまは 質問とその回答のこととしては 付随するというだけのことがらです。
 そういう意味を込めて 《あなたの分析は 当たっていると申しておきます》というふうに あるいは 《わたし自身の心理の投影が出ていますね》というふうな表現で 応じたのです。

 これらの確認が――つまりあらためて言って 内面の歴史 とは言っても その表層における心理的な動きとしての歴史にかんして それは いまの哲学的分析にとっては 付随的なことであるというその確認が―― 《信頼関係》にかかわっています。確認が得られなければ 信頼は ゆらぎます。

補足日時:2009/02/13 08:23
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ご自身は真髄を突こうと思っているのではないのですかね?


そういう目的なしにただ批評や合戦が楽しくて議題をだしているのなら
それはもはや哲学的分析からそれているということになると思います。

この回答への補足

 TENNTENNSEVENOKさん アドワ゛イスをありがとうございます。

 No.30で わたしが《真髄を突いた》ことを言ったと あなたが承認したあと 次の評言をわたしが加えたことが 尾を引いていますかね。
 ☆☆ (No.30補足欄) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ひとつ気になったことは あります。余談に近いものです。
 ★ 投影 複雑投影
 ☆ これは 哲学にとっては いっさい 関係ないと知るべきです。
 いくら ルサンチマンが強くても いいのです。ルサンチマンの塊であろうと かまいません。分析と理論が 妥当であれば ひとは それによって 癒やされます。世界との・また自己との和解が 得られます。
 つまりは たとえ わたし bragelone 自身が 《アマアガリ病の亡者》であったとしても かまわないわけです。問題は その意志行為や判断の妥当性いかんにあります。(その点 ニーチェのルサンチマンに関する議論は これも亡霊となってのごとく この論点では ひとに 襲いかかっている部分が 大きいようです)。
 《投影》があろうがなかろうが 理論内容の問題なのです。学者が言おうがひとりの人間が言おうが 誰が言ったのかは 問題になりません。(ま 発言の答責性 あるいは 果ては 著作権の問題さえ 別の側面では あるにはあるでしょうが)。

 現代人は 心理や精神を分析すれば かっこうよいと思っているのでしょうか。心理は心の海の表面に立った波でしかありません。精神は この心です。心理の悩みや苦しみによって 精神が病むということはあり得ません。その心の海の分析などというものは そのことを一度知って――つまりは 自己にいちど還帰して われを回復するならば―― おしまいなのです。精神分析は その入門・即・卒業なのです。能天気たるべし。(このひとことは わたし自身の主観が色濃いものです。つまり 自分の性格が 世の中で 有利にはたらいて欲しいという欲の皮が張ったところの言動です)。
 人びとは 波立つ海面にばかり なぜ 注意を向けるのでしょう? 逆に すくわれていると宣言するならば そのような海面の胸騒ぎは すべて 外からやって来たもので むしろ こちらは 相手の動揺を そのようにして 受け留めてやっているのだと なぜ 分からないのでしょう。
 ★ 投影も 複雑投影も 二重三重の投影輻射も
 ☆ どう言おうと すべては この世界において わたしの外側に起きている現象を――とうぜん 反映させているでしょうし―― 分析したものです。わたしの中に ルサンチマンがあったとしたら それは 内側にもあるということでしょうが ひとから見れば 外側のものになります。つまりは 外側の おもには 心理現象の――海の表面における波風の――哲学的分析であるということでしょう。
 そういう愛が――思いやり合いが―― 世の中には ふつうに自然にと同時に意志をとおして はたらくというべきものではないでしょうか。たとえ すくいや和解や癒やしが まだであっても そのように心理の波風を 包みこみ合い 温め合っていけば 何の問題もないでしょう。それが 心理学・精神分析の究極の結論であるはづです。人びとは 何をめんどうな・こむつかしいことを 研究し 議論しつづけているのでしょう?

 ★ おそらく「高慢な態度」「不当な権限」「不当な圧力」「悪行」などがズレの部分で、「待遇が良い」「自由に振舞える」「権利がある」などが投影の部分なのかな?と思ったりします
 ☆ 当たっていると申しておきますが このような《ズレ》や《投影》を入れて 表現することのほうが わたしの主観を 公共的な精神に仕えさせ その言論内容に妥当性を与える こう思います。それは いわゆる自己言及性の問題です。自分の問題を 棚に上げて 議論をしたり あるいは 精緻な理論を作ったりしても あまり 面白くなく 役に立つことも少ないというのが 実際であることを意味します。
 主観丸出しであっても 一般的な妥当性を持つというのも 不思議です。

