プロが教える店舗&オフィスのセキュリティ対策術

先に同著についての関連質問が存在しており甚だ恐縮ではありますが、質問内容が若干異なりますので、お伺いしたいと思います。

国家権力の最たる政治的な機構である「監獄」というモチーフをフーコーが用いた同著を、20数年ぶりに本棚から探し出し懐かしく読んでおります。

ふと思ったのですが、その「身体性」における権力のメカニズムというものは、何も近現代の「監獄」「Panopticon」ならずとも、例えば、中世キリスト教世界における修道院にまで原型として遡ることができるのではないか、ということです。
これをある種の「政治権力」とするのはおかしい発想なのでしょうか。

当時の修道院はhospis、hospitality、hospitalというニュアンスの本源的な存在であった、と若干ではありますが理解しております。
また、「神への信仰」という点など、近代法治国家の「監獄」とでは、まるでその存在理由や目的意図が決定的に異なります。

ですが、神の名のもとにおいて「信仰の力を用いて」ローマ教皇を頂点としたヒエラルキーの中に存在した修道院も、ある意味、フーコーの指すところの人間管理の装置であるPanopticonだったと考えることはできないでしょうか。

厳しい規律・戒律を自発的かつ強制的に自身に強いて働かせ、自らが嬉々として絶対服従を誓う担い手となる。
時に厳格な処罰の対象となり得る状況。
つまり、自分自身が監視し、監視される存在であるという人間管理という点においては、修道院長や修道僧、監獄の囚人、病院の入院患者など、いずれにおいてもほとんど大差ないように思えてならないのです。
そして個々人が相互において見えない権力によって行使せずとも縛られている、そんな状態であったと考えるのは発想がズレているのでしょうか。

『監獄の誕生』105頁にこう記してあります。
「最も確固たる帝国(つまり、人間支配)の揺るぎない基盤は、やわらかな脳繊維のうえに築かれる。」と。

何らまとまりがなくてお恥ずかしい限りではありますが、ご教授のほどよろしくお願い申し上げます。

A 回答 (16件中11~16件)

 こんにちは。



 フーコーについては 分かりません。ですが 《主体》についてでしたら それは まづ基本として 近代も中世も そして 古代も 区別がないというところから出発する必要があると考えます。
 デカルトの主体は アウグスティヌスの主体よりも その中身において 後退しています。その点を 参考までに お伝えしたいと考えました。

 認識の主体について 以下のような議論が出来るかと思います。

 アウグスティヌスの《われ あやまつならば われ有り》から デカルトが 《われ考える ゆえに われ有り》を導き出したことには 独自性があると パスカルが 議論しているところです。主体のあり方がどうであるかの問題です。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 わたしは公正な人々に尋ねたい――とパスカルは言う―― 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力を持たない》という原理と 《わたしは思考する ゆえに わたしは存在する》というそれとは 果たしてデカルトの精神においてと 同じことを千二百年前に言った聖アウグスティヌスの精神においてと 同一であろうか。
 (パスカル:《幾何学の精神について》2.1657)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 パスカルは デカルトの《コギト エルゴ スム》という《原理》は アウグスティヌスの《われあやまつなら われ有り(われ欺かれるなら われ有り。 Si fallor, sum. )》の焼き直しであるが 独自性があると言おうとしている。
 アウグスティヌスの語るところは たとえば次のようである。
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 だから 精神は自己自身をよく知るようにという命令を聞くとき 自己自身をよく知ることに何ものも付加してはならない。
 ・・・だから精神は 知解力が存在し 生きるように 自己が存在し 生きることを知っている。だから 例えば 精神が自己を空気であると思いなすとき 空気が知解すると思いなすのである。しかも 精神は自己が知解することを知っている。精神は自己について思いなしているものを分離せよ。自己について知っているものを認めよ。

  * 念のために この点についてのデカルトの文章です。――
  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
  そして最後に われわれが目覚めているときにもつすべての思想
 がそのまま われわれが眠っているときにも またわれわれに現われ
 うるのであり しかもこの場合はそれら思想のどれも 真であるとは
 いわれない ということを考えて 私は それまでに私の精神に入り
 きたったすべてのものは 私の夢の幻想と同様に 真ならぬものであ
 る と仮想しようと決心した。
  (方法序説 4)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 それにも拘らず すべての精神は自らが知解し 存在し 生きていることを知っている。しかし精神は知解することをその知解するものに関係づけ 存在することと生きることを自己自身に関係づける。

