プロが教えるわが家の防犯対策術!

年は離れていますがいとこの高校生と今日話す機会がありポエニ戦争の話題となりました。そこで二人とも疑問に思った内容を記載しますのでよろしくお願いします。
カルタゴの勇将ハンニバルは5万の兵と37頭の戦象を引き連れてアルプス越えを敢行し、ティキヌスの戦い、トレビアの戦いで連勝し、あの有名なカンナエの戦いではローマ軍に致命的な大打撃を負わせました。それから一気に首都ローマへ進軍すればローマを滅ぼすことができ歴史さえもかわったであろうに、なぜハンニバルはこの時に引き続き首都ローマ攻撃をしなかったのでしょうか?
私は以下のように考えているのですが、(それでも疑問点はありますが)この考え方でいいのでしょうか?  
自分で調べてみてはと批判されるかもしれませんが時間的なこともあり教えていただければ幸いかと思います。誠に勝手ではありますがよろしくお願い申し上げます。

1、度重なる戦闘で兵も象も疲弊していた
2、カルタゴは地中海の向こうに位置しており、海を渡っての兵糧を確保するのが難しかった。(それならばイベリア半島からの兵糧なら確保できたのではないかとの疑問がわきますが)
3、当時の海軍はローマのほうが上であった。いわゆる制海権はローマが握っていた。(でもカルタゴのほうが海上都市であり海軍も強かったのではとの疑問が生じますが)

という内容が考えられますが、それともハンニバルにはもっと別の考えがあったのでしょうか?

それとついでに「ハンニバルのアルプス越え」は有名ですが、このアルプス越えはイベリア半島からどのルートを通ってきたのでしょうか?
これもどうしてもわかりません。 どなたかご存知の方がいれば、これもご教授の程お願い申し上げます。 
 

A 回答 (7件)

http://ja.wikipedia.org/wiki/クィントゥス・ファビウス・マクシムス

ファビウスの持久戦の勝利です。
補給は基本的に現地調達です。なので、ファビウスは焦土作戦と、漸減攻撃となります。
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この回答へのお礼

「ファビウスの持久戦」、高校のときには知らなかった言葉にはじめて目にしました。  「勇将ハンニバルのアルプス越え」と覚えた語句でも、当然ですがいろんな原因や時代背景とかがからみあっているんでしょうね。  だから歴史はやればやるほど面白いというのもそういうことなんですね。

ご教示ありがとうございました。

お礼日時:2009/07/05 06:48

私は、こんな風に考えています。


当時、都市は城壁で囲まれていました。これを包囲して、落とすとなると、とても時間がかかります。
しかも、ハンニバル側も、そこに張り付いていなければなりません。

イタリア半島には、ローマの植民市や同盟市がたくさんありました。
ハンニバルがローマを包囲してじっとしている間に、それらのローマ側の都市が逆にハンニバルを包囲することができてしまうかもしれません。

そうすると、包囲しているはずが、内側と外側から攻められ、とても厳しいことになってしまいます。
ですから、ローマに時間を与えるより、迎撃に来たローマ軍をビシバシ撃破して、「ローマより、カルタゴ側についた方が身のためだぜ」ということを、ローマ側の諸都市に見せ付けたほうが得だと考えたのではないでしょうか。

でも、あれだけハンニバルが見事に勝利を重ねても、ほとんどの都市は最後までローマ側で戦ったというのですから、ローマの外交力というのは大したものだと思います。

アルプス越えのルートは未だに不明だということです。私の手元の本に寄れば、ポリビオス説はグラン・サン・ベルナール峠。ナポレオンもここからアルプスを越えました。あるいはリヴィウス説では、モンジネブロ。その他、いろいろな説があるそうです。
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この回答へのお礼

たいへん丁寧な説明をありがとうございます。 
当時の都市は城壁でかこまれていて攻め落とすのはたいへんだったのでようね。指摘されると改めて納得させられます。

それからおっしゃるとおりローマの外交力は恐るべしですね。このような内容はあまり本とかにも出てこないから、とてもおもしろいし参考になります。ハンニバルをもってしても打ち破れなかったローマの力、背景にはいろんな要因がからんでいそうですね。

