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天皇の血筋は一度途絶えて別人が継いだような話をする人がいますが本当でしょうか?
もしそうだとすれば、どの代(誰?)でしょうか?

A 回答 (12件中1~10件)

#10です。

まぁ、素人の歴史論争で喧嘩にならない程度に楽しみましょうか。

1.平将門が、桓武天皇6世か5世か、というのはそれこそ論議があるところです。私は社会科学の分野でWIKIを引用しても論証にはならない(編集合戦などがあるのがその証拠)と思っていますが、#11で引用されていますので、WIKIの文章を敢えて引用すれば「桓武天皇の孫(もしくは曾孫)で、平氏の姓を授けられた高望王(たかもちおう)の三男・鎮守府将軍平良将(平良將 たいらのよしまさ/良持=よしもちともの子」と5世説を採っています。

「と伝えられています」と書かれておられますが、つまり6世説も一つの説に過ぎないということでしょう。

しかし、仮に6世だとしても別にかまわないわけで、それなら父親の平良将が皇位に就くなら血筋は絶えたといえないのか、ということですから。

2.「同時代の史料では事績の分からない「歴史の霧に包まれた人物」です。この三人の事績は、後世の編纂物でしか分かりません。」とのことですが、全く同じことは「継体天皇」にも言えるでしょう。

平良将については、将門記・吾妻鏡では事跡が確認できます。両書とも平良将の死後200年程度で成立しています。これは、継体天皇死去から日本書紀成立までの期間とほぼ同じです。つまり、どちらも同程度に「後世の編纂物」でしか確認できない人物です。

3.「下総国あるいは常陸国の土豪」以外の何者でもなく、無位無官であり、朝廷から見れば「平民」に過ぎません。

これまた同じことが、継体天皇にも言えるでしょう。歴史を結果から見るから、「天皇の血筋」となるのでしょうが、彼が皇位に就かなければ「越前の土豪」に過ぎないはずです。書記を読んでも、それ以前に彼が朝廷の官位に就いていた記録は無い(=つまり平民)はずです。というよりも、当時(書記成立時)の感覚でいえば官位に就く=臣籍降下ですから。

4.「実際に皇位に就いている継体天皇と、反乱を起こしたことでのみ後世に記憶されている平将門を同列に論じるのは無理でしょう。」

これもやはり、歴史を後世の結果から見た感覚です。将門が5世の子孫であることは、継体天皇と同列であり、異なる点があるとすれば継体は皇位に就き将門は就けなかった(就く気が有ったのかどうか不明ですが)という点だけです。

常識的な感覚でいえば、即位から20年間大和に宮を置くことができなかった(これは日本書紀の記述です)継体が、すんなり即位できたとは考えられません。その20年間に何があったのか? 将門が関東で起こしたと同じことをしたのかもしれません。そして勝者が歴史を書いた、と考えることも「私見ですが」可能でしょう。


ところで、私のそもそもの話は天皇の5世の子孫が「それは実態としては他人」なのか、「血筋」と言えるのか、という事です。平将門はその一例として出したに過ぎず、これが別に河内源氏初代の源頼信でも構いません。彼は、清和天皇5世の子孫ですから。

質問に正対して考えるなら、その点が問われるべきだと思いますが、いかがでしょうか?
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

予想以上の回答に驚いています。
更に、私の知識の無さから皇室の系図自体を説明して頂いても、読むのが精一杯のようです。

私的には、万世一系ではなくても構わないです。
正当な血筋を引いたものであれば宮家から出なくても問題ないと思います。始祖が天皇家であれば問題ないでしょう。
そういった意味では今の秋篠宮家の息子であれば、継承権が十分存在するし、皇位を絶やさず、日本の天皇を継いでいただきたいと思うのです。

お礼日時:2009/04/02 23:44

「継体天皇が『応神天皇五世の子孫』であると言う日本書紀の記述を信用するとしても、それは実態としては他人であり、そこで天皇家の血筋が途絶えたも同然。

その論理で行くと、平将門も『桓武天皇五世の子孫』であり、東国で勢力を拡大した将門が京に攻め上って皇位についたと仮定しても『天皇家内部の争いで、天皇家の血筋は途絶えていないとなる」

という解釈が提示されましたが、これについていくつか。

1. まず、
「平将門は、桓武天皇の皇子の葛原親王の子の高見王の子の高望王(臣籍降下して平高望)の孫」
と伝えられていますので、「桓武天皇『6世』の子孫」です。継体天皇よりさらに1世代天皇から離れます。