 さて 生きていないものは知解しないし 存在しないものは生きていないことを誰も疑わない。

  * この点をデカルトは 《物質は自然にかつ絶対に 思考する能力
   を持たない》と言ったと パスカルは書いていた。

 だから 必然的に 知解するものが存在し 生きていることは 生存しない死体が存在するようにではなく また知解しない動物の魂が存在するようにでもなく 独特な したがって卓越した仕方による。・・・
 さて 生きる力 想起する力 知解する力 意志する力 思惟する力 認識力 判断力が 空気(あるいはその他の元素)であるのか・・・どうか人々は疑ったのであった。或る人はこれ 或る人は他のことを主張しようと努めた。それにも拘らず 自分が生き 想起し 知解し 意志し 思惟し 知り 判断することを誰が疑おうか。たとい 疑っても生きており 疑うなら なぜ疑うのか 記憶しており 疑うなら 自分が疑っていることを知解し 疑うなら 彼は確実であろうと欲しているのだ。疑うなら 彼は軽率に同意してはならないと判断しているのだ。それゆえ 他のことを疑う人も精神のこのすべての働きを疑ってはならない。もし この精神の働き(または《わたし》)が存在しないなら 何ものについても疑うことは出来ないのである。・・・
  (アウグスティヌス:三位一体論10・10 c.399-421)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

  もう少し つづります。途中に差し挟んだ引用文のあとつづけて デカルトが
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 そうするとただちに 私は気づいた 私がこのように すべては偽である と考えている間も そう考えている私は 必然的に何ものか〔の存在〕でなければならぬ と。そして 《私は考える ゆえに私はある》というこの真理は・・・
 (方法序説 2)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 と書いたことは よく知られているところである。

 これらに対してパスカルは このアウグスティヌスからのデカルトの独立性を ある別の議論(つまり幾何学と論理学との関係について)の途中に一例として 軽く触れた。
 _________________________________________________________
 デカルトがこの偉大な聖者(アウグスティヌスのこと)を読むことによって初めてそれを知ったにしても 彼(デカルト)がそれの真の唱道者でないということは わたしには実際 思いもよらぬことである。・・・なぜなら デカルトがその志向において果たして成功したと想定し この想定の上に立って この言葉が彼の書物にあっては 他の人々が偶然に言った同じ言葉と違っていること あたかも生命と力とに満ちた人間が死人と違っているのと同様であると わたしは言いたいからである。
 (パスカル:幾何学の精神について 2)
 ____________________________________________________________

 パスカルは アウグスティヌスが 上に引用した文章のことばを《偶然に言った》と述べて けなしているのだが 大目に見ておきましょう。

 アウグスティヌスを顕揚するかのようですが 古代人の主体が のちの時代よりも劣るとは言えないでしょうし むしろ あとになると 後退しているようにさえ思われますが どうでしょう。
 つまり 《あやまつなら われあり》というとき あやまちに気づいたわたしは とうぜん そのことを 振り返って 考えるのです。その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを 取り出せば 《考えるとき われあり》となるはづです。
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この回答へのお礼

bragelonne様、ご回答ありがとうございます。

>《主体》についてでしたら それは まづ基本として 近代も中世も そして 古代も 区別がないというところから出発する必要がある

はい、私もこの段階にきて「そもそも≪主体≫とは何ぞや、主体の差とは一体何があり得るか」と考えあぐねておりました。
ですから、bragelonne様のアドバイスは本当に嬉しかったです。

やっぱりキザね(笑)

>デカルトの主体は アウグスティヌスの主体よりも その中身において 後退しています。

えっと、このたびの詳細な「比較」を拝察させていただき、かなりの衝撃を受けました。
確かにおっしゃる通り、アウグスティヌスの主体はデカルトのそれを包括しているかのようですね。

そもそも歴史の進展に伴い、主体論を含めた哲学、科学等が、同等同質に「進展」してきたと言えるのでしょうか。
体系的に名を連ねている哲学者や科学者の輝かしい名前や功績の影に「忘れ去られたかつての偉人達や無名の人々の遺物」が無数に存在します。
デカルトも恐らくは、彼のコギトや図表、数式の形成の過程において「地味で目立たない産物、過去に論破済みであったり無効化された遺物」から少なからず恩恵を享受したに違いありません。
でも私達は不思議とこれらの「遺物」に関心を持たず見過ごしてしまいがちなようにも思えるのです。

