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森鴎外は、軍医総監・医務局長→帝室博物館総長兼図書頭→帝室制度審議会御用掛→帝国美術院初代院長とずっと仕事を持っていました。
文学と二束のわらじで大変だったと思います。
どうして漱石のように文学一本で立とうとしなかったのでしょうか。
金銭的な理由によるのでしょうか。

よろしくお願いします。

A 回答 (3件)

興味ある問題だと思います。

逆説的ですが、鴎外は本業を形式的にしかしていなかったと思います。脚気の対策の責任者であったのに、犯罪とも言えるほどの失敗をしています。海軍の脚気対策を無視して陸軍の兵隊を無意味に死なせた罪は重いはずです。もう一つは鴎外のエリート志向があります。これは教育ママにいわゆるエリート教育の猛勉強を押しつけられた子どもが成長後もこの価値観を引きずって一生を生きるという例だろうと思います。漱石はお金の価値と限界を知っていて朝日新聞の社員になって経済的な保証を得て、その余裕で文学をやっていたと思います。鴎外は本業を適当にやりながら、やはり好きな文学をやっていたように思います。どちらが文学に専念していたのかわからないところがあります。
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森家が学問(特に医学)の家だからでしょう。


娘さんは作家になっていますが、森家の多くは学者であって、物書き(というと言葉が悪いかもしれませんが、とりわけ戦前でしたらこういう印象の方が強いかと思います)ではなかったということです。現在でも、大学の教員で「森」という名字を見たら森家の系譜を疑え、といいますが。
私の母校にも森鴎外と血縁のある先生がいましたよ。

「文学一本で立つ」よりも、鴎外の場合は「なぜ文学をつづけていたのか」の方が不思議な話ではないでしょうか。
そもそも漱石とは生まれも育ちもだいぶ違う人なので、同じ視線で考えると混乱しやすいと思います。漱石ほど鴎外は立場上自由ではなかったみたいですね。
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小説家なんて、まともな人間がやる仕事ではないと認識していたから。


これにつきるでしょう。
江戸時代の感覚で言えば、文人が余技で行うのが芸術活動です。余技で生活を考えるなんて、まっとうな人間のやることではなかったのであります。
夏目漱石も、朝日新聞社に入社によって、一種の小説家専業になりましたが、発行物の著作権で生活したわけではない。
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