 TENNTENNSEVENOKさんに対して わたしbragelone からのお小言です。いつもえらそうぶりたくなるという心理の投影です。どうでしょう。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆☆ 心理の投影・・・当たっていると申しておきますが 
 ☆ と はっきり書いたことが わざわいしたでしょうか。

補足日時:2009/02/13 08:00
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> ▲ (ヰキぺディア:確証バイアス) ~~~~~~~~~~~~~


 確証バイアス(かくしょうバイアス)とは社会心理学における用語で、個人の先入観に基づいて他者を観察し、自分に都合のいい情報だけを集めて、それにより自己の先入観を補強するという現象である。
 例えばグループに一人だけAという女性がいた場合(他は全員男性)、Aが様々な行動を示していたにもかかわらず、自分(男性)が持つ女性への固定観念に合致する行動だけを特別に認識して、「やはり女性は○○である」という結論を導くといった行為を指す。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの文章の中の どういうことがらが そうなのかを示す必要があるでしょうね。>

>回答者に対して 質問者は へりくだって 応答すべきだという意図を わたしは あなたの文章に 見てしまうからです。>これです

>ひょっとして TENNTENNSEVENOKさんご自身の問題なのでしょうか?>
どうでしょうかねそういう場合も出てくるでしょうが今回はそれは無いと思います

>わたしの場合は そもそも ひとは 自由であるという先入観をもって ひとと相い接しているとき そのように見ていても ちっとも そう(自由)ではない。したがって 一たん その先入観をうたがってみる。その結果 ものごとを再認識したものですよ。
 現実は わたしの先入観に合致していないけれども 基礎理論としては 自由は 有効である。このような大前提を あらためて 結論としたのですけれど。>

そうですか

>つまりは 既成事実の前に 自由は 非力であり無力であるけれども 既成事実のほうが むしろ無効に近いのであって この無効の事実が 単に 理論的な根拠もなく〔なったかたちで〕 有力となっているだけだという見方を持つに到ったということです。>

ん~無効といえば無効ですが既成事実も存在しなければ自由も操縦が難しいのではないでしょうか?

>その先入観だった理論について わたしは 質問の説明のなかで 触れているわけですが そのとき 現実に起きているさまざまな事柄をめぐって 誰れにでも生じる感情の動きを わたし自身にかんしても 取り上げています。>
↑その感情は疑わないのでしょうか?その感情が相手の心情をいいように捻じ曲げて捉えているのだろうと思うのですがその感情は一切疑いはしないのでしょうか?

>また そのような感情を 文章をとおして 表わすことを ちっとも 避けていない。という情況です。>
↑感情を表すことを責めているわけではありませんが感情をそのまま表す場合相手に対して攻撃だろうがなんだろうがそのまま出せばよいと思っておられるのでしょうか?下手な話負の感情が表れてきたらそのまま言語化して罵倒したり中傷したりしてよいとこう思われますか?下手したら殺してやりてーという感情があらわれてきたらそのまま殺すのが良いと言っているように聞こえますがどうなんでしょうか?
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この回答へのお礼

 TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。

 ★ (No.54)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 >☆( bragelone ) おそらく・・・わがすくいの向上にかんしてまで 感情のぶつけによって ひとさまからの反応や批判をあてにしているわけですから これほどの不届き者はいないかも知れません。
 というような分析結果になりました。どうなんでしょうね。>
 ★(TENNTENNSEVENOKさん):おそらくあたっているんじゃないでしょうか?ご自身がそう感じているのはおそらく感情の部分だろうと思いますが表明文を見る限り感情が分析を促進しているように思います。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ このように言われては 質疑応答ではなく 感情のぶつけあいになるでしょうね。わたしは その振りをしただけですが。むろん 分析内容を 批評していただく場に 早く 戻って欲しかったのですが。

 一たん わたしが 譲歩してものを言っているのを そのまま そのとおりではないかと応じられれば もう 信頼関係は なくてもよいという態度に出られたと思わざるを得なくなってしまいます。

 そこから 《確証バイアス》が 出て来たのでしょうね。
 とは言っても なんら そんな偏見など持ち合わせていませんけれど。そのことを 分からせようとして その振りをして 表現しただけなのですが。
 上に引用した応答が 決定的でしたね。
 そこから
 ☆(bragelone) >回答者に対して 質問者は へりくだって 応答すべきだという意図を わたしは あなたの文章に 見てしまうからです。>
 ☆ というふうに 説明もしたわけでした。

お礼日時:2009/02/12 22:34

神を信じたら天国に行けるとか、念仏を唱えたら極楽に行ける。

と信じてしまうからですね。

生きながら不幸因子を取り除けておかないと、どんなに至福の状況を与えられても不満足に終わることが予想されます。
この世界が既に天国だと悟れた人なら、もはや死んで天国に行きたいと願うこともないでしょうし。