>その考える主体は あやまちに気づいて いわば我れに還った我れであるのですから そこの部分だけを 取り出せば 《考えるとき われあり》となるはづです。

デカルトの主体がアウグスティヌスのそれよりも「後退」しているのかどうか。
≪あやまつなら≫の部分に「神との関係性」を私は強烈に感じます。
デカルトがこの部分を切り離してしまったことにより、近代以降の人間は凄まじい勢いで時には我が身に余りあるほどの「文明の利器や知恵」を発明してきたとも言えると思われます。

普段は限りなく無宗教の意識にあり、欧米の知人より薄気味悪がられ、どちらかというと自然科学系のジャンルに興味をおぼえる性質なわたくしではありますが、さすがに上述に関して「デカルト以降の大いなる後退」をひしひしと感じることが結構あったりもするのです。

bragelonne様の「後退」とは一体何を意味するものなのでしょうか。

お礼日時:2009/04/09 02:20

No4のかたへ No1です


>中世と近代では世界観のものさしが全く違うのです。
 ここが私が記載した歴史の連続性をどのように捉えるかと言うことです。中世と近代がそれほど懸隔しているなら、何故、近代的主体が生れたのかをどのように説明しますか。
 ホイジンガを読むと、確かに中世には、独自のまとまりがあります。ここが私が、悩んでいるところです。フーコーは一見口当たりが良いのですが、実証主義としての歴史学からは、自己中心的なテキストの読み方をするとの批判が耐えないということをご存じでしょうか?

この回答への補足

『フーコー・コレクション 4 権力と監禁』
14 真理と権力 331~334頁より抜粋

━ ということは、これまでのあなたの理論形成にあたってはある種の非連続性があったということですね。 ちょうど非連続性の話がでたので、お聞きしますが、この非連続性という概念をつかって世間ではいとも安直なやりかたで、あなたのことを構造主義の歴史家、と決めつけてきたように思いますが、現在、あなた自身は非連続性についてどのようにお考えなのですか。

━ あなたのおっしゃるその「非連続性」ですが、このことばは、それを聞くたびにいつでも少々驚かされます。 最近出たプチ・ラルース辞典の自分の項をみるとこうなっていました。「フーコー━非連続性に基礎をおく歴史理論を確立した哲学者」。 これには開いた口がふさがりませんでした。・・・

・・・わたしの意図は、「いったいどうして、ある特定の時期にある特定の知の領域において、こうした突然の離脱、急激な動き、つまりは、われわれが通常抱いているような静かで連続的なイメージにはとうてい合致しないような変容が起こり得たのであろうか」という問いを投げかけることにあったのです。 しかも、このような変化において重要なのは、「その後、そうした変化が速くなるだろうか、とか、広まるだろうか」といったことではありません。 そうではなくて、そのような速さや広がりは別の現象 ━ すなわち、科学的に真であると承認されるための言語表現の形成規則が変わってしまったこと ━ の記号にすぎないという点をみることなのです。

したがって、重要なのは、内容上の変化(新しい真理の発見、かつての誤りの論駁)でも、理論形式の変質(パラダイムの更新、体系的集合の組みかえ)でもありません。 問題となっているのは、科学的に承認可能な、したがって科学的手続きによって立証ないしは反証可能なひとつの命題集合が成立するためには、いったい何が言語表現を規定し、相互の言語表現の間には、いったいどのような規定関係のメカニズムが働いているのか、その点を見きわめることなのでした。 結局のところ、これは、科学的言語表現の体制(規定関係)と政治{力関係)の問題なのです。 このレベルで問題なのは、科学に対して外部からどのような権力がのしかかっているかではなく、科学的言語表現相互間にどのような権力作用がいきわたっているかなのです。 いってみれば、科学的言語表現の内的な権力体制とは、いったいどのようなものなのか、そしてまた、ある時点になると、そうした体制がガラリと変ってしまうのはいったいどのようにしてなのか、またなぜなのか、そうした点を知ることこそが重要だったのです。
『言葉と物』の中でわたしがはっきり見さだめ記述しようと試みたものは、他でもない、こうしたもろもろの体制のことなのです。・・・