2. 桓武天皇の皇子である葛原親王の実在は明らかで事績もはっきりしていますが、その子で後世の「公家平氏」の祖になった高棟王(平姓を賜って平高棟となる)の事績は明らかですが、葛原親王から平将門に繋がる
* 高見王
* 高望王(平高望)
* 平良将
の3名は、いずれも同時代の史料では事績の分からない「歴史の霧に包まれた人物」です。この三人の事績は、後世の編纂物でしか分かりません。

3. 平将門は、その経歴
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%B0%86% …
を見れば一目瞭然ですが「下総国あるいは常陸国の土豪」以外の何者でもなく、無位無官であり、朝廷から見れば「平民」に過ぎません。反乱を起こして「新皇」を称するまでは、公の文書には一切登場していないはずです。
平将門が関東で反乱を起こした時、朝廷は
「関東で平将門と言う者が反乱を起こした。桓武天皇の皇子の葛原親王の末裔だそうな」
と言う認識しかなかったでしょう。

4. 日本書紀に「応神天皇5世の子孫」と明記されており、実際に皇位に就いている継体天皇と、反乱を起こしたことでのみ後世に記憶されている平将門を同列に論じるのは無理でしょう。
私見ですが、平将門と皇室をつなぐ高望王=平高望は、関東で平氏を名乗り、後世に平清盛一族を生んだ「桓武平氏」を名乗る武士たちが「自分たちが平氏を名乗る根拠となる、皇室に繋がる祖先」として創作した架空人物と考えると辻褄が合います。
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幾人かの人が回答しているとおり,「血筋」とは何だという定義で回答は変わりそうですね。


日本書紀が一級資料であることを認め,その記述を信用したとしても,例えば,「継体天皇は応神天皇5世の子孫」という点はどうでしょう?
「5世の子孫」というのは,承平天慶の乱を起こした平将門がちょうど5世の子孫です。

桓武天皇-○-高望王-平良將-平将門
ですから,「5世の子孫」でも血筋だという話になると,乱を起こした平将門が京都に攻め上って皇位に就いたとしても,(それは皇室内の争いで)「血筋は途絶えていない」ということになります。

まぁ,普通に考えれば無茶苦茶な主張です。5世の子孫なんてはっきり言えば他人ですよ。ですから,継体天皇のところは途絶えたと考える方が良いのではないでしょうか。
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古代に遡って皇室の歴史を辿る史料は「日本書紀」しかないわけですが、この書物はそれほど「為政者の命によりかかれているので、不都合なことは一切書かれていません」というものではありません。



むしろ、日本書紀編纂時の皇室に伝わっていた情報を包み隠さずに、それほど整理もせずに、理屈が良く通らない所はそのままにして編纂されたと言うべきです。

例えば、継体天皇や応神天皇など、ここまでの回答者の皆さんが「皇統が途切れた可能性が高い」と指摘するような部分は、日本書紀が
「為政者の命により、都合の悪いことは省いた。為政者に都合の良いようにストーリーを作った」
のであれば、読む人が疑問を持たないようにきちんと話を作り込み、余分な情報は切り捨てる筈です。

何しろ、日本書紀が完成したのは720年、継体天皇の即位は507年、応神天皇の即位は270年です。継体天皇が即位してから200年も経っているのですから、国家権力が例えば継体天皇の即位を全く普通の即位としてストーリーを作ったとしても、誰も異を唱えることはなかったでしょう。

そもそも、この回答を見ている方々で、200年以上前(1800年ごろ)のご先祖の状況を細かに知っている方がおられますか?公家や大名の子孫でない限り難しいのではないでしょうか。

私の先祖は江戸時代の最初から最後まで続いた某藩の上士であり、先祖が某藩に仕官した17世紀初頭から明治維新までの系譜は、藩の記録と当家の記録で判明しています。明治維新以降の系譜も判明しています。
ですが、確実に分かるのは「歴代当主とその妻の名前と没年と享年」程度です。
私が「歴代当主の没年と享年から逆算した生年」を並べてみると、途中で兄弟相続があったようなのですが、実際どうだったのかは「分かりません」。
藩の文書、家の文書が概ね完全に残っていてもこれが限度です。

日本書紀の継体天皇や応神天皇や天智天皇・天武天皇を巡る描写は具体性があり、皇室にとって必ずしも名誉にならないような話も載っており、「為政者の作為が加えられた」と考えるのは無理があります。
日本書紀と言う書物を全面否定しない限り
「応神天皇の前で皇統は断絶していない」
「継体天皇は応神天皇の5世の子孫」
「天智天皇と天武天皇は兄弟」
と考えるべきでしょう。