誰しも順当に過ごすと当然と見なし勇気も希望も見失う。
不平不満へは敏感になり、それが生きる指標ともなるもので
不幸もあってこそ開かれる現世かも。
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この回答へのお礼

 miko-desiさん ご回答をありがとうございます。

 ★ 天国 極楽
 ☆ これらの言葉は もう死語だと思っていました。いやに 旧い情況を 持ち出して来られるのですね。
 こういう口調になってしまいますが 問題を あぶり出したいと思います。

 たとえば 江戸時代。年貢を取り立ててくる役人に対して 自己防衛と言いますか 生活防衛のために 米などを 隠しても いたようです。あるいは 田畑じたいをも隠して 耕作していたとも言います。 
 そういう辛いひどい時代を過ごして来ているのですから もっと 知恵があるはづです。捨てたものではないでしょう。中流層の人びとは 社会の支えです。
 その中のいくらかの割合が カルト宗教に ころっと行ってしまうのでしょうけれど もっと 知恵を発揮して生きて来たのではないかと思うのですが 昨今は 下火になってしまったでしょうか。
 でも 《羞恥心》現象で 元気を出して あとは 哲学ブームでも起こして 基軸となる思想(生活態度)を あらためて 築いていかなくてはいけないでしょうか。

 そのような思いで 受け取りました。現実の問題として 大きいのかも知れません。これまでの回答群とは ちがった見方ですね。ありがとうございました。

お礼日時:2009/02/12 21:10

>そうですね。

わたしが楯つくのは 回答者に対して 質問者は へりくだって 応答すべきだという意図を わたしは あなたの文章に 見てしまうからです。>

?そうなんですかどうなんでしょう自分ではよく分かりませんが、そうして欲しいとは思っていませんよ、無論そういう感情がでているかどうかは自分でもよく分かりませんが、たとえ出ていたとしてもそうしろとは一切書いていないし、へりくだって欲しいという意図は意識的にはないですね



>☆☆ わたし( bragelone )の文章は 《中身のない感情ぶつけ》です。
 ☆ と申し上げことに対して 
 ★★ そうですかwまあ僕はそうは思えませんがねwまあいいですw
 ☆ とおっしゃっていただきましたが そのあとに どうも 別の事柄が 付随しているように感じるのです。>
 >《そうは思えません》であるなら もう そこで ひとつの議論が 終わりとなります。なるはづです。
 どうも そうでもない様子ですのであたかも けんかを売った買ったというようなやり取りが つづいています。そういう情況です。そうではないでしょうか。>

まったくもって?です、おそらく早とちりというやつではないですか?
おそらくご自身の感情に抵抗的感じでぶつかるので僕の方が間違えている喧嘩を売っているという判断するというやつなのではないかと思いますよ、僕も一度ご自身のような人にえらい目にあわされた覚えがあって質問したんですが、おそらくhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A2%BA%E8%A8%BC% …でしょうね
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この回答へのお礼

 TENNTENNSEVENOKさん ご回答をありがとうございます。

 ▲ (ヰキぺディア:確証バイアス) ~~~~~~~~~~~~~
 確証バイアス(かくしょうバイアス)とは社会心理学における用語で、個人の先入観に基づいて他者を観察し、自分に都合のいい情報だけを集めて、それにより自己の先入観を補強するという現象である。

 例えばグループに一人だけAという女性がいた場合(他は全員男性)、Aが様々な行動を示していたにもかかわらず、自分(男性)が持つ女性への固定観念に合致する行動だけを特別に認識して、「やはり女性は○○である」という結論を導くといった行為を指す。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ わたしの文章の中の どういうことがらが そうなのかを示す必要があるでしょうね。
 ひょっとして TENNTENNSEVENOKさんご自身の問題なのでしょうか?

 わたしの場合は そもそも ひとは 自由であるという先入観をもって ひとと相い接しているとき そのように見ていても ちっとも そう(自由)ではない。したがって 一たん その先入観をうたがってみる。その結果 ものごとを再認識したものですよ。
 現実は わたしの先入観に合致していないけれども 基礎理論としては 自由は 有効である。このような大前提を あらためて 結論としたのですけれど。

 つまりは 既成事実の前に 自由は 非力であり無力であるけれども 既成事実のほうが むしろ無効に近いのであって この無効の事実が 単に 理論的な根拠もなく〔なったかたちで〕 有力となっているだけだという見方を持つに到ったということです。
 その先入観だった理論について わたしは 質問の説明のなかで 触れているわけですが そのとき 現実に起きているさまざまな事柄をめぐって 誰れにでも生じる感情の動きを わたし自身にかんしても 取り上げています。また そのような感情を 文章をとおして 表わすことを ちっとも 避けていない。という情況です。