補足日時:2009/04/10 09:35
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この回答へのお礼

wisemensay様、再度のご回答ありがとうございます。
御返事が遅くなって申し訳ありません。順次お礼をさせていただきます。

>ホイジンガを読むと、確かに中世には、独自のまとまりがあります。ここが私が、悩んでいるところです。

もしよろしければ、この点につきお話をお伺いしてもよろしいでしょうか。よろしくお願い致します。

なお、こちらの補足欄をお借りしてフーコーの歴史の「非連続性」についての対話を記させていただきたいと思います。

お礼日時:2009/04/10 09:04

2の方は1の内容について言及するならば単純化をしないように願います。


主体性とは何か から話を起こす必要があるならネットQ&Aでの質問も回答も無茶な話です。
ある程度のフーコー理解、ある程度の中世理解は、知識・教養を見込んで暗黙の了解としたいところです。
たとえば、ゴシックとロマン派の比較において主体性をめぐってひとつ論文が書けます。
近代的主体にたいして仮に中世的主体というものがあるとしても、フーコーが扱う主体は近代的主体です。
中世と近代では世界観のものさしが全く違うのです。
同一の心理学の適用も不可能です。
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この回答へのお礼

amaguappa様、再度のご回答をありがとうございます。

>ある程度のフーコー理解、ある程度の中世理解は、知識・教養を見込んで暗黙の了解としたいところです。

はい、おっしゃる通りでして、これもひとえに私が無教養なゆえにセンスのない質問を立ててしまったことにつき、
なにとぞお許しをいただきたいと思います
(真面目にそう思っております。我ながら情けない。)

>近代的主体にたいして仮に中世的主体というものがあるとしても、フーコーが扱う主体は近代的主体です。

はい、これもamaguappa様が正論であるだろうと思います。
紛れもなくフーコーの『監獄の誕生 監視と処罰』において意図する主体とは「近代的主体」に他ならないのでしょう。

しかしながら、質問を立てて時間を経た今、この著書におけるフーコーの思想によって一体彼が何を訴えたかったのかと考えております。
それは「近代的な主体性そのものに関する考察」の記述が非常に乏しいゆえに、「近代以降に創出した≪「身体性」に関わる新たな権力の解明という歴史的な考察≫を試みるための単なる一つの手段」に過ぎないように思えてくるのです。

「マクロからミクロまで至る所に権力の抗争関係が絶えず可動的に存在する」という思想により、幾らでも自分の周辺において微視的な権力を発見し得るというのは、何とも痛快な気分に浸れるのは私だけでしょうか。

お礼日時:2009/04/09 06:58

ネットでざっと要約を読んできました。



>厳しい規律・戒律を自発的かつ強制的に自身に強いて働かせ、自らが嬉々として絶対服従を誓う担い手となる。

というより、心理学で、、、なんと呼ばれるのか忘れましたが、人間は犠牲が大きいほど、報いも大きいと捉えやすい。

そういう心理が働くと、不自由という監獄生活であればあるほど、その後の報いも大きいと想像し、耐えられるのではないかと。
期待が大きくなりますから。

だから中世の時代、聖職者は豪華な食事で、御殿の外にいる信者は、聖職者の館から出る残飯を我先にと争う極貧生活 ある意味 ネグレクトされた生活をしていながら、聖職者に反抗しなかった。

我慢していた先になーんもない、他の人と変わりなく死んで終わりという事実を知ったら、今までの全てのことが無に還元され、自殺してしまうのではないかと。

人々は貧しくつつましく聖職者に言うことをハイハイと聞きしたがっていることが本当は苦痛だったでしょうけど、その先に天国っておいしーエサがありますよ と言われると、その幻欲しさに我慢できてしまうのではないかと。