アルプス越えのルートの件につきましても、ご説明ありがとうございました。しかしみなさんいろんなことをよく知ってられます。本当に頭のさがる思いです。

お礼日時:2009/07/05 06:13

#1の方と同じですが、ローマを包囲しても落とす前に同盟市から兵がやってきたら食料もない敵地で逆包囲されるでしょう。

ローマを完全包囲しても落とすには少なくとも1年、普通に考えれば2~3年かかると見積もるのが妥当な線だと思います。例えば、第3次ポエニ戦争時のカルタゴは戦争前にすでにほぼ武装解除されていて実質的な軍隊は全くなし&外からの援軍も全く期待できない状態でも3年粘っています。
そこで、ハンニバルが、まずは南イタリアのローマ同盟市を味方につけて、イタリア半島にきちんと拠点を作ってから、ローマ進軍と考えたのは、まずは妥当な線かなとも思います。しかもカンナエ後すぐに、けっこう重要な都市カプアがハンニバル側に寝返ったので、この後、なだれ的に南イタリアの都市が次々に寝返るとハンニバルが考えた、というのもまあありえるかな、と思います。
誤算は、やはり、その後、ローマ同盟市が全く寝返らなかったこと、でしょうね。

ちなみに、第1次ポエニ戦争以降は、地中海の制海権はローマにあります。カルタゴ本国からハンニバルへの補給はほぼ(ごく少量のものを除いて)成功していません。食料はほとんど全て現地調達です。
そもそも、カルタゴに制海権があれば、陸路でアルプスを越える必要もないでしょう。
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この回答へのお礼

私は歴史は専門ではないし、受験勉強のときに何も考えずに単純に覚えたことばかりなので、今回のように現役の高校生と話していると単純な質問にもうまく答えられません。
語句ばかりはすぐに思い出されるのですが、質問に答えれないばかりか、かえって受験勉強当時は何も思わなかった疑問が次から次へとでてくる破目となりました。

いかにセンター試験突破のための点数取りのための勉強に終始していたか、いかに原因や背景などを深く考えていなかったかが露呈されてしまいます。

おっしゃるとおり有名なアルプス越えも、海軍が強ければ行う必要もないことですよね。
当時は単語ばかりを覚えていましたが(ハンニバルのアルプス越えってすごいなあという感覚です)、アルプス越えを行ったということではなく、行わざるを得なかったということですね。  

このようにいろんな人の意見を聞かせていただくと、暗記で凝り固まった自分の頭にとても刺激になります。
丁重なご意見、ありがとうございました。 

お礼日時:2009/07/05 06:42

ほぼ他の方が仰る通りですが、要するに、5万の兵に糧秣を供給する為には、それだけの食料がある土地を移動し続ける必要があったのです。

ローマを包囲した場合、ローマ近辺から糧秣を調達しなければなりませんので、すぐに干上がってしまいます。敵地で留まれば飢えるのが、近世以前の陸軍なのです。ハンニバルには、遥か後方の策源地から物資を輸送できる程重厚な輜重がありません。ですので、機動戦でローマ本国内を荒らし回り、内部分裂を誘うしか手段がなかったのです。ところが、思った以上にローマ人の結束が固かった、と言う事ですね。ハンニバルは賭けに負けた訳です。

この回答への補足

近世以前の陸戦はそういう要素が戦いの勝敗に左右されるんですね。 

日本語がおかしいです。申し訳ありません。

近世以前の陸戦は、そういう要素が戦いの勝敗を左右するんですね。と
訂正させていただきます。

補足日時:2009/07/06 08:46
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この回答へのお礼

近世以前の陸戦はそういう要素が戦いの勝敗に左右されるんですね。 
前の回答でも述べましたが、暗記、暗記で歴史を勉強してきて、いざ深い考え方が問われるときには全然答えられません。

回答者の方は軍事戦力面もよく研究されていおられるとか。他の質問でもおみかけしました。 軍略面と言われると、日本史でも前九年の役(安倍一族)とか倶利伽羅峠の戦い(木曾義仲)応永の乱(大内義弘)とか、世界史ならイッソッスの戦い(アレクサンドロス大王)やナポレオンのワーテルローの戦いとか、次々に新しい疑問がでてきます。
歴史って楽しいですね。また時々質問させていただきますので今後もよろしくお願いします。

 