お礼日時:2009/02/12 06:20

失礼しました。


お名前を勝手にブレイグローンさんと発音していました。
根ががさつなもので何事も大雑把すぎて困ります。
 ブラジュローヌさんですね。
わかりました。

> これは 必ずしも 信仰の問題として捉える必要もなく そのように言えるのではないでしょうか。
:そのこと自体には全く同意します。
おっしゃるとおり、知覚や感覚など(人間も含めた)環境からの刺激自体に本能も自我も超自我もありませんが、信仰を同一視していなかったので。
そうすると、信仰も、そのように知覚されるように「自己到来」するものである。
ということなのでしょうか。

しかし、私の読み違いでなければ「内発的」であるともおっしゃっていたように思いますが、そうすると、信仰を知覚するというのか、引き寄せるに至る内的経緯は存在したはずです。
この意味で超自我が全く関与していないとするには説得力が欠けるように思うのです。
本能のみで行動する動物には信仰が無いと思います。
無いというか必要ない、と述べるほうが適切でしょうが。

揚げ足をとるような形になって幾分は忸怩たる感覚もあるのですが、こう表明しているということに免じてご寛恕いただきたいと思います。
とお断りしつつ言おうとすることは、「自己到来」というのは、自己という認識があればこそ到来するものではないかと思います。
到来した時点で自己という認識があった、という意味ではなく、自己という認識を普段から無意識的にせよ持っているからこそ「到来」という現象も起こり得る、という意味ですが。
動物には到来しないものと思われます。

>知覚が起きたから 自我なり超自我なりが 働き出したのではないだろうか。
:とおっしゃるのはそのとおりですが、この場合の知覚には「内発的」という要素は一切ないはずです。
信仰と同一に論じることはできないように思うのですが。

> ○ 信仰は 超自我のはたらきを持つこともあれば そのまま 自我として 自己表現に踏み出すこともあり 時には あたかも本能そのものであることもある。
 ☆ という認識が得られると考えます。
:これは違うと思いますね。(専門家でもないのに断定するのはどうかと思いますが)
まず、自我というのは超自我と本能を調合した産物みたいなものです。
本能に対して抑圧的に作用する超自我なしに、たとえ知覚としてであれ信仰が「到来」することはないように思います。
信仰である以上、【よくも悪くも】本能と対峙する性質を持つと考えてよいのではないでしょうか。
しかし、信仰というものについて無知な私がこのように決め付けてはいけないのかもしれませんね・・・。
それにしても、「放縦な信仰」というものはおそらく無いような気がするのですが。

>★ 《超自我による本能の抑圧》=《信仰》
 ☆ であるなら 信仰など 要らないということではないのですか? いちいち 信仰と言う必要など さらさら ないはづです。
:とおっしゃる箇所についても、
《超自我による本能の抑圧》=《信仰》ではなく、
《超自我による本能の抑圧》>《信仰》
ということになります。

> ☆ですから わたしの善悪観は こころに尋ねて うそがないことを善と呼び うそが生じていることを 悪と呼ぶというものですから 超自我や自我には 直接には かかわりません。意志行為の問題です。
:尋ねた先(基準とした先)の心自体が超自我や自我によって形成されているわけですし、意志行為はまさに自我の発露と言えます。
何を善とし悪とするかも、結果としてそれらが大きく関わってくるものと考えます。

このへんは平行線になりそうな気もしますね。
でも、大体は私の言いたいことは(同意はできなくとも)わかっていただけたと思います(勝手に決められては困る?)し、私も同様です。
一素人としては、【今回は】このあたりが潮時かもしれません。
いつも大変勉強になります。
わかるとこだけつまみ食いしながら、引き続き拝見させていただきます。
ありがとうございました。
 

この回答への補足

 hakobuluさん ご回答をありがとうございます。

 まづ 《自我・超自我・本能》の理論について わたしは――《自我》は それだけを取り出して 用いることはありますが―― 入門で学んだあとは まったく 遠ざかっていますので とんちんかんがあると思います。hakobuluさんに 直接 おことわりしていませんでしたが ほかのところで 触れていました。
 その意味は ぶっつけ本番というかたちです。いま 並行して 学んでいくというかっこうです。もうしわけないですが そうです。