普通それを希望と呼びますが。
今じゃ 詐欺として世間から叩かれますが。

フランス革命の時など、市民から運動が巻き起こったかのようになっていますが、権力者の中に おかしい こんな不公平は許せないとなり、貧しい人々を率いたらしいです。

外部から指摘され ひっぱられないと、囚人たちは動かなかったってことですね。

どうして害を受けている人々が自ら率先して革命を起こさなかったのか。



囚人に一番むごい罰は、独房ですよね。
なにが辛いかというと、誰とも口が効けないこと。
ほとんどの囚人はこの刑罰でおとなしくなるらしい。

キャストアウエイって実話を元にした映画がありました。
島に流された人はある日、彼の前に島に流された人の自殺死体を見つけた。

同じ状況に陥っていたのに、彼が発狂したり自殺しなかったのは、流れてきたボールに名前をつけ、友達として扱い、話しかけていたから。


修道院では、自分に罰を加えるようにしている。
罪の責任は自分にあると認めさせるため、自分を虐待するよう指導する。

それよりもっと重い刑は、無言でいることを強いること。
かなりまいると思います。
これに懲りて上の人にたてつかなくなる。
従順な受刑者に仕立て上げられるわけです。


スタンフォード大学で二度とやってはならないとなった実験があった。

<スタンフォード監獄実験>

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF% …

『 <実験の結果>

★権力への服従

強い権力を与えられた人間と力を持たない人間が、狭い空間で常に一緒にいると、次第に理性の歯止めが利かなくなり、暴走してしまう。


★非個人化

しかも、元々の性格とは関係なく、役割を与えられただけでそのような状態に陥ってしまう。』

被験者は特別な人ではなく、無作為に選ばれ、無作為に看守役、囚人役 と分けられた。
誰でもそのような環境に置かれたら、役割に適応し与えられた役割を演じるようになり、そうやって生き延びようと無意識に行動を変えてしまう ってことですね。


これは監獄ばかりではなく、学校でも会社でも組織でも起りうる。
逃げられない状況に置かれたら、人間は生き延びるために、環境に適応しようと自らする。

ダーウインの進化論と同じ。


これが、何故あそこまで権力者、ヒエラルキーのトップに虐待されても、フランス市民が自らは革命を起こさなかったのかの理由ではないか と。


まとまりが無いですが、、、
ネットで要約を読んで、このようなことを思ってしまいました。
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この回答へのお礼

kigurumi様、ご回答ありがとうございます。

>ネグレクトされた生活をしていながら、聖職者に反抗しなかった。
>権力者の中に おかしい こんな不公平は許せないとなり、貧しい人々を率いたらしいです。

これらは上層部から下部へ権力のベクトルが向いている興味深いエピソードですね。
力の方向に可変性を持たない、故にネグレクトされようが革命が起ころうが、虐げられる側でありながら自発的に動きようがなく、認識する術も持たなかったのかも。

>囚人に一番むごい罰は、独房ですよね。

囚人の独房への隔離は修道院内における修道僧の独房生活とイメージが重なります。
自発性の有無、信仰への帰依と精神の更生矯正という差によらず、自己の精神統制や孤独に耽る分には絶妙な「装置」なのでしょう。

>同じ状況に陥っていたのに、彼が発狂したり自殺しなかったのは、流れてきたボールに名前をつけ、友達として扱い、話しかけていたから。

何とも壮絶なストーリーですね。
ボールに話しかけることによる効能を自ずと発案したのか、又は話かけずにはいられない極限状態だったのでしょうか。

私は映画『流されて』を思い浮かべました。
http://movie.goo.ne.jp/movies/PMVWKPD11717/story …
孤島に流された一組の男女、かたや傲慢な金持ち女でもう片方はいかにも分不釣り合いで粗野な下僕。
ところが権力のベクトルが逆転し、女は男に従属するようになり…という、
こんな痴話話もフーコーの意図するエピソードになり得そうな。
いえ、たった二人だけ孤島という設定は、現代社会のミクロな権力抗争から解き放たれた「真の二人の権力関係」と捉えるべきなのでしょうか。

>それよりもっと重い刑は、無言でいることを強いること。
>スタンフォード大学で二度とやってはならないとなった実験があった。

これらのエピソードは心理学の領域ですよね、絶対に実験台にはなりたくはないです、う~ん。
でも、kigurumi様を含めた私達が生きているこの社会そのものが、お互いに監視し合い不断の抗争関係にさらされているとしたら。
kigurumi様が「それを認識しなければ」可視的に浮かび上がってこないという社会というのも、ある意味不気味だとは思いませんか(笑)

お礼日時:2009/04/09 10:34

 中世と言ってもあまりに時間のスパンが広いので、考えることが多々あります。

歴史の連続性、非連続性は重要な問題であり、どちらの位置に立つこともできます。エピソードを記載することの意味も、フーコー自身の著作がエピソードの集大成とも考えることもでき、どのようにあてはめるか難しい問題です。
 あえて一例を出せば、アベラールとエロイーズの場合はどうなのかということです。アベラールの碩学は現在でも知られており、主体性の萌芽がなければ、あれほどの学問的業績と恋愛はできなかったと考えます。ましてや、エロイーズがその後、女子修道院に無理矢理入れられたことを考えると、修道院の監獄的な印象も受けます。
 ご存じでしょうが、修道院には現在の精神科的要素もありました。
 中世なので、主体性という思想を必要としないという単純な考えには私は与しません。カルスタは難しいものです。
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この回答へのお礼