また、飛鳥時代から奈良時代にかけて多くの女帝が即位しましたが、この方々は称徳天皇を除き「皇統を伝える男系男子が成人するまでの繋ぎとしての女帝」であり、男系による皇統は途切れておりません。
孝謙天皇が淳仁天皇を廃位して再度即位して称徳天皇となった段階で、天武天皇の皇統を伝える男子はほとんどいなくなっていました。
※ 「称徳天皇の崩御時に、天武天皇の男系子孫が皆無」ではありませんでした。下記のウィキペディアの「長屋王」の項目の系図を参照して下さい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B1%8B% …

そのため、称徳天皇の死後は、天智天皇の孫である白壁王(この人が天智天皇の孫であることには異論がありません)が、皇統を伝える男子として即位しました。天武天皇の子孫が、大津皇子の処刑、長屋王の処刑などの度重なる粛清(内ゲバ)で自滅した結果とも言えます。
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皆さんが書かれている事に追加して、最近提起されているのは天智・天武間の不連続です。


散見される年齢・呼称・エピソード等から兄・弟と言う関係が疑問視され、天武は帰化人で皇位を簒奪したという説があります。
大化の改新自体は新羅の歴史書の引き写しで実在が疑われていて(これは既に有力説)、それに係わる人物像は日本書紀の記述通りではないと思われています。
何れにせよ対外(=正史)的には皇位の正当性が主張されるので、万世一系とはある意味では神話と言えるでしょう。
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両統迭立という原則があります。


これは鎌倉時代のある天皇の後継者が2人いてどちらにするかの揉め事が
あった時に順番でとなって、以降その2人の子孫が交互に皇位を継承していくという
約束がありました。この両統迭立をぶっ壊したのが後醍醐天皇です。
よく南北朝で南朝が正統だから皇位が途絶えたとか言われますが、元々は
この鎌倉時代の両統迭立の始まりにさかのぼりますから、南北朝で皇統が
途絶えたとは言えません。
江戸時代には天皇家に子供が生まれなかった時のリザーブとして宮家が
指定されていてもし男の子ができなかったらこの宮家から男子を養子に
迎えるみたいなシステムが確立されました。その○○宮家も元は天皇の
子孫ですから、ここでも皇統の断絶はありません。

ですので中世以降は確実に皇統は途絶えていません。

そもそも書かれている歴史がすべて本当であれば天皇の血筋は絶えたことが
無いはずです。すでに他の方が書かれているように古代にはその書かれた
史実が怪しいケースがいくつかあります。
特に継体天皇は日本書紀でさえはっきり書いていないし、「継ぐ」という
漢字を使っていることから血筋ではないだろうというのが一般的な
見方です。

万世一系の血筋というのは実は日本書紀を信じればですので、日本書紀を
作ることを決めた人がそれまでの歴史を改変して、いくつかいた日本の
大王を天皇というひとつの血筋に配置したと考えられます。天皇という
言葉もこの時代に使われ始めたものです。その日本書紀を作らせたのが
天武天皇です。日本書紀は天武天皇の偉大さを書き綴ったものでもあるのですが、
なぜか天武天皇の生年が書かれていません。このため天武天皇自身が
実は覇王(それまでの王室を倒して王となった)だという意見もあります。
ちなみに桓武天皇は天智天皇のひ孫で、桓武天皇以降は男子女子とも
天武天皇の血を引く人は皇室にはいません。
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この回答へのお礼

回答ありがとうございます。

かなり難しいですね。

お礼日時:2009/04/02 23:36

天皇の血筋が続いているか、いったん切れているかは


万世一系の解釈によっても代わります(この解釈は時代で変わります
この解釈は古代と近代では違います 近代は天皇に子供がいない場合
系統の男子の子孫(少し血筋がある)が継いだ場合でも万世一系になる
というのが解釈ですが、古代はこの万世一系についてはあまり厳密に考えておらず対応はされましたが女帝や継体天皇のような例もあります
またこの子孫が本当の血筋かどうかは
古い日本書記 古事記等をたどることとなりますが、これらの
書物も為政者の命によりかかれているので、不都合なことは一切書かれていませんので信憑性は永遠のなぞです

途切れた可能性は皆さんがご指摘のとおりです

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E4%B8%96% …
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>天皇の血筋は一度途絶えて・・・



この「血筋」という範囲を、質問者さまは、「どの範囲まで」とお考えになりますでしょうか?