 明らかな差異が ふたつ あります。
 ひとつは 《内発的》をめぐって わたしの見方に対して 勘違いをしておられます。
 ☆☆(No.52補足欄) 〔自己到来にいたる《あざむかれ》という知覚は〕 内面に起こることですが 必ずしも内発的ではないようです。
 ☆ つまり この点では 互いに 同じ認識に立つようです。
 ★ この場合の知覚には「内発的」という要素は一切ないはずです。

 もう一点は やはり 信仰をめぐってですが しかも その定義にかんすることです。
 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 信仰を知覚するというのか、引き寄せるに至る内的経緯は存在したはずです。
 この意味で超自我が全く関与していないとするには説得力が欠けるように思うのです。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 ☆ 信仰は 非思考です。《なぞ》に対する関係です。《不思議》関係です。脳裡に少しでも表象があれば それは 経験思考に属します。つまり 表象をいっさい超えた《絶対》との関係です。
 思考に(あるいは 思考が)かかわらないということは 何ら理性や感性を含めた根拠を持たないということです。渇望していたから 信仰が与えられたわけではなく 学問が進んだから 信仰を得ることにつながったというわけでもなく 善行をおこなったからうんぬんというわけでもありません。基本的に 経験世界を超えています。その非経験と 経験存在であるわたしとの関係 これが 信仰です。したがって 信仰を持つと言っても 持たないと言っても その不思議関係じたいは 想定として ありますから どちらも 意味内容に 違いはないということです。

 ★ 超自我が全く関与していないとするには説得力が欠けるように思うのです。
 ☆ それゆえ 信仰は
 ★ 《超自我による本能の抑圧》>《信仰》
 ☆ という位置づけになるのかと推測しますが これらは 定義に反しています。

 《絶対》というのは そういう想定です。相対世界を まったく 超えたところという想定です。わざわざ 想定するのです。むろん 超自我をも超えています。いわゆる精神分析で言う《無意識》をも超えています。その《非経験のなぞ》との対面――むろん 仮構ですよ―― これが 信仰という・しかも 人間の側からは 経験行為です。
 無限は 絶対のことですが 仮りに 分割したとしても その部分は それぞれ やはり 無限なのです。そういう想定です。この《絶対》と対面するという想定です。そのとき 超自我も自我も 関係ありません。

 ただし その対面において わたしは この絶対を受け容れる――つまり信じる――と決断するなら その《賭け》にも似た行為は 経験行為であり そこでは 自我か超自我か分かりませんが 関与しているはづです。意志行為ですから。しかも このとき 《絶対》を受け容れない・つまり 絶対などは 一たん 想定したけれど ない・つまり無だというほうに賭ける場合も あります。そういう信仰の形態になります。

 有神論・無神論いづれにしても その決断をするときには 意志行為であるからには 
 ★ 意志行為はまさに自我の発露と言えます。
 ☆ ということだそうですから 自我が関与しているのですが そうだとしても 信仰の核となる絶対が 自我や超自我によって形成されているわけではありません。もしそうだとすれば それは 自我や超自我という経験に属する事柄ですから 絶対ではないし 信仰ではないということです。そもそも 定義において 超自我などは 信仰から 離れています。

 ★ 信仰である以上、【よくも悪くも】本能と対峙する性質を持つと考えてよいのではないでしょうか。
 ☆ 信仰を持つ《わたし》が 本能の動き(もしくは 単純に 自然身体からの欲求)を認識することは あります。それだけです。信仰と超自我とが 互いに 別次元であったのと同じように 信仰と本能とも 同じ次元で 捉えるものではありません。なんなら 《わたし》としての自我が 介在すると捉えては どうですか。

 そうして もし 図式的にでも ここでの諸概念を調整するとすれば こうです。 

補足日時:2009/02/12 07:36
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この回答へのお礼

 信仰は わたしを媒介として 超自我として現われたりするかも知れません。あるいはもっと精確にいえば 自我が 本能と対峙して その折り合いをつけるときに働く超自我を あたかも人格全体にとって総合的な判断をもたらしうるように みちびくかも知れません。(あるいは 自我のほうを 信仰が わたしを介して みちびくと言うべきかも知れません)。
 いづれにしても 次元がちがうのだと思いますよ。つまり 不等号が 逆だと思います。
 ○ 《超自我による本能の抑圧》≦《わたし》≦《信仰》

 ☆ そして 信仰は 自己到来の際に・すなわち《わたしが わたしである》ときに おのづから 抱いている心の明け・開けであり 伸びであると考えます。と言っても 想定であり 仮構です。しかも この虚構が 人間にとって 現実であると言えるところまで 絶対という想定は 現実的なのだと考えます。人間という現実存在は そういう条件のもとに 生きているのだと考えます。

お礼日時:2009/02/12 07:43
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