wisemensay様、ご回答ありがとうございます。

>中世なので、主体性という思想を必要としないという単純な考えには私は与しません。カルスタは難しいものです。

カルスタは広汎な分野にわたり多彩なエピソードに触発され考察の柔軟性に富む反面、ともすると「美味しいところ取りのコラージュ」により勝手に自説の体を成しただけ」に陥りかねない危うさも感じます。
ただの自己満足と揶揄されないほどのものをもってしても、やはり批評・評価の格差とある程度の誹りは否めないものかもしれません。

「主体性」の話です。
先のデカルトで恐縮ですが、「たかが小学生でもいとも容易く駆使できるあの座標軸」の発明こそが相当に大きかったと私個人的には思います。
むろん古代からの代数学、幾何学の確固たる土壌があったからこそ、彼が成し得たものなのでしょう。

そして同様に、その座標軸の発明よりも遥かに超有名な「cogito, ergo sum」も、はたして彼だからこそ発明?し得たのかなと思ってみたりもするのです。
もちろんどちらも画期的であることには間違いないはずなのですが。
「わたし」について彼以前に自問し同様に考察を試みた人々はかつてどれほどいたのでしょうね。

「現代に生きるわたし」が「当たり前に」享受している「恩恵」というものは、測り知れないほど大きいものなのだ、とあらためて驚嘆し、その反面、でもやはり、あまり何てことはない事のようにも思えたりもするから不思議です。

>エロイーズがその後、女子修道院に無理矢理入れられたことを考えると、修道院の監獄的な印象も受けます。

はい、私もそのように感じます。
フーコーの意図した「近代的主体に働きかける権力」とは異質のものであるにせよ、
本来は神の下に平等であるはずの人々が、教会内の厳然たる職階に忠実な状態の下で、上層の者からの「諭し」が何らかの権力を付帯していた可能性も無くはない、そのように考えたりもするのです。
だとしたら、それは一体何なのでしょう。

お礼日時:2009/04/08 15:14

中世は、主体という思想また社会装置を必要としていませんし、


修道院において修道士らが主体を形成すると見做す視点には、社会学的にも神学的にも意味がないと思います。
(むしろ心理学でものごとを「解釈」するのがお好きなのでしょうか。)
しかし、近代の監獄において囚人らは主体を形成する、このことがフーコーにおいては重要な思考の鍵であり、
前世紀に謳歌されはじめた個人という発明品の、
社会におけるダイナミズムの暗部と病根を分析し総括する仕事に繋げられていくものです。
ご質問の最後に引かれた一文は、主体が主体たらしめられるという
domaine enclos にこそふさわしいのではないでしょうか。
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この回答へのお礼

amaguappa様、ご回答ありがとうございます。

>中世は、主体という思想また社会装置を必要としていませんし、
修道院において修道士らが主体を形成すると見做す視点には、社会学的にも神学的にも意味がないと思います。

中世以前の「主体」とデカルト以降の「主体」とに、あえて強引にひとくくりに分けることができるほどに
両者の間には「決定的な質の差」が存在する、
したがって中世の各地に点在していた頃の修道院における厳格な規律懲罰の類などというものは、単なる「人間管理の諸技術の萌芽」に過ぎない、
そして近代以降においてその諸技術を時代のニーズ(効率性、合理性、経済性)にこたえるかのように徹底し洗練させていくと共に、微視的に相互に結びつく多数の「権力」を内在させていった、と理解してもよろしいでしょうか。

「新しい刑罰制度が機能し始めて以来、総体的な一つの過程にもとづいて裁判官は、犯罪以外のものを裁くようになってきた。(26頁)」の「犯罪以外のもの」が上述後者の近代デカルト以降の「主体」、つまり「自分を認識する精神、自己」を指すのではないか、と私には思えました。

ですから、中世の修道院においてフーコーの指すところの「身体性」をともなう微視的な権力なるものは存在するはずもない。
amaguappa様のご指摘によると、私の質問自体がnonsenseの一言に尽きて、既に「fin」のテロップがデカデカと出てしまっているように映ります。

後のフーコーが「自己と自己の関係」という命題を選んでいったのは、何故でしょうね。
この手の「権力」についての思索と何か関係があるのでしょうか。

お礼日時:2009/04/08 01:53

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