親から子へ、子から孫への直系だけと考えるならば、今現在もアブナイ感じです。
このまま皇太子さまに男子が生まれず、秋篠宮さまと紀子さまの御子・悠仁さまが将来的に天皇になられたとすれば、そこで、もう直系ではない事になるでしょう。

親同士が兄弟の場合なら血族?・・・さらに、その親同士なら?・・・という風に。どこまでを血族とみなすのかで、少し変わってくるような気がします。

そういう意味で、現在の天皇家は、どこかしらで「つながりがある」と、過去の文献に記載されているので、「代々続いている」となっているわけですが、すでに、先の回答者の皆様がお書きのように、その文献の記述が正しいかどうかは、未だ研究中・・・なかには、矛盾がいっぱいの記述もあります。

1、10代・崇神天皇・・・日本書紀で、初めての天皇という意味の「ハツクニシラススメラミコト」と称されるとありますが、神武天皇も「ハツクニシラススメラミコト」と呼ばれたとありますので、このまま純粋に理解すると、初代天皇が二人いた事になってしまいます。

2、15代・応神天皇・・・すでに出てますが、先代の天皇の子供だとすれば、妊娠期間がおかしく、仁徳天皇と同一人物とも言われています。

3、26代・継体天皇・・・この方も、すでに出てますが、5代ほどさかのぼった血筋の福井出身で、天皇に迎えられたにも関わらず20年ほども、都のある大和の地へ入る事ができませんでした。

4、49代・光仁天皇・・・100年間続いた天武天皇の血筋から、いきなり、壬申の乱で負けたはずの天智系へと変わります。

5、100代・後小松天皇・・・それまで、正統とされていた南朝から北朝の天皇へと変わりました。

以上がよく指摘されている部分ですが、最近では、記紀にはっきりと兄弟と書かれている天智天皇と天武天皇の関係にも矛盾するところがあり、中には、「この二人は兄弟ではなかった」と考えるかたもいらっしゃるようで、そういう「単にアヤシイ」のも含まれば、まだ他にもあるとは思いますが・・・

また、血筋を直系と考えたなら、現在の天皇家は、「119代光格天皇からの7代しかない」という意見もあるようです。
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この回答へのお礼

血筋と言っても、全くの他人で無ければ直系であると考えます。
そう考えると、繋がっているということですね?

秋篠宮家が息子が継いだとしても問題ないと私的には解釈しています。

お礼日時:2009/04/02 21:11

>天皇の血筋は一度途絶えて別人が継いだような話をする人がいますが本当でしょうか?



古事記・日本書紀・続日本書紀にも記述があります。
そもそも、「万世一系」は明治政府が決めた事です。
科学的な調査が進み、既に古代天皇についても色々と明らかになっています。
誰でも知っている「仁徳天皇陵」は、既に「大仙古墳」と呼ぶのが一般的になっていますしね。
神武天皇に至っては、この「神武陵」が幕末に15062両で新規造営した!との幕府資料もあります。朝廷の懐柔政策の一環でしようか。

>もしそうだとすれば、どの代(誰?)でしょうか?

多くの学者が唱えているのは・・・。
4世紀の崇神・垂仁を中心にした三輪王朝。
5世紀の応神以降の河内王朝。
6世紀の継体以降の近江・越前王朝。
継体天皇の場合は、その名が示す通り「天皇家の血筋が絶えたので、遠く越前まで血縁者(応神天皇の五代目の孫)を探し出して天皇に即位した」と古事記にあります。
体制を継ぐ天皇でした。

室町時代の南北朝は、一種の同一王朝内での内紛に過ぎません。
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>天皇の血筋は一度途絶えて別人が継いだような話をする人がいますが本当でしょうか?


もしそうだとすれば、どの代(誰?)でしょうか?

25代武烈天皇は皇子女を残さずに崩御し、応神天皇から始まる応神王朝は断絶し、「応神天皇五世の孫」とされる26代継体天皇が即位したことを指しているのだと思います。古代のことなので文献資料も乏しくはっきりしたことは分からなく、諸説入り乱れているわけですが、「応神天皇五世の孫」などという遠い関係で即位した例は他になく、実際は血縁関係にないという考えと、応神王朝の傍系との説の二説が大きく分けてあります。
なお、継体天皇は24代仁賢天皇の皇女である手白香皇女を皇后として二人の間に29代欽明天皇を儲け手います。欽明天皇は現皇室につながり、大王視されています。

以上、参考まで。
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