お礼日時:2009/07/06 08:35

ハンニバルのオヤジさんも将軍で彼は二代目だそうです


ハンニバルの父親もカルタゴ本国の指令に従うカルタゴの
入植地の軍団を率いていて、ハンニバルも生まれは
カルタゴではなく、あまり本国とナジミが無かった
そうです、当時ローマは共和政で、カルタゴも
今で言うシビリアンコントロール、ではないけども
カルタゴ本国の政治家たちが遠征軍に指令を出して
戦争をするので、ハンニバルが名将であって彼の軍団が
強くとも、本国の政治中枢の命令に従わなければ
ならないし、ハンニバルが戦争で勝利し過ぎると
当然、カルタゴ本部はハンニバルの増長を危険視
しますし事実、ハンニバルは初期戦線は勝ち続け
カルタゴ本部は警戒し、ハンニバル軍団がローマを
包囲したときも攻撃命令が本部から出なかったという
ことです。
ハンニバルの好敵手・ローマの将軍スキピオは
若いころカンネーの戦いでハンニバル軍団の捕虜に
なって命は取られなかったそうです、彼は
ハンニバルに勝つにはハンニバルのマネをしようと
して、当時からローマは歩兵が主体の軍団でしたが
北アフリカのカルタゴの騎兵傭兵の民族だった連中を
味方にしてローマの遊軍として投入を始めた
ということです、ローマにはスキピオという名前の
人が多かったため、ハンニバルのライバルの
スキピオは区別のためスキピオ・アフリカヌスといい
ました、彼が北アフリカを研究し詳しく北アフリカの
戦線では強かったことからだそうです。
ハンニバルはイタリア攻略を挫折したあとは本国に
呼び戻されて本国でも将軍を続けましたが
ローマはスキピオ将軍の率いる反撃で、ついに
カルタゴまで上陸し、ザマで両軍は激しく激突
スキピオのローマ軍はカルタゴいがいでは強かった
ハンニバル軍が初めて祖国で戦った激戦で勝利して
ローマはカルタゴに対して優勢になりました。
ですが、これでカルタゴを滅亡させるところまで
いかず、ハンニバルもカルタゴ追放という感じで
命は以後も長らえます、勝利者のスキピオですが
彼は、ほどなく本国で汚職の関与を追及され
失脚したそうです、戦争では強かった将軍が本国で
ハタケ違いの分野で突っ込まれアッサリ
やられちゃうのは皮肉というか
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この回答へのお礼

スキピオの話も含めて、詳しいご説明ありがとうございます。
世界史を勉強したときは確か大スキピオとして覚えました。(当時はなぜ大スキピオとか小スキピオとか覚えていて、面白いなあ、でも不思議だなあというだけで自分で調べようともしませんでした。 説明を読んで納得します。

それから世界史の先生が、雑談でハンニバルと大スキピオの死んだ年(紀元前○○年)が同じ年だという説があるとおっしゃっていたのはよく覚えています。

お礼日時:2009/07/06 08:44

当時の都市は、城壁に囲まれています。


その城壁に囲まれた都市を攻撃するのには、大量の攻城兵器が必要でした。
投石器とかバリスタなどです。
これらの攻城兵器は、機動力が皆無で、野戦ではあしでまといにしかなりません。
攻城兵器が無い状態では、都市を陥落させるのに兵糧攻めしか手がありません。
この当時の都市攻めでは、数ヶ月、場合によっては数年かかる場合もあります。
第三次ポエニ戦争では、カルタゴを攻撃するために、ローマ軍は85000の兵を動員しました。
さらにヌモディアの応援を受けながら、それでもカルタゴを落とすのに3年かかっています。
攻城兵器は、現地で製作して使用しています。
同盟都市もほとんどなく、地中海世界を圧倒するローマが、落日のカルタゴを攻略するのに3年かかるのです。
ハンニバルがローマ攻略を実行したとすれば、ローマ以外の都市は完全に安全となり、ハンニバルは、敵中で孤立してしまいます。
攻城戦において、戦象は、全く役に立ちませんし。
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この回答へのお礼

軍事力のあるローマと商人の都市カルタゴでは勝敗の結末はみえていたのでしょうね。 それでも城壁都市に囲まれたカルタゴが陥落するのに3年かかったのですね。  わたしのうる覚えの記憶では、ローマがどこかに移転することを条件に出したけれど、カルタゴが断ったために最後は相当に悲惨な結末を迎えたらしいですね。 

カルタゴの滅亡までを詳細に教えていただきありがとうございます。
歴史にのめりこんでみたいなという衝動にかられます。

お礼日時:2009/07/06 19:24

 皆さんの回答通りです。


 
 全体像を大きく把握したければ、
塩野七生「ローマ人の物語」第2巻を読んでください。

「ローマ人の物語」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC% …

 ローマ史における名著だと思います。
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この回答へのお礼

「ローマ人の物語」という本はしりませんでした。紹介していただきありがとうございます。 さっそく読んでみようと思います。

いろんな人間模様がでてきそうで楽しみです。

お礼日時:2009/07/06 19:28

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